46 / 59
涙①
しおりを挟む
寝つきは悪くなく、寝覚めはよくも悪くもなかった。窓越しに見た空は晴れの範疇に属していたが、雲が一片も漂っていないわけではない。
寝ぼけ眼で天井の染みを見つめながら、今日が運命の日だ、と思ってみる。思ってはみたが、何の感慨も感想も湧かない。楠部龍平という男は、己が考えている以上に胆が据わっているのか。それとも、単に寝起きで頭が冴えていないだけか。
いよいよその時が来たら、嫌でも考えたり思ったり感じたりせざるを得ないさ。自らに言い聞かせるというよりも、誰かに向かって供述するように心中で呟き、緩慢に体を起こす。
ほーほー、ほほー、という鳴き声は聞こえてこない。
紺色のチノパンツを穿いたところで、宮下紗弥加の頭部を拾った朝以来、その鳥の鳴き声を聞いていないことに気がつく。
不可解さに首を傾げるのではなく、ただただ、あの鳥がいなくなってしまった事実を寂しく思う。起床時にあの特徴的な鳴き声を聞かない日は、いつだって同じ感情が芽生える。
なぜ「寂しさ」なのだろう? 考えても答えは出ないのを承知の上で思案したものの、案の定、答えは見えてこない。鋭利な刃物で断ち切るように真相を断念し、部屋を出る。
休日にもかかわらず、莉奈の方が早く朝食の席に着いていた。食事中の話題には、僕の弁当作りが選ばれた。こんなおかずを作るつもりだ。あの工程が難しいから気をつけないと。莉奈は上機嫌そうに冗舌に話す。気分が沈むのを防いでくれたという意味で、感謝してもしきれない。
食事が終わったのが午前九時前。待ち合わせ場所のT駅までの移動時間を考慮しても、まだ二時間近く余裕がある。心の準備を万端にするには短すぎるが、気持ちを最低限固めるには長すぎ、中途半端だ。自室に引きこもると、厳重に密閉してあるとはいえ、頭部から発せられる負と腐の空気に悪影響を受けそうな気がする。リビングに居座り、キッチンで調理を開始した莉奈の話し相手、もとい聞き役を務める。
弁当のおかずには冷凍食品も取り入れるなどして、莉奈一人でも作れるもので固め、母親の手は借りない方針のようだ。その母親は、父親が運転する自家用車に同乗し、夫婦でどこかへ出かけた。久しぶりとなる、妹と二人で過ごすひととき。
「何か、思い出すね。お兄ちゃんが夜中の二時に家を出て、わたしが追いかけて呼び止めて、コンビニでシュークリームを買って食べた時のことを」
「そうか? 二人きりっていうだけで、全然違うと思うけど」
あの時のことを蒸し返されるのでは? 内心冷や汗をかいたが、莉奈は「そうだね」と屈託なく笑い、現在作っているおかずに話を戻した。
兄妹は今日の僕の昼食のことばかり話した。幼稚でくだらない、と我ながら思う。よく続くな、よく飽きないな、と呆れもした。それでいて腹の底では、血の繋がりがある十代のきょうだいの会話なんてこんなものだろうと、大らかな心境で現状を肯定していた。
しかし、その話題だけで二時間弱を消費するのはやはり難しく、やがて会話は途切れがちになった。手持無沙汰な僕は、部屋に引っ込むという選択肢を頭の中で検討しながら、リビングの本棚に陳列された書籍の背表紙を、眺めるともなく眺める。
ノストラダムスの大予言、という言葉がタイトルに含まれた一冊を発見し、視線は一点に縫い止められる。
鼓動が少し速い。「ノストラダムス」という、片仮名だけで構成された七文字から目が離せない。莉奈は調理に集中しているらしく、兄が異様に真剣な目つきで本の背表紙を凝視していることには気がついていない。
見て見ぬふりをするか否か、迷うところではあったが、
「懐かしいな、この本」
莉奈の方を向いて話を振る。この程度の困難から逃げているようでは、殺人鬼相手に勝利を収めるなど夢のまた夢だ。ウォーミングアップがてら、軽く打ち負かしてやろう。そのような判断であり、心境だった。
寝ぼけ眼で天井の染みを見つめながら、今日が運命の日だ、と思ってみる。思ってはみたが、何の感慨も感想も湧かない。楠部龍平という男は、己が考えている以上に胆が据わっているのか。それとも、単に寝起きで頭が冴えていないだけか。
いよいよその時が来たら、嫌でも考えたり思ったり感じたりせざるを得ないさ。自らに言い聞かせるというよりも、誰かに向かって供述するように心中で呟き、緩慢に体を起こす。
ほーほー、ほほー、という鳴き声は聞こえてこない。
紺色のチノパンツを穿いたところで、宮下紗弥加の頭部を拾った朝以来、その鳥の鳴き声を聞いていないことに気がつく。
不可解さに首を傾げるのではなく、ただただ、あの鳥がいなくなってしまった事実を寂しく思う。起床時にあの特徴的な鳴き声を聞かない日は、いつだって同じ感情が芽生える。
なぜ「寂しさ」なのだろう? 考えても答えは出ないのを承知の上で思案したものの、案の定、答えは見えてこない。鋭利な刃物で断ち切るように真相を断念し、部屋を出る。
休日にもかかわらず、莉奈の方が早く朝食の席に着いていた。食事中の話題には、僕の弁当作りが選ばれた。こんなおかずを作るつもりだ。あの工程が難しいから気をつけないと。莉奈は上機嫌そうに冗舌に話す。気分が沈むのを防いでくれたという意味で、感謝してもしきれない。
食事が終わったのが午前九時前。待ち合わせ場所のT駅までの移動時間を考慮しても、まだ二時間近く余裕がある。心の準備を万端にするには短すぎるが、気持ちを最低限固めるには長すぎ、中途半端だ。自室に引きこもると、厳重に密閉してあるとはいえ、頭部から発せられる負と腐の空気に悪影響を受けそうな気がする。リビングに居座り、キッチンで調理を開始した莉奈の話し相手、もとい聞き役を務める。
弁当のおかずには冷凍食品も取り入れるなどして、莉奈一人でも作れるもので固め、母親の手は借りない方針のようだ。その母親は、父親が運転する自家用車に同乗し、夫婦でどこかへ出かけた。久しぶりとなる、妹と二人で過ごすひととき。
「何か、思い出すね。お兄ちゃんが夜中の二時に家を出て、わたしが追いかけて呼び止めて、コンビニでシュークリームを買って食べた時のことを」
「そうか? 二人きりっていうだけで、全然違うと思うけど」
あの時のことを蒸し返されるのでは? 内心冷や汗をかいたが、莉奈は「そうだね」と屈託なく笑い、現在作っているおかずに話を戻した。
兄妹は今日の僕の昼食のことばかり話した。幼稚でくだらない、と我ながら思う。よく続くな、よく飽きないな、と呆れもした。それでいて腹の底では、血の繋がりがある十代のきょうだいの会話なんてこんなものだろうと、大らかな心境で現状を肯定していた。
しかし、その話題だけで二時間弱を消費するのはやはり難しく、やがて会話は途切れがちになった。手持無沙汰な僕は、部屋に引っ込むという選択肢を頭の中で検討しながら、リビングの本棚に陳列された書籍の背表紙を、眺めるともなく眺める。
ノストラダムスの大予言、という言葉がタイトルに含まれた一冊を発見し、視線は一点に縫い止められる。
鼓動が少し速い。「ノストラダムス」という、片仮名だけで構成された七文字から目が離せない。莉奈は調理に集中しているらしく、兄が異様に真剣な目つきで本の背表紙を凝視していることには気がついていない。
見て見ぬふりをするか否か、迷うところではあったが、
「懐かしいな、この本」
莉奈の方を向いて話を振る。この程度の困難から逃げているようでは、殺人鬼相手に勝利を収めるなど夢のまた夢だ。ウォーミングアップがてら、軽く打ち負かしてやろう。そのような判断であり、心境だった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
いつもと違う日常
k33
ホラー
ある日 高校生のハイトはごく普通の日常をおくっていたが...学校に行く途中 空を眺めていた そしたら バルーンが空に飛んでいた...そして 学校につくと...窓にもバルーンが.....そして 恐怖のゲームが始まろうとしている...果たして ハイトは..この数々の恐怖のゲームを クリアできるのか!? そして 無事 ゲームクリアできるのか...そして 現実世界に戻れるのか..恐怖のデスゲーム..開幕!
終焉の教室
シロタカズキ
ホラー
30人の高校生が突如として閉じ込められた教室。
そこに響く無機質なアナウンス――「生き残りをかけたデスゲームを開始します」。
提示された“課題”をクリアしなければ、容赦なく“退場”となる。
最初の課題は「クラスメイトの中から裏切り者を見つけ出せ」。
しかし、誰もが疑心暗鬼に陥る中、タイムリミットが突如として加速。
そして、一人目の犠牲者が決まった――。
果たして、このデスゲームの真の目的は?
誰が裏切り者で、誰が生き残るのか?
友情と疑念、策略と裏切りが交錯する極限の心理戦が今、幕を開ける。
熾ーおこりー
ようさん
ホラー
【第8回ホラー・ミステリー小説大賞参加予定作品(リライト)】
幕末一の剣客集団、新撰組。
疾風怒濤の時代、徳川幕府への忠誠を頑なに貫き時に鉄の掟の下同志の粛清も辞さない戦闘派治安組織として、倒幕派から庶民にまで恐れられた。
組織の転機となった初代局長・芹澤鴨暗殺事件を、原田左之助の視点で描く。
志と名誉のためなら死をも厭わず、やがて新政府軍との絶望的な戦争に飲み込まれていった彼らを蝕む闇とはーー
※史実をヒントにしたフィクション(心理ホラー)です
【登場人物】(ネタバレを含みます)
原田左之助(二三歳) 伊代松山藩出身で槍の名手。新撰組隊士(試衛館派)
芹澤鴨(三七歳) 新撰組筆頭局長。文武両道の北辰一刀流師範。刀を抜くまでもない戦闘の際には鉄製の軍扇を武器とする。水戸派のリーダー。
沖田総司(二一歳) 江戸出身。新撰組隊士の中では最年少だが剣の腕前は五本の指に入る(試衛館派)
山南敬助(二七歳) 仙台藩出身。土方と共に新撰組副長を務める。温厚な調整役(試衛館派)
土方歳三(二八歳)武州出身。新撰組副長。冷静沈着で自分にも他人にも厳しい。試衛館の弟子筆頭で一本気な男だが、策士の一面も(試衛館派)
近藤勇(二九歳) 新撰組局長。土方とは同郷。江戸に上り天然理心流の名門道場・試衛館を継ぐ。
井上源三郎(三四歳) 新撰組では一番年長の隊士。近藤とは先代の兄弟弟子にあたり、唯一の相談役でもある。
新見錦 芹沢の腹心。頭脳派で水戸派のブレインでもある
平山五郎 芹澤の腹心。直情的な男(水戸派)
平間(水戸派)
野口(水戸派)
(画像・速水御舟「炎舞」部分)

ベアトリーチェ以外、いらない。
阿波野治
ホラー
二十七歳男性の私は、ベアトリーチェを追い求めている。次々に目の前に現れる不可解な現象や、甦る過去に翻弄され、立ち止まることを余儀なくされながらも、私は歩き続ける。
オカルト嫌いJKと言霊使いの先輩書店員
眼鏡猫
ホラー
書店でアルバイトをする女子高生、如月弥生(きさらぎやよい)は大のオカルト嫌い。そんな彼女と同じ職場で働く大学生、琴乃葉紬玖(ことのはつぐむ)は自称霊感体質だそうで、弥生が発する言霊により悪いモノに覆われていると言う。一笑に付す弥生だったが、実は彼女には誰にも言えないトラウマを抱えていた。
百物語 厄災
嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。
小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。
二人称・短編ホラー小説集 『あなた』
シルヴァ・レイシオン
ホラー
普通の小説に読み飽きたそこの『あなた』
そんな『あなた』にオススメします、二人称と言う「没入感」+ホラーの旋律にて、是非、戦慄してみて下さい・・・・・・
※このシリーズ、短編ホラー・二人称小説『あなた』は、色んな"視点"のホラーを書きます。
様々な「死」「痛み」「苦しみ」「悲しみ」「因果」などを描きますので本当に苦手な方、なんらかのトラウマ、偏見などがある人はご遠慮下さい。
小説としては珍しい「二人称」視点をベースにしていきますので、例えば洗脳されやすいような方もご観覧注意、願います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる