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私が悪いのだろうか?

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 背後から狂人に刃物を突きつけられて、道案内役を務めさせられる――。
 俺は今、物凄く貴重な体験をしている最中だ。もっとも、快い体験では決してない。誰でもいいから替わってくれ。叫べるものならそう叫びたい。

 麦が芝居を打ってまで黒衣の女をかばおうとしたのはなぜか? 報酬を得るために、女から織田信長を摘出したかったから。これ以外に考えられない。
 だが、麦は重大なミスを一つ犯した。それは明智光秀として実力が劣る俺を女と二人きりにしてしまったことだ。今のところは平穏無事に来ているが、もし戦うなんてことになったら――。

 666号室に着いた。鍵を開け、ドアも開ける。女は俺に一瞥もくれずに入室。中央付近で足を止め、室内を見回す。

「――おい!」

 いきなり女に呼ばれた。こちらではなく、掃き出し窓の方を向いている。

「は、はい! なんでしょう?」
「貴様、逃げるんじゃないぞ。ずっとそこにいて、邪魔者が来たら追い返すんだ。分かったな?」
「わ、分かりました……」

 女は小さく頷くと、掃き出し窓に歩み寄り、開け放った。そのままベランダに出て、フェンスから上半身を乗り出して下の様子を確かめている。
 この隙に、俺は手袋を両手に履いた。
 姫ちゃんの件があって以来、何枚かの手袋と何個かの小瓶を麦から譲り受け、常に持ち歩くようにしている。戦わないに越したことはないし、今のところ戦闘に突入する気配はないが、備えあれば憂いなし、というやつだ。

 一分以上にわたって地上の様子を確認し、室内に戻ってきた。窓は開け放したまま部屋の中央に戻り、鬼の形相ながらも、どこか落ち着きのない様子であたりを見回す。そうかと思うと、俯き、左腕に抱いたままのウサギのぬいぐるみをじっと見つめる。

 女は666号室を使うと言っていたが、なにに使うつもりなのか、今のところ全く見えてこない。フロント係のお姉さんの胸倉を掴み、包丁を振りかざし、怒鳴り声を上げていた時の激しさが鳴りを潜めているだけに、却って不気味だ。

「おい」

 不意に顔が持ち上がったかと思うと、再び呼ばれた。

「座れ」

 包丁の先でベッドを指し示し、顎をしゃくって促す。

「えっと、どうして――」
「いいから座れ!」

「はい!」と無駄に元気よく返事をしてベッドまで直行。腰を下ろすと、女が隣に座った。……凄まじいプレッシャーだ。

「これ、どう思う?」

 そう言って差し出したのは、左腕に抱いていたウサギのぬいぐるみ。ここで初めて、ぬいぐるみをじっくりと観察する機会ができた。
 全高は四十センチほど。幼児のオモチャと仮定した場合、大きなぬいぐるみと言えるかもしれない。左耳が真ん中あたりで折れている。元は全身真っ白だったようだが、今は黒く汚れていて、縫い合わせて補修した跡が何箇所も認められる。傷にも見える背中の穴は、どうやら小物入れらしい。このスペースに包丁を隠していたのだろうか。

「えっと、かなり汚れているみたいですけど」
「当たり前だ。このぬいぐるみは、幼少時に母からプレゼントされたものなのだから」

 驚いた。現在の女と、ぬいぐるみを愛でる子供の姿が結びつかなかったからだが――よくよく考えれば、女は生まれつき織田信長だったわけではないはずだ。ごく普通の幼少時代、ごく普通の少女時代が、当然のことながらあったわけで。

「このウサギは昔から、私の負の感情を受け止める役割を担う存在だった。年月だけではなく、負の感情がウサギをこんな姿にしたんだ」
「負の感情……」

 頷き、ぬいぐるみを自らの膝の上に座らせ、それを見下ろしながら女は語り始めた。

「幼い頃から正体不明の息苦しさを感じてきた。私が悪いのだろうか? 子供だった私はそう疑った。……弱い人間ほど自分を責めるものだからな。私なりに試行錯誤をしたが、一向によくならない。息苦しさは解消されるどころか、歳を重ねるにつれて酷くなっていく。遅まきながら私は悟った。ああ、周りが悪いんだ、私に責任はないんだ、と」

 次第に早口になっていく。聞き手の存在を無視した語りなのは明らかだ。置いていかれないよう、意識と耳を声に集中させる。

「そう悟ったのを境に、周りの人間がゴミに見え始めた。うるさいゴミ、人に危害を加えてくるゴミ、役立たずなゴミ。ゴミゴミゴミゴミゴミゴミゴミ。どこもかしこもゴミばかり。そんなゴミどもも、元を辿ればゴミではなかったはず。元に戻るチャンスをやろう。命拾いしたと思って改心しろ。そう寛容な態度で接してきたんだが――ゴミは所詮ゴミということか。やることなすこと、全部ゴミ。汚らしくて、浅ましくて、臭くて……」

 過去に人間関係で深刻なトラブルがあったことを匂わせる口振りだ。ゴミという単語を口にする際の声と表情からは、並々ならぬ憎悪の念が読み取れた。
 でも、なぜだろう。己の過去について語り始めてからの女からは、あまり怖さを感じない。

 息継ぎをする以外は休むことなく、女は喋り続ける。話は先に進んだかと思うと後戻りし、似たような台詞を何回も繰り返す。自らが体験した過去について語り、批評しているうちに感情的になり、その都度新たな非難の言葉を加えるせいで、話が悪戯に長引いているのだ。非難といっても、声を荒らげることはない。同じ誰かを攻撃するのでも、フロント係のお姉さんの胸倉を掴んでナイフを振りかざしていた時とは、明らかに様子が違う。

「――我慢も限界だから、私は消すことにしたんだ。文字通りのゴミ掃除、というわけだ」

 不意に話がある一線を越えた。失われかけていた集中力が急速に戻ってくる。

「だが決行直前になって、私は足を止めた。ゴミを消してもまた新たなゴミが現れるだけで、際限がない。では、死ぬまでゴミどもに囲まれて息苦しい思いをしなければならないのか? そんなのは嫌だ。なぜならば、もう限界だからだ。私も、このぬいぐるみも」

 口元に微笑を灯す。そうかと思うと、ぬいぐるみの頭と尻を両手で掴み、左右に引っ張った。強い力を加えたようには見えなかったが、ぬいぐるみは呆気なく真っ二つに引き裂かれ、内部から綿を溢れさせながら床に落ちた。

「この世界から完全にゴミを取り除けないのなら、仕方がない」

 ぬいぐるみを踏みつけて立ち上がる。

「ゴミではなく、私がこの世界から消えるしかない」

 微笑は今や満面に行き渡っている。人を食ったようなところはあるが、凪のように穏やかな微笑みだ。

 なにをするつもりだ。
 言わんとしたことを察したらしく、女は微笑みを崩さずに答えた。

「死ぬの。――さようなら」

 俺に背を向け、ベランダに向かって駆け出した。六階――ベランダ――飛び降り自殺……!

「走れっ!」

 突然、後方から大声。振り向くと、部屋と廊下の境界に麦が立っていた。私がここにいることに驚いている暇があるなら、走れ。顔にはそう書いてあった。
 顔の向きを戻し、俺は走り出した。
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