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深淵の孤独③
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その時は唐突に訪れた。
現在進行形で感じていた闇の深まりが、不意に感じられなくなったと思ったら、僕は湖底に到達していた。
首から下が俯せで、顔だけが水平方向を向いているという姿勢だ。周囲の状況を漠然と把握できる能力は健在とはいえ、得られる情報が事実という保証はないので、自らの目で世界を見られるのはありがたい。
死んだのに感謝するのも変だな、と思った瞬間、双眸が闇に適応し、自らが身を置く世界を明瞭に視認できるようになった。
湖底は白っぽい砂地で、重機で均したように平坦だ。水草の類は一本も生えておらず、動いている生き物は一匹もいない。白く細い枝、というよりも木と呼称するべきだろうか。湖面に向かって一直線に伸びたそれが、僕が知覚可能な唯一の生命体だ。
沈んでいる間、行き着く場所にはどのような景色が広がっているのだろうかと、取り留めもなく想像を巡らせていた。現実の湖底は、おおむね想像に描いた通りだったが、一つだけ、想像もしていなかった物体の存在が認められた。
仰向けに寝そべった、全裸の首なし死体。
体つきが幼いので、子供だろう。首と左胸に刺し傷がある。股間へと視線を注ぎ、女の子だと判明した瞬間、気がついた。
君は、宮下紗弥加さん?
僕は死体に呼びかけた。唇は一ミリたりとも動かせないので、心の声を送るという形で。
宮下紗弥加は返事をしない。
耳がないから、僕の声が聞こえないのだろうか?
いや、そんなはずはない。僕が発したのは心の声なのだから、聞くのは心の耳。頭が失われていたとしても聞こえるはずだ。そして、僕と同じやり方で発声することで、返事だって可能なはず。まさか、僕に心の耳が備わっていないわけではあるまい。僕自身が発した心の声を、僕は確かに聞き取ったのだから。
初対面だから人見知りをしているのだろうか? 七歳という年齢を考えると、その解釈が有力に思えるが、彼女は首から上を失っている。表情を読み取れず、判断を下せない。
僕は死んだのに死んでいないが、宮下紗弥加は正真正銘死んでいる、というわけではないはずだ。一週間も水中にいたら、遺体に何らかの変化が生じて然るべきだが、宮下紗弥加の場合はそれが全くない。境遇は僕と同じ。そう認定しても差し支えないだろう。
そこまで考えて、湖の下限に到達したにもかかわらず、予測とは裏腹に、自分は死んでいないことに気がつく。
一瞬、周囲だけではなく、心中までもが無音になった。
『ごめんね。僕は死んだら、きっと罰を受ける。だから、それに免じて許してくれ』
宮下紗弥加の頭部に宛てて、そんな言葉を心中で呟いたことは覚えている。その罰という言葉には、死後は地獄に堕ちて凄惨な責め苦を受けるとか、高等な思考能力を有さない動物に輪廻転生して弱肉強食の摂理に怯えながら短い生涯を送るとか、そういったニュアンスが内包されていた。
しかし、まさか、本当に罰を受けることになるとは。しかも、よりにもよってこんな罰を受けることになるとは。文字通り、夢にも思わなかった。
これからも僕は生きていかなければならない。この場所で、この姿で、もの言わぬ宮下紗弥加と共に。
鳴りを潜めていた寂しさが爆発的に昂進した。
自らの意思で自らの体を動かせないのに、これほどまでに激しい感情に苛まれ続けたら、僕は狂死してしまう。
危機感が、死してもなお尽きることのない生への執着心が、死ねないことを恐怖した矛盾を黙殺して演算を開始した。一刹那を経て最善の方策を導き出し、すぐさま実行に移す。
紗弥加ちゃん、ごめんね。
僕が導き出した解決策は、相手の反応に頓着せずに話しかける、というもの。
ベクトルとしては、独り言を呟く、自分で自分に言い聞かせる、ぬいぐるみや人形相手に話しかける、といった行為に近いものがある。視覚は生きているが、視線は動かせない。湖畔の様子を把握する能力は、一度スイッチをオフにして以来使用できなくなった。自らの周囲の状況を漠然と把握する能力は健在だが、僕の周辺に動くものはない。僕は動けないが、思考能力があり、心の声を発せられる。それらの事情を考慮すれば、精神安定のために現実的に選択可能な行為としては、思い浮かぶのはそれくらいしかなかった。
僕は君を、君の大切な一部である頭部を、あまりにも非人間的に扱いすぎた。そんなつもりはなかったのだけど、結果的にそうなってしまった。僕は君をこんな目に遭わせた犯人を、残虐非道な異常者だと認識していたけど、大同小異だったよ。僕も充分、残虐で、非道で、異常な人間だ。こんな目に遭ったのも、自業自得だ。誰に対しても恨み言を言う権利なんてない。そして、紗弥加ちゃん、君に対して申し訳なく思っている。謝って済むことじゃないだろうけど、今の僕には謝ることしかできないから、せめて謝らせてほしい。重ね重ね、ごめんなさい。
現在進行形で感じていた闇の深まりが、不意に感じられなくなったと思ったら、僕は湖底に到達していた。
首から下が俯せで、顔だけが水平方向を向いているという姿勢だ。周囲の状況を漠然と把握できる能力は健在とはいえ、得られる情報が事実という保証はないので、自らの目で世界を見られるのはありがたい。
死んだのに感謝するのも変だな、と思った瞬間、双眸が闇に適応し、自らが身を置く世界を明瞭に視認できるようになった。
湖底は白っぽい砂地で、重機で均したように平坦だ。水草の類は一本も生えておらず、動いている生き物は一匹もいない。白く細い枝、というよりも木と呼称するべきだろうか。湖面に向かって一直線に伸びたそれが、僕が知覚可能な唯一の生命体だ。
沈んでいる間、行き着く場所にはどのような景色が広がっているのだろうかと、取り留めもなく想像を巡らせていた。現実の湖底は、おおむね想像に描いた通りだったが、一つだけ、想像もしていなかった物体の存在が認められた。
仰向けに寝そべった、全裸の首なし死体。
体つきが幼いので、子供だろう。首と左胸に刺し傷がある。股間へと視線を注ぎ、女の子だと判明した瞬間、気がついた。
君は、宮下紗弥加さん?
僕は死体に呼びかけた。唇は一ミリたりとも動かせないので、心の声を送るという形で。
宮下紗弥加は返事をしない。
耳がないから、僕の声が聞こえないのだろうか?
いや、そんなはずはない。僕が発したのは心の声なのだから、聞くのは心の耳。頭が失われていたとしても聞こえるはずだ。そして、僕と同じやり方で発声することで、返事だって可能なはず。まさか、僕に心の耳が備わっていないわけではあるまい。僕自身が発した心の声を、僕は確かに聞き取ったのだから。
初対面だから人見知りをしているのだろうか? 七歳という年齢を考えると、その解釈が有力に思えるが、彼女は首から上を失っている。表情を読み取れず、判断を下せない。
僕は死んだのに死んでいないが、宮下紗弥加は正真正銘死んでいる、というわけではないはずだ。一週間も水中にいたら、遺体に何らかの変化が生じて然るべきだが、宮下紗弥加の場合はそれが全くない。境遇は僕と同じ。そう認定しても差し支えないだろう。
そこまで考えて、湖の下限に到達したにもかかわらず、予測とは裏腹に、自分は死んでいないことに気がつく。
一瞬、周囲だけではなく、心中までもが無音になった。
『ごめんね。僕は死んだら、きっと罰を受ける。だから、それに免じて許してくれ』
宮下紗弥加の頭部に宛てて、そんな言葉を心中で呟いたことは覚えている。その罰という言葉には、死後は地獄に堕ちて凄惨な責め苦を受けるとか、高等な思考能力を有さない動物に輪廻転生して弱肉強食の摂理に怯えながら短い生涯を送るとか、そういったニュアンスが内包されていた。
しかし、まさか、本当に罰を受けることになるとは。しかも、よりにもよってこんな罰を受けることになるとは。文字通り、夢にも思わなかった。
これからも僕は生きていかなければならない。この場所で、この姿で、もの言わぬ宮下紗弥加と共に。
鳴りを潜めていた寂しさが爆発的に昂進した。
自らの意思で自らの体を動かせないのに、これほどまでに激しい感情に苛まれ続けたら、僕は狂死してしまう。
危機感が、死してもなお尽きることのない生への執着心が、死ねないことを恐怖した矛盾を黙殺して演算を開始した。一刹那を経て最善の方策を導き出し、すぐさま実行に移す。
紗弥加ちゃん、ごめんね。
僕が導き出した解決策は、相手の反応に頓着せずに話しかける、というもの。
ベクトルとしては、独り言を呟く、自分で自分に言い聞かせる、ぬいぐるみや人形相手に話しかける、といった行為に近いものがある。視覚は生きているが、視線は動かせない。湖畔の様子を把握する能力は、一度スイッチをオフにして以来使用できなくなった。自らの周囲の状況を漠然と把握する能力は健在だが、僕の周辺に動くものはない。僕は動けないが、思考能力があり、心の声を発せられる。それらの事情を考慮すれば、精神安定のために現実的に選択可能な行為としては、思い浮かぶのはそれくらいしかなかった。
僕は君を、君の大切な一部である頭部を、あまりにも非人間的に扱いすぎた。そんなつもりはなかったのだけど、結果的にそうなってしまった。僕は君をこんな目に遭わせた犯人を、残虐非道な異常者だと認識していたけど、大同小異だったよ。僕も充分、残虐で、非道で、異常な人間だ。こんな目に遭ったのも、自業自得だ。誰に対しても恨み言を言う権利なんてない。そして、紗弥加ちゃん、君に対して申し訳なく思っている。謝って済むことじゃないだろうけど、今の僕には謝ることしかできないから、せめて謝らせてほしい。重ね重ね、ごめんなさい。
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