深淵の孤独

阿波野治

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湖②

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 空間の底面は、形としては楕円形に近く、面積は県立S中学校の校庭を一回り小さくしたくらいだろうか。湖を縁取るようにして、背が低い雑草が疎らに生えているだけの幅四・五十センチの領域がある。
 北山が言及していた湖だ。

 汀まで歩を進める。水辺だから地面は柔らかいのかと思ったが、足の裏に伝わってくる感触は存外強固だ。遠浅の対義語は何と言うのだろう。水際近くでも水深がかなり深くなっていて、透明度が極めて高いにもかかわらず、湖底を視認できない。湖や池というと、すり鉢状の窪みに水が湛えられているイメージがあるが、この湖は巨大なドラム缶に水が満たされているかのようだ。
 湖面の中心付近から、三十センチほどの黒く細長いものが垂直に突き出している。天辺近くで三股に分岐していて、十字架を連想させる形状だ。朽ちた木の枝らしい。水中に没している部分は、どのような原理が働いているのか真っ白で、水面を境に色彩が峻別されている。枝は湖底に向かって真っすぐに伸びていて、果ては見えない。
 汀ですらこんなにも深いのだから、中央付近ならばバベルの塔にも比肩する水深だと推察されるのに、枝が生えている。目の錯覚なのか。途轍もなく長い枝が湖底から生えているのか。僕の知識と知能と洞察力では、納得がいく答えには辿り着けない。
 確かなのは、「投げ入れたものが消える」という噂が囁かれるのも頷けるほどに、水深が深いということ。

 その場にしゃがむ。水に指を浸してみると、冷たさに肩が跳ね上がった。唇をつけようとして、死体が遺棄された可能性がある湖だということを思い出す。静けさ、人気のなさ、水深。人間の遺体を処分するには誂え向きの環境なのは間違いない。湖底に横たわるものを探すように、湖水の深淵を凝視する。
 無意識に姿勢が前のめりになっていたらしく、突然、上体が大きく前傾した。冷たいとも熱いともつかない汗が汗腺という汗腺から噴出する。反射的に両足の靴先に力を込め、片手で地面の土を掴むようにして持ち堪える。
 瞬間的な爆発にも似た恐怖は、必然と突飛、どちらの言葉でも説明できそうな連想を運んできた。
 北山は僕をこの場所に呼び出して、殺すつもりなのでは?

 土を掴む右手の五指に力を加え、周囲を見回す。誰もいない。相も変わらず無音だ。慎重に腰を上げ、後ずさりをして湖から遠ざかる。見えない力に引きずり込まれそうな気がして、湖水を正視しないように注意を払った。
 主なる人格が死にもの狂いで平静を装おうと、心臓は己の生命の危機に関しては敏感だ。壊れそうなほど、という比喩が陳腐だとは思えないほどに激しく鼓動し、絶対的な安全圏への退避を完了しても収束には向かわない。半永久的に動悸を持て余さなければならない罰を下されたのか、と錯覚したほどだ。
 死体を遺棄するのに適した場所は、殺人に適した場所でもある。なるほど、確かにその通りだ。
 脅迫状を通じて恐怖を送りつけ、圧力をかけて縛りつけても、所詮は自分とは違う場所に生活の拠点を持った他人。自分にとって不都合な行動を起こさせないようにする最善の方法は、存在を抹消すること。なるほど、確かにその通りだ。

 しかし。
 北山が僕を殺す? そんなことが可能なのか? 中背痩躯、体格的には明らかに僕に劣る北山が?
 まさか。銃を所持しているわけじゃあるまいし。公園での犯行の時のようにハンマーを隠し持っていたとしても、筧が持っていたようなナイフを懐に忍ばせていたとしても、こちらも何か武器を携帯していて、油断さえしなければ殺されない。絶対に大丈夫だ。

 いっときと比べれば改善されたものの、高鳴りは当分治まりそうにない。下見という唯一の具体的な目的は達成した。自分の心臓のことは自分が一番知っている。現在の僕の心を苦しめている症状は、髪尾山から立ち去れば急速に回復に向かう類のものだ。体の向きを百八十度転換し、道を引き返す。
 足が急く。恐怖の源泉である湖から、何かが追跡してくる気配を感じるわけではなかったが、早足になるのを禁じ得ない。一定の水準を超えた焦りの感情は、宿命のようにさらなる焦りを呼ぶ。気持ちは益々前のめりになり、足取りは今にも転びそうなほどに速まる。

 僕は北山の誘いに乗るべきなのか?
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