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涙③
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やがて莉奈は、足りない食材を買ってくる、と言い出した。家を発たなければならない時刻まで約一時間。間に合うか心配だったが、行くのは徒歩約五分の場所にあるスーパーマーケット。購入する食材は一種類だけで、他のおかずは既にほぼ完成しているという。
一人になってすぐ、シンクの下の引き出しを開けた。包丁は二本置いてあった。現在俎板の上に横たわっているものに酷似したものが一本、刃が少し細いものが一本。僕は前者を選び取った。古新聞で刃を覆って保護し、自室に戻る。
凶器をリュックサックに仕舞い、軍手を手にはめる。ドアの前で膝をついたところで、僕の体の動きは止まる。冷凍庫を買ってそこに収めて以来、頭部の様子を確認していないことに気がついたからだ。
僕以外の人間がダンボールの覆いに触れた形跡がないことならば、既に確認済みだ。悪臭は漏れていないから、腐敗の進行具合は深刻ではないと推察される。
そうは言っても、やはり怖い。即座には行動に移れないほど怖い。
逡巡しているうちに莉奈が帰宅した。足音はキッチンへと消える。弁当は完成を間近に控えているし、出発の時刻も近づいてきている。行動に移らなければ。
今度こそドアを開けようとして、ふと思い立ち、チノパンツのポケットからケータイを取り出す。
『家は十一時十五分前に出る予定。出かける直前にキッチンまで取りに行くから、焦らずにゆっくり作って』
莉奈宛てにメールを送信し、不意打ちでの入室を未然に防止したことで、漸く恐怖心を克服できた。クローゼットのドアを開け、煩雑な手続きを経て冷凍庫のドアを開く。
人工的な冷気がどこか緩慢に溢れ出し、宮下紗弥加の後頭部が視界に映し出された。外見的には、前回見た時から変化していない。
ただ、微かながらも悪臭を感じる。
気のせいかと思い、何度か鼻孔を蠢かせて、気のせいなどではないと認めざるを得なくなる。臭いの発生源は、疑いようもなく宮下紗弥加の頭部だ。
宮下紗弥加は腐り始めている。
予想はしていたが衝撃的な事実に、愕然とさせられ、一分近くも放心してしまった。
衝撃が冷めやると、一転、返却という選択肢を選んだのは間違いではなかったと安堵し、自画自賛する気持ちが芽生えた。高揚感は伴わなかったが、強張っているなりに肩の力が抜けたような感覚があった。
ごめんね。僕は死んだら、きっと罰を受ける。だから、それに免じて許してくれ。
メールを打つために外していた軍手をはめる。頭部を冷凍庫から体操着入れへと入れ替え、三枚の紙片も同じ場所に収め、絞首するように紐を強く左右に引っ張って固く口を閉ざす。小さく息を吐き、軍手を脱ごうとした瞬間、
廊下の床板が軋む音。
素早くドアを振り向いた。ノブが回る音に総身が粟立つ。――鍵をかけ忘れている。わざわざメールを送らなくても、ドアの鍵をかけていれば最悪の事態は防げたのに。今となっては後の祭りだ。ドアが開く。
「お兄ちゃん、お弁当できたよー。下まで見に来て――」
莉奈の言葉が停止する。見覚えのない新品の小型冷凍庫。ダンボールの残骸。軍手を手にはめた兄。火を点けられたかのように全身が熱に包まれた。
「お兄ちゃん、それは――」
「何をしに来た!」
床に握り拳をぶつけて重厚な音を響かせ、憤然と立ち上がる。憎悪の眼差しを送りつけると、莉奈は顔に怯えを露わにして身を縮めた。僕の怒りを鎮めるという観点に立てば、その一手は好手とは言えない。
「下まで取りに行くと言ったのに、なに部屋まで来てんだ! 馬鹿かお前は!」
「わたしは――」
表情に見合った、傾聴すれば震えを帯びているのが聞き取れそうな声が、剥き出しの感情に食い下がる。
「わたしはただ、上手に作れたから報告を――」
「くっだらねぇなぁ!」
握ったままの拳を顔の高さまで上昇させたのは、立ち上がる際にしたように、激情を無機物にぶつけようと思ったからだ。しかし、莉奈は殴られると思ったらしく、引きつったような短い悲鳴を漏らした。
「お前、邪魔なんだよ! 出て行け! 今すぐ出て行け!」
立ち尽くす莉奈の肩を強く突く。突き飛ばされた体は、滑稽なステップを踏みながら後退し、背中を壁にぶつけて停止する。妹を一睨みし、威嚇するような音を立ててドアを閉ざす。
軍手を脱ぎ捨ててベッドに腰を下ろし、荒い呼吸を繰り返しながら外の状況を耳で窺う。莉奈は一分ほどその場に留まったのち、自室に引っ込んだ。程なく聞こえてきたのは、すすり泣く声。壁越しにも明瞭に聞き取れるのだから、すすり泣きとはいえかなり激しい泣き方だ。
自らの呼吸が落ち着くのに反比例して、顔面は罪悪感に歪んでいく。
最も見られたくないものに深く関連するものを見られたのだから、感情が溢れてしまったのも仕方ない。そう自己弁護をしてみたが、悔悟の念は拭い去れない。拭い去れるはずもない。
二酸化炭素を深々と吐き出し、外に出しておくべきではない物品をクローゼットに仕舞う。見られたあとだけに、片づける作業には虚しさが伴い、身が入らない。怒りは最早微塵もなく、胸を占めるのは己の振る舞いを悔やむ気持ちばかりだ。
ごめんな。僕は死んだら、きっと罰を受ける。だから、それに免じて許してくれ。
気がつけば、そろそろ自宅を発たなければならない時間だ。
財布をチノパンツの右のポケットに、ケータイと家の鍵を左のポケットに入れる。リュックサックを背負う。部屋を出て、少し迷ったが、莉奈の部屋まで行ってドアをノックする。すすり泣きがやんだ。
「莉奈、聞こえているか」
返事はない。予想通りの反応だ。
「帰ったら事情はちゃんと話すから、それまで待っててくれ。じゃあ、行ってくる」
一階に下り、ダイニングテーブルの上の弁当箱と水筒をリュックサックに収める。肩紐が両肩に食い込む感触が痛いほどに、荷物は重たい。
あと少しの辛抱だ。重荷を下ろせるその時は、手が届くところまで来ている。
一人になってすぐ、シンクの下の引き出しを開けた。包丁は二本置いてあった。現在俎板の上に横たわっているものに酷似したものが一本、刃が少し細いものが一本。僕は前者を選び取った。古新聞で刃を覆って保護し、自室に戻る。
凶器をリュックサックに仕舞い、軍手を手にはめる。ドアの前で膝をついたところで、僕の体の動きは止まる。冷凍庫を買ってそこに収めて以来、頭部の様子を確認していないことに気がついたからだ。
僕以外の人間がダンボールの覆いに触れた形跡がないことならば、既に確認済みだ。悪臭は漏れていないから、腐敗の進行具合は深刻ではないと推察される。
そうは言っても、やはり怖い。即座には行動に移れないほど怖い。
逡巡しているうちに莉奈が帰宅した。足音はキッチンへと消える。弁当は完成を間近に控えているし、出発の時刻も近づいてきている。行動に移らなければ。
今度こそドアを開けようとして、ふと思い立ち、チノパンツのポケットからケータイを取り出す。
『家は十一時十五分前に出る予定。出かける直前にキッチンまで取りに行くから、焦らずにゆっくり作って』
莉奈宛てにメールを送信し、不意打ちでの入室を未然に防止したことで、漸く恐怖心を克服できた。クローゼットのドアを開け、煩雑な手続きを経て冷凍庫のドアを開く。
人工的な冷気がどこか緩慢に溢れ出し、宮下紗弥加の後頭部が視界に映し出された。外見的には、前回見た時から変化していない。
ただ、微かながらも悪臭を感じる。
気のせいかと思い、何度か鼻孔を蠢かせて、気のせいなどではないと認めざるを得なくなる。臭いの発生源は、疑いようもなく宮下紗弥加の頭部だ。
宮下紗弥加は腐り始めている。
予想はしていたが衝撃的な事実に、愕然とさせられ、一分近くも放心してしまった。
衝撃が冷めやると、一転、返却という選択肢を選んだのは間違いではなかったと安堵し、自画自賛する気持ちが芽生えた。高揚感は伴わなかったが、強張っているなりに肩の力が抜けたような感覚があった。
ごめんね。僕は死んだら、きっと罰を受ける。だから、それに免じて許してくれ。
メールを打つために外していた軍手をはめる。頭部を冷凍庫から体操着入れへと入れ替え、三枚の紙片も同じ場所に収め、絞首するように紐を強く左右に引っ張って固く口を閉ざす。小さく息を吐き、軍手を脱ごうとした瞬間、
廊下の床板が軋む音。
素早くドアを振り向いた。ノブが回る音に総身が粟立つ。――鍵をかけ忘れている。わざわざメールを送らなくても、ドアの鍵をかけていれば最悪の事態は防げたのに。今となっては後の祭りだ。ドアが開く。
「お兄ちゃん、お弁当できたよー。下まで見に来て――」
莉奈の言葉が停止する。見覚えのない新品の小型冷凍庫。ダンボールの残骸。軍手を手にはめた兄。火を点けられたかのように全身が熱に包まれた。
「お兄ちゃん、それは――」
「何をしに来た!」
床に握り拳をぶつけて重厚な音を響かせ、憤然と立ち上がる。憎悪の眼差しを送りつけると、莉奈は顔に怯えを露わにして身を縮めた。僕の怒りを鎮めるという観点に立てば、その一手は好手とは言えない。
「下まで取りに行くと言ったのに、なに部屋まで来てんだ! 馬鹿かお前は!」
「わたしは――」
表情に見合った、傾聴すれば震えを帯びているのが聞き取れそうな声が、剥き出しの感情に食い下がる。
「わたしはただ、上手に作れたから報告を――」
「くっだらねぇなぁ!」
握ったままの拳を顔の高さまで上昇させたのは、立ち上がる際にしたように、激情を無機物にぶつけようと思ったからだ。しかし、莉奈は殴られると思ったらしく、引きつったような短い悲鳴を漏らした。
「お前、邪魔なんだよ! 出て行け! 今すぐ出て行け!」
立ち尽くす莉奈の肩を強く突く。突き飛ばされた体は、滑稽なステップを踏みながら後退し、背中を壁にぶつけて停止する。妹を一睨みし、威嚇するような音を立ててドアを閉ざす。
軍手を脱ぎ捨ててベッドに腰を下ろし、荒い呼吸を繰り返しながら外の状況を耳で窺う。莉奈は一分ほどその場に留まったのち、自室に引っ込んだ。程なく聞こえてきたのは、すすり泣く声。壁越しにも明瞭に聞き取れるのだから、すすり泣きとはいえかなり激しい泣き方だ。
自らの呼吸が落ち着くのに反比例して、顔面は罪悪感に歪んでいく。
最も見られたくないものに深く関連するものを見られたのだから、感情が溢れてしまったのも仕方ない。そう自己弁護をしてみたが、悔悟の念は拭い去れない。拭い去れるはずもない。
二酸化炭素を深々と吐き出し、外に出しておくべきではない物品をクローゼットに仕舞う。見られたあとだけに、片づける作業には虚しさが伴い、身が入らない。怒りは最早微塵もなく、胸を占めるのは己の振る舞いを悔やむ気持ちばかりだ。
ごめんな。僕は死んだら、きっと罰を受ける。だから、それに免じて許してくれ。
気がつけば、そろそろ自宅を発たなければならない時間だ。
財布をチノパンツの右のポケットに、ケータイと家の鍵を左のポケットに入れる。リュックサックを背負う。部屋を出て、少し迷ったが、莉奈の部屋まで行ってドアをノックする。すすり泣きがやんだ。
「莉奈、聞こえているか」
返事はない。予想通りの反応だ。
「帰ったら事情はちゃんと話すから、それまで待っててくれ。じゃあ、行ってくる」
一階に下り、ダイニングテーブルの上の弁当箱と水筒をリュックサックに収める。肩紐が両肩に食い込む感触が痛いほどに、荷物は重たい。
あと少しの辛抱だ。重荷を下ろせるその時は、手が届くところまで来ている。
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