ベアトリーチェ以外、いらない。

阿波野治

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河馬

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 再び歩き出してからは、通行人はことごとく私と同じ方向に進んでいる気がした。原因について思案しようとした矢先、既視感を覚える音声が耳に届いた。一瞬息を止めた私の右脇を、金髪サングラスの男性が擦れ違っていく。
 驚きも恐怖もない。永遠に再生され続けるのだな、とただ思う。二度目の彼も、最初の彼と同じく中途半端に曖昧模糊としていた。屋上のクッションと、男性の髪の毛の色の相似に今さらながらに気がついたが、この符号に重要な意味が隠されているとは思えない。
 私が見ていない間も、棒人間は落下し続けているのだろうか? 飛び降りた以上は、落下したかろうがしたくなかろうが、落下する以外に選択肢はない。既に地面に叩きつけられているのか、現在もその状態に置かれているのか。どちらにせよ、私が棒人間のためにしてやれることは何一つない。
 歩こう。ただひたすら歩き続けよう。私の目的はベアトリーチェに到達することなのだから。
 進行方向に横断歩道が見えた。直進すると仮定した場合、歩行者信号は赤だ。周囲の人物も景色も曖昧模糊としているにもかかわらず、前方にあるのは歩行者信号で、現在は赤だと認識できる。
 歩道の最前線、横断歩道の一本目の白線の手前で歩行を停止する。人通りの多さの割に一帯は静穏だ。音声が全く発生していないわけではないが、聞き分けることはできない。
 踏み締める路面の硬さが無性に気にかかる。天変地異に見舞われたとしても、罅一つ入らないと思われるほどに堅固。あたかも、地中に存在する稀少なものを保護する目的で強化されているかのようだ。
 心眼をもって地中を見透かすと、一頭の河馬が収容された水槽が目に飛び込んできた。鰓呼吸をする生き物ではないにもかかわらず、全面硝子張り。南国の海水を思わせる緑がかった水が満杯に湛えられ、息継ぎをする余地は潔癖症的に排除されている。
 一頭の河馬が、短く太い四肢をどこか不器用に動かし、スローモーションにもがくように泳いでいる。分厚い脂肪に覆われた尻の付近で、突然、黄土色のものが爆ぜた。数瞬のタイムラグを経て、脱糞したのだ、と理解する。
 糞便は緩慢に溶け広がりながら、溶け広がる速度よりも緩慢に浮上していく。水槽に逃げ場はないことを知らない半固形状のそれは、あるいはそれらは、痴呆じみた呑気さで上へ、上へと向かう。
 緩慢なのは、アフリカ大陸のサハラ砂漠以南に棲息する、気性の荒さはあまり知られていないその大型草食動物の挙動も同じだ。ただし進む方向が異なり、太短い足を動かして愚直に直進している。障壁があることに気がつかないのか、承知の上なのか、側壁に鼻から衝突し、醜く変形した。硝子板が微震する程度の衝突に過ぎなかったが、地上にいる私の脳髄も確かに揺れ動いた。
 これは、ベアトリーチェと関係がある映像なのだろうか?
 私はベアトリーチェと共に河馬を見た記憶がない。動物園でも、動物図鑑でも、動物の生態を特集したテレビ番組でも。彼女の性癖は把握しきれていないが、悪臭を好む変態的な趣味嗜好を持っていないのは、少なくとも確実だ。私の認識では、人前で平気で糞をする生き物と、彼女の聖性は相容れない。
 棒人間の墜落も含め、精神の僅かな綻びにつけ込んで忍び込んだ、チープな悪夢のようなものなのだろうか? そうとしか解釈のしようがない。ベアトリーチェを巡る旅路は、記憶を辿った限りではまだ始まったばかりだというのに、先が思いやられる。
 横断歩道の中程に、一台の自動車が停まっている。黒光りするボディは怪獣に蹴飛ばされたかのようにひしゃげていて、原型を留めていない。出されるように肉色の内部が露出した有り様は、腹部の傷口から臓物を露出させた動物の死骸を連想させる。立ち位置はそのままに、顔の位置を微調整しながら車内を隈なく探したが、人間の姿は認められない。
 運転手の行方が気にかかる。奇跡的に難を逃れ、現場から逃げ去ったのか。現在地からは視認できない車内のどこかで、車と共に潰れているのか。車体がひしゃげて押し縮められ、車内が狭くなっていることを考えれば、後者の可能性は低そうだ。
 赤ん坊ならばあるいは、と思うと同時、赤ん坊の泣き声が聞こえた。聞き取れたのが奇跡に思えるほど音量は微かで、ものの二・三秒で無音に帰した。猫の鳴き声にも、女性の押し殺した泣き声にも似た声だ。
 ベアトリーチェ? まさか。
 幻聴? 分からない。
 信号は依然として赤だ。座席の肉色と比べると、信号の赤紫に近い赤はいかにも人工的で、どこか死んだ印象を受ける。
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