深淵の孤独

阿波野治

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北山の誘い④

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「楠部くん、どうしたの? 顔色悪いけど」

 北山の声が降ってきた。視界に彼女の首から上は映っていないが、押し殺し切れない喜色が満面を支配しているのが目に見えるようだ。

「大丈夫だよ。ただ立ち眩みがしただけだから。よくあることだから。……うん。よくあることだから……」

 手が差し伸べられることはない。言葉でも、物理的にも。
 呼吸が整うのを待って腰を上げる。北山は無表情で僕を見ていた。あたかも、心を動かされる出来事など発生しなかったかのように。

「ごめんね、急に。びっくりさせちゃって」

 だから僕も、北山に合わせる。下校途中に突然座り込んでしまったことは、主観的にも客観的にも驚くに値しない、取るに足らない些事であるかのように振る舞う。あらゆる意味において、北山に譲歩するのは望ましくないのに。

「ううん、何とも思っていないから。そんなことより、楠部くんの返事を聞かせて」
「返事? ……ああ。髪尾山にある湖に行くっていう」
「急な提案だったから、戸惑うよね。すぐに返事をするのは難しい、かな。……そうね」

 下唇に人差し指を軽く添え、すぐにそのポーズを解除する。

「行くか行かないかが決まったら、私にメールで報告して。当日だと慌てちゃうから、前日の夜八時までに。待ち合わせ時間や場所については、その時に決めましょう。それで構わない?」

 頷く以外の選択肢は思い浮かばない。メールアドレスの交換は速やかに完了した。

「じゃあ楠部くん、一緒に帰るのはここまでにしようか」
「そうだね。メール、必ずするから」

 早口気味にそう告げ、僕は駆け出した。
 自分が取った行動に、我ながら驚いた。しかし、行為を中断しようとは微塵も思わない。むしろ加速する。北山からどう見られているかについて考えずに済むように、頭の中を空にして疾駆する。
 風だ。僕は風だ。風は人間とは違って、考えたり、思ったり、感じたりなどしない。

 やがて、息が切れて足が止まる。膝に両手をつき、酸素を吸って二酸化炭素を吐くことを愚直に繰り返す。顔を上げると、我が家のダークグレイの屋根が数十メートル先に見えた。
 いささか唐突ながら、もう一人の僕が「電話をかけろ」と命じた。僕は一も二もなくその命令に従う。

「もしもし、莉奈か? 今どこにいる? 家?」
「家だけど、どうかしたの? そんなに慌てて」

 リビングでくつろいでいるのだろう、テレビの音声が微かに聞こえる。

「いや、慌ててはいないけど。あのな、莉奈。父さんと母さんから似たようなことを口酸っぱく言われてうざいだろうけど、僕からも言わせてくれ。今この町で起きている事件が解決するまでは、極力外を一人で出歩かない方がいい」
「……何? 何なの、いきなり」
「言う機会がなかったから、思い立ったついでに言っておこうと思ったんだよ。登下校する際は、なるべく友達と一緒にな。学校へ行き帰りする時だけじゃなくて、外出する時も必ずそうしろよ。わざわざ友達を呼ぶのもちょっとっていう時は、迷惑だとか、そんなことは気にしなくていいから、家族を頼れ。莉奈の自由時間と僕の自由時間はだいたい重なっているから、必要な時は遠慮なく使ってくれていい。口では『めんどくさいな』とか何とか言うかもしれないけど、本心では絶対にそんなことはないから」

 間が生じた。二つの世界には、火を見るよりも明らかな温度差がある。音こそ立たなかったが、莉奈が唾を呑み込んだのが分かった。

「……大丈夫? お兄ちゃん、何かちょっと変じゃない?」
「何で莉奈に心配されなきゃいけないんだ。僕は心配している側だぜ」
「お兄ちゃん、今どこにいるの? 何かやばいことに巻き込まれてる、とかじゃないよね」

 やばいことに巻き込まれている――。
 ああ、言えたらなぁ。ひと思いに打ち明けられたらなぁ。腹の中に押し留めているものをぶちまけられたらなぁ。
 胸の深奥から込み上げてくるものがあり、言葉に詰まった。ただ、これ以上妹に心配と迷惑をかけるのは本意ではない。速やかに抑圧して返答を述べる。

「リアルで巻き込まれているんだったら、電話をかける余裕なんてないと思うぞ。普通に下校している途中だから、心配するだけ損だよ。じゃあ、言いたいことはそれだけだから」

「リボンの鬼死」は脅迫状の中で、頭部を元の場所に戻さなければ、僕を含む誰かに危害を加えることを示唆した。しかし、僕はその要求には従わなかった。その対応の是非について再考した結論が、北山に別れを告げてからの僕の行動だった。北山は少なくとも、僕が髪尾山行きに行くか行かないかの返事をするまでは、次なる犯行は控えるだろう、という読みはあった。それでも、北山から走って遠ざからずにはいられなかったし、莉奈に電話をかけずにはいられなかった。

 顔を上げ、我が家のダークグレイの屋根を視界に映す。
 思うことは様々あったが、ケータイを閉じて歩き出した。
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