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棒人間
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薄霧のせいだ、と仮定してみる。
現在地からは遠く隔たった場所に、永年薄霧に包囲された街がある。その中央に、ゴチック様式の時計塔が建っている。
時計塔の時計は、夜間を除く時間帯に、一時間に一回、世にも荘厳な鐘の音を響かせていた。視界が悪いこの街で暮らす人々にとって、時報は貴重な情報源だったが、それも今は昔。機械の老朽化を主因に、騒音問題と人件費の削減を副因に、三本の針と十二個の数字により、現在時刻を報知する以外の役目は既に引退している。
一時間ごとに鐘が鳴っていた時代を知る老人の中には、時計塔の前を通りかかるたびに足を止めるか緩めるかして、その威容を仰ぎ見る者も少なくない。喧噪に紛れて、蚊が鳴くような音量で鐘が鳴るのが聞こえることが稀にある。そう証言する者も僅かながら存在する。
幻聴か否かを見極めるべく、外套を着込んだ白頭の老婆は巨大な文字盤を仰ぎ見る。深い青色の瞳の先では、ブロンズ色の秒針が厳然と時を刻み、黄金色の時針と白銀色の分針が遅々とした速度で追随している。右手に提げた手提げ鞄の口からは、一本の長大なバゲットの先端が覗いていて、香ばしい香りを周囲に拡散している。
老婆の横を通り過ぎる幻影の私は、バゲットの匂いは幻臭ではないか、と疑う。それが歴とした本物のバゲットであり、老婆がベアトリーチェだと気がつくのは、帰宅後。コーヒーを淹れるための湯が沸くのを待つべく、ダイニングテーブルに頬杖をついて窓外を眺めている時のことだ。
居ても立ってもいられなくなるが、ベアトリーチェが相手ではあまりにも遅すぎる。立ち上がりかけた体を椅子に沈め、幻影の私は沈思黙考する。
老婆は本当にベアトリーチェなのか? ベアトリーチェに到達したいと思うあまり、創り出した幻影なのではないか? ベアトリーチェ本人だとしたら、老化などという現象が彼女の身に起こり得るのか?
靴が奏でる音がいつの間にか止んでいる。遥か後方、私には見えない世界で、ロックミュージシャン風の男性が今、肥満した黒猫を追い抜いた。私は導かれるように顔を上げた。
彼方に高層ビルが天高く屹立している。時計塔かと一瞬錯視したが、空想の産物が実在するはずがない。周辺に比較対象が不在のため、正確な大きさは掴みづらいが、とにかく長大なビルだ。
ビルの屋上には、大量の黄色いものがこんもりと積み上げられている。物体自身と同色の淡い光を発しているらしく、灰色の空がビルの屋上の周囲だけ仄かに青い。黄色の光が発せられると灰色が青色に変わる原理は定かではないが、黄色いものが発する淡い光の仕業だとしか私には思えない。色合いと、いかにも柔らかそうに密集している様子から判断するに、落ち葉だろう。ビル本体は灰色に近い銀色で、表面は光沢を帯びていて滑らかだ。空は鼠色に近い銀色だから、ビルはビル、空は空だと区別がつく。
突然、ビルの屋上から何かが落下した。反射的に目を凝らすと、直近の視力測定の結果によれば一・〇の視力が急激に上昇した。副作用なのか、嘔吐感にも似た微かな不快感を喉の深奥に覚えたが、代償として、落下した何かの正体が詳らかになった。
棒人間だ。頭部が円、首から胴体にかけてが一本の棒、四肢が四本の棒で構成された、棒人間。私の目には砂粒ほどの大きさだが、形が至極単純なことや、体に厚みがないことが見て取れる。全身がブラックホールを連想させる濃密な漆黒だが、それでいて、背景の灰色の空が見え透くようでもある。
棒人間はビルの外壁に沿って垂直に下降する。ビルが高すぎるせいか、落下速度が遅く感じられる。あまりにも遅いので、パラシュートでも装着しているのではないかと疑ったが、どれほど目を凝らしても棒人間は棒人間だ。心に余裕を持ちながら落下しているように見えるのは、速度の遅さ故だろう。それともまさか、地面への衝突を回避する術を心得ているとでもいうのか。あるいは、私がいる場所からは視認できないが、落下が予測される地点にクッションが待ち受けているだとか。
飛び降りてから少なくとも数秒が経過したが、棒人間は未だに屋上に極めて近い空を落下している。ビルが高すぎるせいなのかもしれないが、それにしても遅すぎる落下速度だ。有り得ないと思いながらも、永遠に落下し続ける可能性を疑ってしまう。
棒人間がベアトリーチェ自身ではなく、ベアトリーチェの変形でもない以上、向き合っても時間の無駄だ。視線を切り、歩行を再開する。
棒人間とはいえ、人間の範疇に属する存在がビルから飛び降りるという衝撃的な光景を目の当たりにしたのだから、思わず足を止めて見入ってしまったのも無理はない。そう己の行為を正当化してみる。立ち止まってからビルを眺める態勢に入った気もするが、どちらが正しいのか。遠くない過去の出来事にもかかわらず、思い出せない。
内心首を傾げながらも、歩くことは止めない。目的地は未来にしか存在しないから、去るものは去るに任せておく。些細な疑問は、未来よりも圧倒的な広がりを持つ過去へと一足ごとに流され、やがて無への合流を果たす。
現在地からは遠く隔たった場所に、永年薄霧に包囲された街がある。その中央に、ゴチック様式の時計塔が建っている。
時計塔の時計は、夜間を除く時間帯に、一時間に一回、世にも荘厳な鐘の音を響かせていた。視界が悪いこの街で暮らす人々にとって、時報は貴重な情報源だったが、それも今は昔。機械の老朽化を主因に、騒音問題と人件費の削減を副因に、三本の針と十二個の数字により、現在時刻を報知する以外の役目は既に引退している。
一時間ごとに鐘が鳴っていた時代を知る老人の中には、時計塔の前を通りかかるたびに足を止めるか緩めるかして、その威容を仰ぎ見る者も少なくない。喧噪に紛れて、蚊が鳴くような音量で鐘が鳴るのが聞こえることが稀にある。そう証言する者も僅かながら存在する。
幻聴か否かを見極めるべく、外套を着込んだ白頭の老婆は巨大な文字盤を仰ぎ見る。深い青色の瞳の先では、ブロンズ色の秒針が厳然と時を刻み、黄金色の時針と白銀色の分針が遅々とした速度で追随している。右手に提げた手提げ鞄の口からは、一本の長大なバゲットの先端が覗いていて、香ばしい香りを周囲に拡散している。
老婆の横を通り過ぎる幻影の私は、バゲットの匂いは幻臭ではないか、と疑う。それが歴とした本物のバゲットであり、老婆がベアトリーチェだと気がつくのは、帰宅後。コーヒーを淹れるための湯が沸くのを待つべく、ダイニングテーブルに頬杖をついて窓外を眺めている時のことだ。
居ても立ってもいられなくなるが、ベアトリーチェが相手ではあまりにも遅すぎる。立ち上がりかけた体を椅子に沈め、幻影の私は沈思黙考する。
老婆は本当にベアトリーチェなのか? ベアトリーチェに到達したいと思うあまり、創り出した幻影なのではないか? ベアトリーチェ本人だとしたら、老化などという現象が彼女の身に起こり得るのか?
靴が奏でる音がいつの間にか止んでいる。遥か後方、私には見えない世界で、ロックミュージシャン風の男性が今、肥満した黒猫を追い抜いた。私は導かれるように顔を上げた。
彼方に高層ビルが天高く屹立している。時計塔かと一瞬錯視したが、空想の産物が実在するはずがない。周辺に比較対象が不在のため、正確な大きさは掴みづらいが、とにかく長大なビルだ。
ビルの屋上には、大量の黄色いものがこんもりと積み上げられている。物体自身と同色の淡い光を発しているらしく、灰色の空がビルの屋上の周囲だけ仄かに青い。黄色の光が発せられると灰色が青色に変わる原理は定かではないが、黄色いものが発する淡い光の仕業だとしか私には思えない。色合いと、いかにも柔らかそうに密集している様子から判断するに、落ち葉だろう。ビル本体は灰色に近い銀色で、表面は光沢を帯びていて滑らかだ。空は鼠色に近い銀色だから、ビルはビル、空は空だと区別がつく。
突然、ビルの屋上から何かが落下した。反射的に目を凝らすと、直近の視力測定の結果によれば一・〇の視力が急激に上昇した。副作用なのか、嘔吐感にも似た微かな不快感を喉の深奥に覚えたが、代償として、落下した何かの正体が詳らかになった。
棒人間だ。頭部が円、首から胴体にかけてが一本の棒、四肢が四本の棒で構成された、棒人間。私の目には砂粒ほどの大きさだが、形が至極単純なことや、体に厚みがないことが見て取れる。全身がブラックホールを連想させる濃密な漆黒だが、それでいて、背景の灰色の空が見え透くようでもある。
棒人間はビルの外壁に沿って垂直に下降する。ビルが高すぎるせいか、落下速度が遅く感じられる。あまりにも遅いので、パラシュートでも装着しているのではないかと疑ったが、どれほど目を凝らしても棒人間は棒人間だ。心に余裕を持ちながら落下しているように見えるのは、速度の遅さ故だろう。それともまさか、地面への衝突を回避する術を心得ているとでもいうのか。あるいは、私がいる場所からは視認できないが、落下が予測される地点にクッションが待ち受けているだとか。
飛び降りてから少なくとも数秒が経過したが、棒人間は未だに屋上に極めて近い空を落下している。ビルが高すぎるせいなのかもしれないが、それにしても遅すぎる落下速度だ。有り得ないと思いながらも、永遠に落下し続ける可能性を疑ってしまう。
棒人間がベアトリーチェ自身ではなく、ベアトリーチェの変形でもない以上、向き合っても時間の無駄だ。視線を切り、歩行を再開する。
棒人間とはいえ、人間の範疇に属する存在がビルから飛び降りるという衝撃的な光景を目の当たりにしたのだから、思わず足を止めて見入ってしまったのも無理はない。そう己の行為を正当化してみる。立ち止まってからビルを眺める態勢に入った気もするが、どちらが正しいのか。遠くない過去の出来事にもかかわらず、思い出せない。
内心首を傾げながらも、歩くことは止めない。目的地は未来にしか存在しないから、去るものは去るに任せておく。些細な疑問は、未来よりも圧倒的な広がりを持つ過去へと一足ごとに流され、やがて無への合流を果たす。
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