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ぼんやりとした意識の中、不愉快ではないが落ち着かない気分が長く続いている。
落ち着かない気分というのは、一般的には不愉快の範疇に属するのだろう。しかし個人的な感覚からいえば、現在進行形で味わっている感覚は、不快感とは似て非なるもののように感じられる。
その気分から逃れるために、早く目覚めたかった。不愉快だからではなく、感情の源泉を確かめるために。一方で、現状に浸っていたいという、矛盾する欲求も同居している。
身を委ねるのは、眠気か、好奇心か。贅沢にも思える二者択一は、睡魔の力が刻一刻と減退していることに気づいた瞬間、自ずと一つに絞られた。
目を覚まそう。目覚めて、ままならぬ世界で活動することを選ぼう。
瞼を開くと、少女の顔が視界に大きく映し出された。スイッチが切り替わる音が僕の中で聞こえ、眠気が一瞬にして跡形もなく消え去る。少女の名は、
「九条翡翠。憲法九条の九条に、宝石の翡翠」
レスポンスの言葉は瞬時に頭に浮かんだ。しかし、口にするよりも一瞬早く、
「なぜ自己紹介をしたのかって? 君は寝ぼけているせいで、あるまじきことに、私の名前を一時的に失念している。だから、したの」
「……どうして」
「どうして考えていることが分かったのかって? 私は予知能力の持ち主だから、誰かが言おうとしていることを先読みできるの。そんなことまで忘れちゃったの? 遠藤裕也くん」
顔が近づいて視界が暗くなり、頬に柔らかいものが軽く押しつけられた。一秒、二秒、三秒と、甘美で微弱な圧力が持続し、ゆっくりと離れる。暗さが退潮していき、視界に映し出されたのは、再び九条さんの顔。微笑んでいる。
「遠藤くん、おはよう」
右手が差し伸べられる。半ば自動的に右手が動き、その手を握っていた。引っ張る力を借りて上体を起こす。華奢な体からは信じられないくらい、頼もしい力だ。
九条さんは悠然たる歩の運びで小屋を出た。肩越しにこちらを振り向いた顔は、朝日に照らされて淡い金色に輝いている。上半身を立てるのを手伝ってくれたときのように、僕へと右手を差し出す。
「下に下りて、顔を洗ってこよう。付き添ってあげる。冷たくて気持ちいいよ」
自分でも信じられないほど巨大な感情が込み上げてきて、思わず涙ぐんでしまう。
この感情の正体は、なんなんだ? 最初、僕を不愉快にさせるものが不在であることが嬉しいのかと思ったが、多分違う。
寄り添ってくれる人がいるのが嬉しいのだ。
九条さんが話しかけてきてくれた日の夜を思い出す。あの日も両親はくだらないことで諍いをした。それでも僕は、普段よりも気分を落ち込ませることなくやり過ごせた。
世の中は多かれ少なかれ、一人の人間の思い通りにはならない。超大国の大統領だろうと、島国の地方都市で暮らす高校生だろうと、その点に関しては平等だ。だからこそ、寄り添ってくれる人が必要なのだ。挫けることなく、押しつぶされることなく、暗い世界を歩いていくための光が。
出会った日の夜、九条さんはまだ遠い存在だったが、それでも僕の心に大きな影響をもたらした。寄り添う人になってくれるのだという予感、あるいは思い込み、それだけでも輝かしい光となるのだ。
それが時を経て、実際に寄り添う人になってくれたのだから――なるほど、感情が込み上げたのも頷ける。
涙は出なかった。待たせたくない。立ち上がって小屋を飛び出し、こちらから九条さんの手を握る。
必然のように交わしたささやかな笑み。目的地に辿り着くまでの心地よい無言。川の水の冷たさに上げた歓声。
それが今の僕たちの全てだった。
落ち着かない気分というのは、一般的には不愉快の範疇に属するのだろう。しかし個人的な感覚からいえば、現在進行形で味わっている感覚は、不快感とは似て非なるもののように感じられる。
その気分から逃れるために、早く目覚めたかった。不愉快だからではなく、感情の源泉を確かめるために。一方で、現状に浸っていたいという、矛盾する欲求も同居している。
身を委ねるのは、眠気か、好奇心か。贅沢にも思える二者択一は、睡魔の力が刻一刻と減退していることに気づいた瞬間、自ずと一つに絞られた。
目を覚まそう。目覚めて、ままならぬ世界で活動することを選ぼう。
瞼を開くと、少女の顔が視界に大きく映し出された。スイッチが切り替わる音が僕の中で聞こえ、眠気が一瞬にして跡形もなく消え去る。少女の名は、
「九条翡翠。憲法九条の九条に、宝石の翡翠」
レスポンスの言葉は瞬時に頭に浮かんだ。しかし、口にするよりも一瞬早く、
「なぜ自己紹介をしたのかって? 君は寝ぼけているせいで、あるまじきことに、私の名前を一時的に失念している。だから、したの」
「……どうして」
「どうして考えていることが分かったのかって? 私は予知能力の持ち主だから、誰かが言おうとしていることを先読みできるの。そんなことまで忘れちゃったの? 遠藤裕也くん」
顔が近づいて視界が暗くなり、頬に柔らかいものが軽く押しつけられた。一秒、二秒、三秒と、甘美で微弱な圧力が持続し、ゆっくりと離れる。暗さが退潮していき、視界に映し出されたのは、再び九条さんの顔。微笑んでいる。
「遠藤くん、おはよう」
右手が差し伸べられる。半ば自動的に右手が動き、その手を握っていた。引っ張る力を借りて上体を起こす。華奢な体からは信じられないくらい、頼もしい力だ。
九条さんは悠然たる歩の運びで小屋を出た。肩越しにこちらを振り向いた顔は、朝日に照らされて淡い金色に輝いている。上半身を立てるのを手伝ってくれたときのように、僕へと右手を差し出す。
「下に下りて、顔を洗ってこよう。付き添ってあげる。冷たくて気持ちいいよ」
自分でも信じられないほど巨大な感情が込み上げてきて、思わず涙ぐんでしまう。
この感情の正体は、なんなんだ? 最初、僕を不愉快にさせるものが不在であることが嬉しいのかと思ったが、多分違う。
寄り添ってくれる人がいるのが嬉しいのだ。
九条さんが話しかけてきてくれた日の夜を思い出す。あの日も両親はくだらないことで諍いをした。それでも僕は、普段よりも気分を落ち込ませることなくやり過ごせた。
世の中は多かれ少なかれ、一人の人間の思い通りにはならない。超大国の大統領だろうと、島国の地方都市で暮らす高校生だろうと、その点に関しては平等だ。だからこそ、寄り添ってくれる人が必要なのだ。挫けることなく、押しつぶされることなく、暗い世界を歩いていくための光が。
出会った日の夜、九条さんはまだ遠い存在だったが、それでも僕の心に大きな影響をもたらした。寄り添う人になってくれるのだという予感、あるいは思い込み、それだけでも輝かしい光となるのだ。
それが時を経て、実際に寄り添う人になってくれたのだから――なるほど、感情が込み上げたのも頷ける。
涙は出なかった。待たせたくない。立ち上がって小屋を飛び出し、こちらから九条さんの手を握る。
必然のように交わしたささやかな笑み。目的地に辿り着くまでの心地よい無言。川の水の冷たさに上げた歓声。
それが今の僕たちの全てだった。
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