僕は君を殺さない

阿波野治

文字の大きさ
上 下
10 / 66

10

しおりを挟む
「それで、遠藤くんはどうしたいの?」
 臆することなく僕の顔を見つめながら、九条さんはおもむろに問うた。

「えっと、どういう意味?」
「私が自殺願望を持っている人間である可能性が高い、と遠藤くんは判断したわけだよね。それを踏まえて、遠藤くんは私にどんな働きかけを行いたいと考えているの? 自殺の意思を手放すように説得する。関わり合いになりたくないから放っておく。信頼できる人間に相談するように促す。他にもいろいろ考えられると思うけど」

 そう言われて初めて、その段階まで考えを推し進めたことが一度もない、という事実に気がつく。
 さて、困ったことになった。
 僕は黙考する。九条さんは会話の中断を快く容認してくれた。

 選択肢はある程度絞られるので、驚くほど早く、おぼろげながらもビジョンが見えた。ただ、具体化していく作業ははかどらない。九条さんは寛大さを示してくれているとはいえ、納得がいく答えに辿り着くまで思案に耽るのはいかがなものか。

「こうするべきじゃないかな、という方向性は見えている。ただ、具体的にどうしたいのかって訊かれたら、答えるのは難しいかもしれない」
「難問なんだ」
「そうだね。少なくとも、今の僕にとっては」

 発せられた吐息は無声だったが、ふぅん、という声が聞こえた気がした。九条さんは音もなく立ち上がり、義務感に促されたような手つきで尻を払う。

「九条さん、どうしたの?」
「暑い。教室はクーラーがきいているから、帰ろうかと」
「僕の答えは……」
「具体性がまだ伴っていないんでしょう? だったら、答えられるときが来るまで付き合う意味はないよね。今日中は無理そう?」
「えっと、どうだろう」
「長くなりそうだよね、遠藤くんのその感じだと。じゃあ、明日は終業式だから、明日の放課後を期限にしよう。昨日声をかけたあたりでまた呼び止めるから、話せるようだったら話して。それじゃあ」

 九条さんの両足は靴音を奏でない。淀みのない指づかいでドアの鍵を開け、開いた隙間を潜り抜け、鉄製の障壁が閉ざされる。階段を下る足音は、すぐに無音と判別がつかなくなった。


* * *


 蝉時雨がうるさい。不規則に吹きつける風は、心なしか、九条さんといるときよりも蒸し暑い。
 ぬるい野菜ジュースで口腔に潤いをもたらしながら、昼食のパンをかじる。黙々と、淡々と。なにか考えるべきことがあるとき、よくこうなる。今回の対象は、言うまでもなく九条さんだ。

 仮に彼女と一緒に食べていたとしたら、どんなふうに時間は流れていったのだろう? 願望を交えずに想像するならば、交わした言葉の数は少なかっただろう。下手をすると、始まりから終わりまで無言だったかもしれない。
 しかし、気まずい雰囲気とは無縁だっただろう。少なくとも、日を跨いで尾を引くような深刻な気まずさとは。風や空気は蒸し暑く感じられたにせよ、不愉快ではなかったはずだ。聞こえてくる雑音は、聞いた直後には永遠に忘れてしまっていたに違いない。
 この広い世界には、僕と九条さんの二人しか存在しない。そう心から勘違いした瞬間ですら、何度かあったはずだ。

 パンの体積とパックの残量は、着実に減じ、不可逆的にゼロへと向かっていく。それらの推移と、混沌としていた想念が秩序を帯びていく変化の様相は、極論するならば反比例している。
 とはいえ、九条さんに伝えられる程度のまとまりを獲得するには、もう少し時間がかかりそうだ。
 明日まで待つ必要があると判断した彼女の慧眼には驚かされる。

 やっぱり、予知能力の持ち主なのかもしれないな。
 そう考える僕の心は、随分ゆとりがあるようだ。


* * *


 共に過ごした時間は短かったが、それでも屋上でのひとときと比べると、学校生活は酷くくだらないものに感じられる。談笑する高木さんの大きすぎる声。古文教師の宮下の睡魔を召喚する語り口。気が弱い生徒ばかりが損を被る掃除当番。なにもかもがくだらない。
 屋上でのひとときを演出してくれた張本人――九条さんと同じ空間に身を置きながら、この様とは。
 コミュニケーションをとってこその九条さんなのだと、午後からの時間で僕は学習した。

 帰り道で考えを話す日は、今日ではなく明日だ。的中させるのは至難の業に思える約二十時間後の自分を、それでも頭の一隅で漠然と想像しながら、問題の地点に差しかかる。なんの変哲もない民家。老朽化が進んだ木造アパート。空き缶が転がっている狭隘な空き地。なにからなにまで平凡で、運命の出会いが発生した場所らしくないし、約束の地らしくない。
 しかしその事実は、九条さんに対する熱にはなんら影響を及ぼさない。

 諍いは相変わらずだったが、珍しく帰宅時間が重ならなかったのもあり、両親の間に険悪なムードが漂っていた総時間は平均を下回った。口論の原因は世にもつまらないし、声が聞こえている間は嫌な気持ちになるのは避けられない。それでも、苦痛に晒される時間が短いのは、僕にとって歓迎するべきことだ。
 そのおかげもあって、死んでしまいたい、と思うくらいに気分が落ち込む瞬間は、その日は一度も訪れなかった。

 説明文がまだ整いきっていないだけで、方向性は定まっている。
 僕の意識は、大地にどっかりと腰を落として、近い未来を見据えていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

野球部の女の子

S.H.L
青春
中学に入り野球部に入ることを決意した美咲、それと同時に坊主になった。

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

意味がわかるとえろい話

山本みんみ
ホラー
意味が分かれば下ネタに感じるかもしれない話です(意味深)

My Doctor

west forest
恋愛
#病気#医者#喘息#心臓病#高校生 病気系ですので、苦手な方は引き返してください。 初めて書くので読みにくい部分、誤字脱字等あると思いますが、ささやかな目で見ていただけると嬉しいです! 主人公:篠崎 奈々 (しのざき なな) 妹:篠崎 夏愛(しのざき なつめ) 医者:斎藤 拓海 (さいとう たくみ)

異世界TS転生で新たな人生「俺が聖女になるなんて聞いてないよ!」

マロエ
ファンタジー
普通のサラリーマンだった三十歳の男性が、いつも通り残業をこなし帰宅途中に、異世界に転生してしまう。 目を覚ますと、何故か森の中に立っていて、身体も何か違うことに気づく。 近くの水面で姿を確認すると、男性の姿が20代前半~10代後半の美しい女性へと変わっていた。 さらに、異世界の住人たちから「聖女」と呼ばれる存在になってしまい、大混乱。 新たな人生に期待と不安が入り混じりながら、男性は女性として、しかも聖女として異世界を歩み始める。 ※表紙、挿絵はAIで作成したイラストを使用しています。 ※R15の章には☆マークを入れてます。

[恥辱]りみの強制おむつ生活

rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。 保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

処理中です...