深淵の孤独

阿波野治

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深淵の孤独②

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 昼の盛りの陽光が斑に差し込む、澄み渡った湖水の中を、足を上にし、顔を真下に向けて気をつけをする姿勢で、細く真っ直ぐに伸びた白い枝に沿って、あくびが出そうな緩慢さで、下へ、下へと沈んでいく。

 取得できる音声は一切ない。湖水に身を浸したのを境に、聴覚を失ったらしい。
 ダガーナイフの刃が頸部の肉を切り進む感触は覚えなかったのだから、死ぬと同時に触覚を失ったのは疑いようがない。それにもかかわらず、自分が水の中を沈んでいるのが分かるというのも、冷静に考えてみればおかしな話だ。しかし、事実として、湖水の中を沈んでいる実感を僕は抱いている。
 湖水に全身が没したことにより、僕の能力は仕様が変更されたと言えばいいのか、機能が強化されたと言えばいいのか、湖畔の様子が手に取るように分かるようになった。高画質の定点カメラが撮影する映像を眺めている感じ、とでも表現すればいいだろうか。声も、匂いも、味も、感触も感受できないが、伝わってくる視覚的な情報は、さながら己の目で見ているかのように鮮明で、なおかつ現実感がある。

 だから僕は知ることができた。
 僕の体を投げ捨てたあと、二人は僕が現在進行形で沈んでいる湖の水で手を洗ったことを。そのあと、北山は持参したクッキーを、筧は僕が持参した莉奈手製の弁当を食べたことを。
 食後、二人はキスを交わし、互いに相手の服の内側に手を侵入させ、体をまさぐり合ったことを。筧が北山のジーンズのベルトに手をかけると、北山はやんわりとそれを払いのけたことを。それに対して、筧が軽佻浮薄な笑みを浮かべ、何か冗談を言ったことを。
 二人はそのあとすぐに、宮下紗弥加の頭部を僕のリュックサックに収め、その場から去ったことを。

 僕は湖畔を映すカメラの電源を切る。
 湖面から差し込む光は大分弱くなり、周囲は仄暗い。湖底を視認することは叶わない。
 時間が進むにつれて、何かを思ったり、感じたり、考えたりする能力を取り戻していった。換言するならば、人間らしさを回復していった。

 死んでみて初めて思ったのは、寂しい、ということ。
 その感情は、沈めば沈むほど深く、濃くなっていく。沈む速度が遅々としているので分かりにくいが、確かにそのように推移している。
 やがて、生前と遜色ない水準にまで思考能力が回復すると、寂しさの正体は、湖底に達すれば今度こそこの世界と永別しなければならないことだ、と考えた。逆に、湖底に達するまで死ねないことが寂しいのかもしれない、とも考えた。

 一方的に暗さを増していく水中は、やがて完全なる闇に支配された。それでもまだ底には辿り着かない。
 どこまで落ちればいいのだろう。
 不安が萌したが、いつかは物理的な移動は終焉を迎えると、本能的に理解していた。
 今度こそ死ぬまでに、考えておかなければならないことがある気がしたが、行き着くのが一秒後か、十億年後かも定かではない状況にあっては、思索に集中しろというのは無謀な要請だ。

 寂しいな。
 死んだのに、死ねないのはなぜだろう。
 そう思いながら、音のない暗い水の中を、ゆっくり、ゆっくり、落ちていく。

 完全なる闇と表現したが、完全なのはあくまでも濃度の話。闇は濃度が極まったあとも、徐々に深みを、僕の語彙では深みとしか表現できない、濃度とは似て非なる要素を高めていっているらしい。
 それが極限に達した時、それこそが湖の底に到達したという合図であり、本当の意味での死ぬ瞬間だ。そう思うと、死んでから初めて恐怖を覚えた。

 そうは言っても、こんな体になってしまったのだから、真の死を回避する術はない。筧に殺された身だという意味でも、このまま大人しく死ぬべきだ。
 そう自らに言い聞かせると、いとも簡単に感情の昂進に歯止めをかけられた。

 大いなる寂しさと、少しの不安と恐怖。それらの感情を胸に抱き締めて、沈んで、沈んで、沈んでいく。
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