深淵の孤独

阿波野治

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深淵なる夜⑤

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「お兄ちゃん、そろそろ帰ろうよ。薄着だからちょっと寒いし」
「せっかくだから、何か奢るよ」
「いいよ、今は。夜中だし」
「礼くらいさせてくれ。ほら、来い」

 自動ドアを潜ると、莉奈はついてきた。兄の強引さに呆れているらしい表情を見せていたが、デザートの陳列棚の前に来た時には上機嫌そうな顔に変わっている。

「食べるなら、やっぱり甘いものだよね。アイスもいいけど、今夜はちょっと寒いし、この中のどれかかな」

 甘いもの。莉奈が口にしたその一言に、クッキーを食べる北山の冷めた無表情が彷彿と甦った。それが引き金となり、突拍子もない、禁忌的な疑いが胸に浮上した。

「リボンの鬼死」の正体は莉奈なのでは?
「リボンの鬼死」からの脅迫状は莉奈の手から渡された。帰宅した際に郵便受けの中を確認し、入っていたものを持ってきた、と僕は解釈したが、その場面を見たわけではない。たまたま外を覗いたら、外出する兄を見かけたという供述も、考えてみれば不自然だ。僕が脅迫状に明記された要求に屈し、夜中に自宅を出ることを想定し、消灯した部屋で息を潜めて外の様子を窺っていたのでは?

 考えすぎだと思う。常識的に考えれば、莉奈が殺人を犯すはずがない。
 しかし、莉奈が絶対に「リボンの鬼死」ではない証拠はどこにもない。

「あ、これ美味しそう。お兄ちゃん、これ食べようよ」

 莉奈の声に我に返る。彼女が指差していたのは、イチゴ味のクリームとホイップクリームが入ったシュークリーム。大きさは拳ほどもある。

「大きいな。半分分け?」
「一人一個に決まってるじゃん。手で割ったりしたら、クリームで手が汚れちゃう」
「そんなの、トイレを借りて洗えばいい」
「違うよ。一個丸ごと食べたいんだって」
「分かった。奢るって言ったもんな」

 会計を済ませて店を出る。上空を仰ぐと、芥子粒のような微小の星々が瞬いている。夜空が晴れているのだから、夜が明けてからも晴れている。そう信じたい。
 入店する前と同じ場所に佇み、袋を破ってシュークリームにかぶりつく。百五十円という値段相応の味でも、その甘さに心は大いに和む。外気の冷たさもさほど苦にならない。

「こういうのって、何かいいよね」

 相手もきっとそう感じている、という確信を持った口振りで莉奈が呟く。視線の方向は僕だったが、僕が顔を向けると星空へと移し替えた。

「家族に内緒で家を抜け出して、こうやって夜空を眺めながら甘いものを食べて。こういう時間って、楽しいよね。たまにはこんなのもいいかな、なんて」

 ささやかな幸福を素直に喜べる心を持った人間が、人命を軽視するはずがない。
 そう思った瞬間、莉奈が「リボンの鬼死」ではないかという疑念は、限りなくゼロに近い存在感にまで縮小した。
 同時に、卑劣な殺人鬼に屈してなるものかという、攻撃的ではないが地に足がついた決意が芽生えた。

「リボンの鬼死」という存在は、あまりにも強大で、あまりにも不可解だ。具体的な対抗策も、勝算も、現時点では一切見出せていない。
 それでも、殺人鬼に怯え、振り回されるばかりだった自分がそう決意するに至ったことが、我ながら嬉しいし、誇らしい。

 二個のシュークリームは互いの胃の腑に消えた。空き袋をゴミ箱に捨て、僕たちは目配せをする。

「莉奈、帰ろうか」
「うん」

 肩を並べて来た道を引き返す。会話はないが、気まずい空気が漂っているわけではない。足取りは急いてはいないが、緩やかすぎるわけではない。時折空を見上げては、惹かれ合うように視線を交わす。言葉は交わさない。静かな夜の道を、歩調を保って淡々と歩く。夜気は冷たいが、決して不愉快ではない。

 結果的に、僕は宮下沙弥加の頭部を返さない道を選んだ。
 この先、どんな未来が僕を待ち受けているのだろう。
 考えようとしたが、集中力を確保できない。脳髄が、物静かながらも断乎として思索を拒絶している、とでも表現すればいいだろうか。
 思考不能の状態を強いて打破しようとは思わない。我が家までの道のりを莉奈と共に穏やかな心境で歩んで、朝が到来するまでの短い時間、死んだように眠りたかった。

「お兄ちゃん、もうこんなことはしないでね」

 あと百メートルほど歩けば楠部家に辿り着くというタイミングで、莉奈は僕に向かって、僕にしか聞こえない声で呟いた。誰に聞かれても恥ずかしい台詞ではないのに。大声を出したとしても、誰もが熟睡している夜夜中だというのに。
 姉から注意された弟のように、僕は神妙な表情で頷く。莉奈は弟の聞き分けのよさを喜ぶ姉のように小さく頷き返し、顔を進行方向に戻した。
 榊原さんの庭から生き物の気配は感じなかった。行きに感じた鳥の視線は、恐らく気のせいだったのだろう。

 帰宅し、自室で一人になると、自ずと溜息が出た。リュックサックの中の頭部は、クローゼットには仕舞うのではなく、ベッドの横に置く。ケータイを見ると、まだ三時を回っていない。
 あと四時間眠れる、と思いながらベッドに潜り込んだ。
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