56 / 59
深淵の孤独②
しおりを挟む
昼の盛りの陽光が斑に差し込む、澄み渡った湖水の中を、足を上にし、顔を真下に向けて気をつけをする姿勢で、細く真っ直ぐに伸びた白い枝に沿って、あくびが出そうな緩慢さで、下へ、下へと沈んでいく。
取得できる音声は一切ない。湖水に身を浸したのを境に、聴覚を失ったらしい。
ダガーナイフの刃が頸部の肉を切り進む感触は覚えなかったのだから、死ぬと同時に触覚を失ったのは疑いようがない。それにもかかわらず、自分が水の中を沈んでいるのが分かるというのも、冷静に考えてみればおかしな話だ。しかし、事実として、湖水の中を沈んでいる実感を僕は抱いている。
湖水に全身が没したことにより、僕の能力は仕様が変更されたと言えばいいのか、機能が強化されたと言えばいいのか、湖畔の様子が手に取るように分かるようになった。高画質の定点カメラが撮影する映像を眺めている感じ、とでも表現すればいいだろうか。声も、匂いも、味も、感触も感受できないが、伝わってくる視覚的な情報は、さながら己の目で見ているかのように鮮明で、なおかつ現実感がある。
だから僕は知ることができた。
僕の体を投げ捨てたあと、二人は僕が現在進行形で沈んでいる湖の水で手を洗ったことを。そのあと、北山は持参したクッキーを、筧は僕が持参した莉奈手製の弁当を食べたことを。
食後、二人はキスを交わし、互いに相手の服の内側に手を侵入させ、体をまさぐり合ったことを。筧が北山のジーンズのベルトに手をかけると、北山はやんわりとそれを払いのけたことを。それに対して、筧が軽佻浮薄な笑みを浮かべ、何か冗談を言ったことを。
二人はそのあとすぐに、宮下紗弥加の頭部を僕のリュックサックに収め、その場から去ったことを。
僕は湖畔を映すカメラの電源を切る。
湖面から差し込む光は大分弱くなり、周囲は仄暗い。湖底を視認することは叶わない。
時間が進むにつれて、何かを思ったり、感じたり、考えたりする能力を取り戻していった。換言するならば、人間らしさを回復していった。
死んでみて初めて思ったのは、寂しい、ということ。
その感情は、沈めば沈むほど深く、濃くなっていく。沈む速度が遅々としているので分かりにくいが、確かにそのように推移している。
やがて、生前と遜色ない水準にまで思考能力が回復すると、寂しさの正体は、湖底に達すれば今度こそこの世界と永別しなければならないことだ、と考えた。逆に、湖底に達するまで死ねないことが寂しいのかもしれない、とも考えた。
一方的に暗さを増していく水中は、やがて完全なる闇に支配された。それでもまだ底には辿り着かない。
どこまで落ちればいいのだろう。
不安が萌したが、いつかは物理的な移動は終焉を迎えると、本能的に理解していた。
今度こそ死ぬまでに、考えておかなければならないことがある気がしたが、行き着くのが一秒後か、十億年後かも定かではない状況にあっては、思索に集中しろというのは無謀な要請だ。
寂しいな。
死んだのに、死ねないのはなぜだろう。
そう思いながら、音のない暗い水の中を、ゆっくり、ゆっくり、落ちていく。
完全なる闇と表現したが、完全なのはあくまでも濃度の話。闇は濃度が極まったあとも、徐々に深みを、僕の語彙では深みとしか表現できない、濃度とは似て非なる要素を高めていっているらしい。
それが極限に達した時、それこそが湖の底に到達したという合図であり、本当の意味での死ぬ瞬間だ。そう思うと、死んでから初めて恐怖を覚えた。
そうは言っても、こんな体になってしまったのだから、真の死を回避する術はない。筧に殺された身だという意味でも、このまま大人しく死ぬべきだ。
そう自らに言い聞かせると、いとも簡単に感情の昂進に歯止めをかけられた。
大いなる寂しさと、少しの不安と恐怖。それらの感情を胸に抱き締めて、沈んで、沈んで、沈んでいく。
取得できる音声は一切ない。湖水に身を浸したのを境に、聴覚を失ったらしい。
ダガーナイフの刃が頸部の肉を切り進む感触は覚えなかったのだから、死ぬと同時に触覚を失ったのは疑いようがない。それにもかかわらず、自分が水の中を沈んでいるのが分かるというのも、冷静に考えてみればおかしな話だ。しかし、事実として、湖水の中を沈んでいる実感を僕は抱いている。
湖水に全身が没したことにより、僕の能力は仕様が変更されたと言えばいいのか、機能が強化されたと言えばいいのか、湖畔の様子が手に取るように分かるようになった。高画質の定点カメラが撮影する映像を眺めている感じ、とでも表現すればいいだろうか。声も、匂いも、味も、感触も感受できないが、伝わってくる視覚的な情報は、さながら己の目で見ているかのように鮮明で、なおかつ現実感がある。
だから僕は知ることができた。
僕の体を投げ捨てたあと、二人は僕が現在進行形で沈んでいる湖の水で手を洗ったことを。そのあと、北山は持参したクッキーを、筧は僕が持参した莉奈手製の弁当を食べたことを。
食後、二人はキスを交わし、互いに相手の服の内側に手を侵入させ、体をまさぐり合ったことを。筧が北山のジーンズのベルトに手をかけると、北山はやんわりとそれを払いのけたことを。それに対して、筧が軽佻浮薄な笑みを浮かべ、何か冗談を言ったことを。
二人はそのあとすぐに、宮下紗弥加の頭部を僕のリュックサックに収め、その場から去ったことを。
僕は湖畔を映すカメラの電源を切る。
湖面から差し込む光は大分弱くなり、周囲は仄暗い。湖底を視認することは叶わない。
時間が進むにつれて、何かを思ったり、感じたり、考えたりする能力を取り戻していった。換言するならば、人間らしさを回復していった。
死んでみて初めて思ったのは、寂しい、ということ。
その感情は、沈めば沈むほど深く、濃くなっていく。沈む速度が遅々としているので分かりにくいが、確かにそのように推移している。
やがて、生前と遜色ない水準にまで思考能力が回復すると、寂しさの正体は、湖底に達すれば今度こそこの世界と永別しなければならないことだ、と考えた。逆に、湖底に達するまで死ねないことが寂しいのかもしれない、とも考えた。
一方的に暗さを増していく水中は、やがて完全なる闇に支配された。それでもまだ底には辿り着かない。
どこまで落ちればいいのだろう。
不安が萌したが、いつかは物理的な移動は終焉を迎えると、本能的に理解していた。
今度こそ死ぬまでに、考えておかなければならないことがある気がしたが、行き着くのが一秒後か、十億年後かも定かではない状況にあっては、思索に集中しろというのは無謀な要請だ。
寂しいな。
死んだのに、死ねないのはなぜだろう。
そう思いながら、音のない暗い水の中を、ゆっくり、ゆっくり、落ちていく。
完全なる闇と表現したが、完全なのはあくまでも濃度の話。闇は濃度が極まったあとも、徐々に深みを、僕の語彙では深みとしか表現できない、濃度とは似て非なる要素を高めていっているらしい。
それが極限に達した時、それこそが湖の底に到達したという合図であり、本当の意味での死ぬ瞬間だ。そう思うと、死んでから初めて恐怖を覚えた。
そうは言っても、こんな体になってしまったのだから、真の死を回避する術はない。筧に殺された身だという意味でも、このまま大人しく死ぬべきだ。
そう自らに言い聞かせると、いとも簡単に感情の昂進に歯止めをかけられた。
大いなる寂しさと、少しの不安と恐怖。それらの感情を胸に抱き締めて、沈んで、沈んで、沈んでいく。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
アポリアの林
千年砂漠
ホラー
中学三年生の久住晴彦は学校でのイジメに耐えかねて家出し、プロフィール完全未公開の小説家の羽崎薫に保護された。
しかし羽崎の家で一ヶ月過した後家に戻った晴彦は重大な事件を起こしてしまう。
晴彦の事件を捜査する井川達夫と小宮俊介は、晴彦を保護した羽崎に滞在中の晴彦の話を聞きに行くが、特に不審な点はない。が、羽崎の家のある林の中で赤いワンピースの少女を見た小宮は、少女に示唆され夢で晴彦が事件を起こすまでの日々の追体験をするようになる。
羽崎の態度に引っかかる物を感じた井川は、晴彦のクラスメートで人の意識や感情が見える共感覚の持ち主の原田詩織の助けを得て小宮と共に、羽崎と少女の謎の解明へと乗り出す。
『忌み地・元霧原村の怪』
潮ノ海月
ホラー
とある年の五月の中旬、都会から来た転校生、神代渉が霧野川高校の教室に現れる。彼の洗練された姿に女子たちは興味を示し、一部の男子は不満を抱く。その中、主人公の森月和也は、渉の涼やかな笑顔の裏に冷たさを感じ、彼に違和感を感じた。
渉の編入から一週間が過ぎ、男子達も次第に渉を受け入れ、和也の友人の野風雄二も渉の魅力に引き込まれ、彼の友人となった。転校生騒ぎが終息しかけたある日の学校の昼休み、女子二人が『こっくりさん』で遊び始め、突然の悲鳴が教室に響く。そしてその翌日、同じクラスの女子、清水莉子が体調不良で休み、『こっくりさん』の祟りという噂が学校中に広まっていく。その次の日の放課後、莉子を心配したと斉藤凪紗は、彼女の友人である和也、雄二、凪沙、葵、渉の五人と共に莉子の家を訪れる。すると莉子の家は重苦しい雰囲気に包まれ、莉子の母親は憔悴した姿に変わっていた。その異変に気づいた渉と和也が莉子の部屋へ入ると、彼女は霊障によって変わり果てた姿に。しかし、彼女の霊障は始まりでしかなく、その後に起こる霊障、怪異。そして元霧原村に古くから伝わる因習、忌み地にまつわる闇、恐怖の怪異へと続く序章に過ぎなかった。
《主人公は和也(語り部)となります》
奇怪未解世界
五月 病
ホラー
突如大勢の人間が消えるという事件が起きた。
学内にいた人間の中で唯一生存した女子高生そよぎは自身に降りかかる怪異を退け、消えた友人たちを取り戻すために「怪人アンサー」に助けを求める。
奇妙な契約関係になった怪人アンサーとそよぎは学校の人間が消えた理由を見つけ出すため夕刻から深夜にかけて調査を進めていく。
その過程で様々な怪異に遭遇していくことになっていくが……。

闇に蠢く
野村勇輔(ノムラユーリ)
ホラー
関わると行方不明になると噂される喪服の女(少女)に関わってしまった相原奈央と相原響紀。
響紀は女の手にかかり、命を落とす。
さらに奈央も狙われて……
イラスト:ミコトカエ(@takoharamint)様
※無断転載等不可
ゴーストバスター幽野怜
蜂峰 文助
ホラー
ゴーストバスターとは、霊を倒す者達を指す言葉である。
山奥の廃校舎に住む、おかしな男子高校生――幽野怜はゴーストバスターだった。
そんな彼の元に今日も依頼が舞い込む。
肝試しにて悪霊に取り憑かれた女性――
悲しい呪いをかけられている同級生――
一県全体を恐怖に陥れる、最凶の悪霊――
そして、その先に待ち受けているのは、十体の霊王!
ゴーストバスターVS悪霊達
笑いあり、涙あり、怒りありの、壮絶な戦いが幕を開ける!
現代ホラーバトル、いざ開幕!!
『この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません』
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる