深淵の孤独

阿波野治

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涙①

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 寝つきは悪くなく、寝覚めはよくも悪くもなかった。窓越しに見た空は晴れの範疇に属していたが、雲が一片も漂っていないわけではない。
 寝ぼけ眼で天井の染みを見つめながら、今日が運命の日だ、と思ってみる。思ってはみたが、何の感慨も感想も湧かない。楠部龍平という男は、己が考えている以上に胆が据わっているのか。それとも、単に寝起きで頭が冴えていないだけか。
 いよいよその時が来たら、嫌でも考えたり思ったり感じたりせざるを得ないさ。自らに言い聞かせるというよりも、誰かに向かって供述するように心中で呟き、緩慢に体を起こす。

 ほーほー、ほほー、という鳴き声は聞こえてこない。
 紺色のチノパンツを穿いたところで、宮下紗弥加の頭部を拾った朝以来、その鳥の鳴き声を聞いていないことに気がつく。
 不可解さに首を傾げるのではなく、ただただ、あの鳥がいなくなってしまった事実を寂しく思う。起床時にあの特徴的な鳴き声を聞かない日は、いつだって同じ感情が芽生える。
 なぜ「寂しさ」なのだろう? 考えても答えは出ないのを承知の上で思案したものの、案の定、答えは見えてこない。鋭利な刃物で断ち切るように真相を断念し、部屋を出る。

 休日にもかかわらず、莉奈の方が早く朝食の席に着いていた。食事中の話題には、僕の弁当作りが選ばれた。こんなおかずを作るつもりだ。あの工程が難しいから気をつけないと。莉奈は上機嫌そうに冗舌に話す。気分が沈むのを防いでくれたという意味で、感謝してもしきれない。

 食事が終わったのが午前九時前。待ち合わせ場所のT駅までの移動時間を考慮しても、まだ二時間近く余裕がある。心の準備を万端にするには短すぎるが、気持ちを最低限固めるには長すぎ、中途半端だ。自室に引きこもると、厳重に密閉してあるとはいえ、頭部から発せられる負と腐の空気に悪影響を受けそうな気がする。リビングに居座り、キッチンで調理を開始した莉奈の話し相手、もとい聞き役を務める。
 弁当のおかずには冷凍食品も取り入れるなどして、莉奈一人でも作れるもので固め、母親の手は借りない方針のようだ。その母親は、父親が運転する自家用車に同乗し、夫婦でどこかへ出かけた。久しぶりとなる、妹と二人で過ごすひととき。

「何か、思い出すね。お兄ちゃんが夜中の二時に家を出て、わたしが追いかけて呼び止めて、コンビニでシュークリームを買って食べた時のことを」
「そうか? 二人きりっていうだけで、全然違うと思うけど」

 あの時のことを蒸し返されるのでは? 内心冷や汗をかいたが、莉奈は「そうだね」と屈託なく笑い、現在作っているおかずに話を戻した。

 兄妹は今日の僕の昼食のことばかり話した。幼稚でくだらない、と我ながら思う。よく続くな、よく飽きないな、と呆れもした。それでいて腹の底では、血の繋がりがある十代のきょうだいの会話なんてこんなものだろうと、大らかな心境で現状を肯定していた。
 しかし、その話題だけで二時間弱を消費するのはやはり難しく、やがて会話は途切れがちになった。手持無沙汰な僕は、部屋に引っ込むという選択肢を頭の中で検討しながら、リビングの本棚に陳列された書籍の背表紙を、眺めるともなく眺める。

 ノストラダムスの大予言、という言葉がタイトルに含まれた一冊を発見し、視線は一点に縫い止められる。
 鼓動が少し速い。「ノストラダムス」という、片仮名だけで構成された七文字から目が離せない。莉奈は調理に集中しているらしく、兄が異様に真剣な目つきで本の背表紙を凝視していることには気がついていない。
 見て見ぬふりをするか否か、迷うところではあったが、

「懐かしいな、この本」

 莉奈の方を向いて話を振る。この程度の困難から逃げているようでは、殺人鬼相手に勝利を収めるなど夢のまた夢だ。ウォーミングアップがてら、軽く打ち負かしてやろう。そのような判断であり、心境だった。
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