深淵の孤独

阿波野治

文字の大きさ
上 下
48 / 59

涙③

しおりを挟む
 やがて莉奈は、足りない食材を買ってくる、と言い出した。家を発たなければならない時刻まで約一時間。間に合うか心配だったが、行くのは徒歩約五分の場所にあるスーパーマーケット。購入する食材は一種類だけで、他のおかずは既にほぼ完成しているという。
 一人になってすぐ、シンクの下の引き出しを開けた。包丁は二本置いてあった。現在俎板の上に横たわっているものに酷似したものが一本、刃が少し細いものが一本。僕は前者を選び取った。古新聞で刃を覆って保護し、自室に戻る。

 凶器をリュックサックに仕舞い、軍手を手にはめる。ドアの前で膝をついたところで、僕の体の動きは止まる。冷凍庫を買ってそこに収めて以来、頭部の様子を確認していないことに気がついたからだ。
 僕以外の人間がダンボールの覆いに触れた形跡がないことならば、既に確認済みだ。悪臭は漏れていないから、腐敗の進行具合は深刻ではないと推察される。
 そうは言っても、やはり怖い。即座には行動に移れないほど怖い。

 逡巡しているうちに莉奈が帰宅した。足音はキッチンへと消える。弁当は完成を間近に控えているし、出発の時刻も近づいてきている。行動に移らなければ。
 今度こそドアを開けようとして、ふと思い立ち、チノパンツのポケットからケータイを取り出す。

『家は十一時十五分前に出る予定。出かける直前にキッチンまで取りに行くから、焦らずにゆっくり作って』

 莉奈宛てにメールを送信し、不意打ちでの入室を未然に防止したことで、漸く恐怖心を克服できた。クローゼットのドアを開け、煩雑な手続きを経て冷凍庫のドアを開く。
 人工的な冷気がどこか緩慢に溢れ出し、宮下紗弥加の後頭部が視界に映し出された。外見的には、前回見た時から変化していない。
 ただ、微かながらも悪臭を感じる。
 気のせいかと思い、何度か鼻孔を蠢かせて、気のせいなどではないと認めざるを得なくなる。臭いの発生源は、疑いようもなく宮下紗弥加の頭部だ。

 宮下紗弥加は腐り始めている。
 予想はしていたが衝撃的な事実に、愕然とさせられ、一分近くも放心してしまった。
 衝撃が冷めやると、一転、返却という選択肢を選んだのは間違いではなかったと安堵し、自画自賛する気持ちが芽生えた。高揚感は伴わなかったが、強張っているなりに肩の力が抜けたような感覚があった。
 ごめんね。僕は死んだら、きっと罰を受ける。だから、それに免じて許してくれ。

 メールを打つために外していた軍手をはめる。頭部を冷凍庫から体操着入れへと入れ替え、三枚の紙片も同じ場所に収め、絞首するように紐を強く左右に引っ張って固く口を閉ざす。小さく息を吐き、軍手を脱ごうとした瞬間、
 廊下の床板が軋む音。
 素早くドアを振り向いた。ノブが回る音に総身が粟立つ。――鍵をかけ忘れている。わざわざメールを送らなくても、ドアの鍵をかけていれば最悪の事態は防げたのに。今となっては後の祭りだ。ドアが開く。

「お兄ちゃん、お弁当できたよー。下まで見に来て――」

 莉奈の言葉が停止する。見覚えのない新品の小型冷凍庫。ダンボールの残骸。軍手を手にはめた兄。火を点けられたかのように全身が熱に包まれた。

「お兄ちゃん、それは――」
「何をしに来た!」

 床に握り拳をぶつけて重厚な音を響かせ、憤然と立ち上がる。憎悪の眼差しを送りつけると、莉奈は顔に怯えを露わにして身を縮めた。僕の怒りを鎮めるという観点に立てば、その一手は好手とは言えない。

「下まで取りに行くと言ったのに、なに部屋まで来てんだ! 馬鹿かお前は!」
「わたしは――」

 表情に見合った、傾聴すれば震えを帯びているのが聞き取れそうな声が、剥き出しの感情に食い下がる。

「わたしはただ、上手に作れたから報告を――」
「くっだらねぇなぁ!」

 握ったままの拳を顔の高さまで上昇させたのは、立ち上がる際にしたように、激情を無機物にぶつけようと思ったからだ。しかし、莉奈は殴られると思ったらしく、引きつったような短い悲鳴を漏らした。

「お前、邪魔なんだよ! 出て行け! 今すぐ出て行け!」

 立ち尽くす莉奈の肩を強く突く。突き飛ばされた体は、滑稽なステップを踏みながら後退し、背中を壁にぶつけて停止する。妹を一睨みし、威嚇するような音を立ててドアを閉ざす。
 軍手を脱ぎ捨ててベッドに腰を下ろし、荒い呼吸を繰り返しながら外の状況を耳で窺う。莉奈は一分ほどその場に留まったのち、自室に引っ込んだ。程なく聞こえてきたのは、すすり泣く声。壁越しにも明瞭に聞き取れるのだから、すすり泣きとはいえかなり激しい泣き方だ。

 自らの呼吸が落ち着くのに反比例して、顔面は罪悪感に歪んでいく。
 最も見られたくないものに深く関連するものを見られたのだから、感情が溢れてしまったのも仕方ない。そう自己弁護をしてみたが、悔悟の念は拭い去れない。拭い去れるはずもない。

 二酸化炭素を深々と吐き出し、外に出しておくべきではない物品をクローゼットに仕舞う。見られたあとだけに、片づける作業には虚しさが伴い、身が入らない。怒りは最早微塵もなく、胸を占めるのは己の振る舞いを悔やむ気持ちばかりだ。
 ごめんな。僕は死んだら、きっと罰を受ける。だから、それに免じて許してくれ。

 気がつけば、そろそろ自宅を発たなければならない時間だ。
 財布をチノパンツの右のポケットに、ケータイと家の鍵を左のポケットに入れる。リュックサックを背負う。部屋を出て、少し迷ったが、莉奈の部屋まで行ってドアをノックする。すすり泣きがやんだ。

「莉奈、聞こえているか」

 返事はない。予想通りの反応だ。

「帰ったら事情はちゃんと話すから、それまで待っててくれ。じゃあ、行ってくる」

 一階に下り、ダイニングテーブルの上の弁当箱と水筒をリュックサックに収める。肩紐が両肩に食い込む感触が痛いほどに、荷物は重たい。
 あと少しの辛抱だ。重荷を下ろせるその時は、手が届くところまで来ている。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

蜥蜴の尻尾切り

柘榴
ホラー
 中学3年生の夏、私はクラスメイトの男の子3人に犯された。  ただ3人の異常な性癖を満たすだけの玩具にされた私は、心も身体も壊れてしまった。  そして、望まない形で私は3人のうちの誰かの子を孕んだ。  しかし、私の妊娠が発覚すると3人はすぐに転校をして私の前から逃げ出した。 まるで、『蜥蜴の尻尾切り』のように……私とお腹の子を捨てて。  けれど、私は許さないよ。『蜥蜴の尻尾切り』なんて。  出来の悪いパパたちへの再教育(ふくしゅう)が始まる。

ゾンビ発生が台風並みの扱いで報道される中、ニートの俺は普通にゾンビ倒して普通に生活する

黄札
ホラー
朝、何気なくテレビを付けると流れる天気予報。お馴染みの花粉や紫外線情報も流してくれるのはありがたいことだが……ゾンビ発生注意報?……いやいや、それも普通よ。いつものこと。 だが、お気に入りのアニメを見ようとしたところ、母親から買い物に行ってくれという電話がかかってきた。 どうする俺? 今、ゾンビ発生してるんですけど? 注意報、発令されてるんですけど?? ニートである立場上、断れずしぶしぶ重い腰を上げ外へ出る事に── 家でアニメを見ていても、同人誌を売りに行っても、バイトへ出ても、ゾンビに襲われる主人公。 何で俺ばかりこんな目に……嘆きつつもだんだん耐性ができてくる。 しまいには、サバゲーフィールドにゾンビを放って遊んだり、ゾンビ災害ボランティアにまで参加する始末。 友人はゾンビをペットにし、効率よくゾンビを倒すためエアガンを改造する。 ゾンビのいることが日常となった世界で、当たり前のようにゾンビと戦う日常的ゾンビアクション。ノベルアッププラス、ツギクル、小説家になろうでも公開中。 表紙絵は姫嶋ヤシコさんからいただきました、 ©2020黄札

ヴァルプルギスの夜~ライター月島楓の事件簿

加来 史吾兎
ホラー
 K県華月町(かげつちょう)の外れで、白装束を着させられた女子高生の首吊り死体が発見された。  フリーライターの月島楓(つきしまかえで)は、ひょんなことからこの事件の取材を任され、華月町出身で大手出版社の編集者である小野瀬崇彦(おのせたかひこ)と共に、山奥にある華月町へ向かう。  華月町には魔女を信仰するという宗教団体《サバト》の本拠地があり、事件への関与が噂されていたが警察の捜査は難航していた。  そんな矢先、華月町にまつわる伝承を調べていた女子大生が行方不明になってしまう。  そして魔の手は楓の身にも迫っていた──。  果たして楓と小野瀬は小さな町で巻き起こる事件の真相に辿り着くことができるのだろうか。

血だるま教室

川獺右端
ホラー
月寄鏡子は、すこしぼんやりとした女子中学生だ。 家族からは満月の晩に外に出ないように言いつけられている。 彼女の通う祥雲中学には一つの噂があった。 近くの米軍基地で仲間を皆殺しにしたジョンソンという兵士がいて、基地の壁に憎い相手の名前を書くと、彼の怨霊が現れて相手を殺してくれるという都市伝説だ。 鏡子のクラス、二年五組の葉子という少女が自殺した。 その後を追うようにクラスでは人死にが連鎖していく。 自殺で、交通事故で、火災で。 そして日曜日、事件の事を聞くと学校に集められた鏡子とクラスメートは校舎の三階に閉じ込められてしまう。 隣の教室には先生の死体と無数の刃物武器の山があり、黒板には『 35-32=3 3=門』という謎の言葉が書き残されていた。 追い詰められ、極限状態に陥った二年五組のクラスメートたちが武器を持ち、互いに殺し合いを始める。 何の力も持たない月寄鏡子は校舎から出られるのか。 そして事件の真相とは。

#この『村』を探して下さい

案内人
ホラー
 『この村を探して下さい』。これは、とある某匿名掲示板で見つけた書き込みです。全ては、ここから始まりました。  この物語は私の手によって脚色されています。読んでも発狂しません。  貴方は『■■■』の正体が見破れますか?

怖い風景

ントゥンギ
ホラー
こんな風景怖くない? 22年8月24日 完結

処理中です...