27 / 59
深淵なる夜⑤
しおりを挟む
「お兄ちゃん、そろそろ帰ろうよ。薄着だからちょっと寒いし」
「せっかくだから、何か奢るよ」
「いいよ、今は。夜中だし」
「礼くらいさせてくれ。ほら、来い」
自動ドアを潜ると、莉奈はついてきた。兄の強引さに呆れているらしい表情を見せていたが、デザートの陳列棚の前に来た時には上機嫌そうな顔に変わっている。
「食べるなら、やっぱり甘いものだよね。アイスもいいけど、今夜はちょっと寒いし、この中のどれかかな」
甘いもの。莉奈が口にしたその一言に、クッキーを食べる北山の冷めた無表情が彷彿と甦った。それが引き金となり、突拍子もない、禁忌的な疑いが胸に浮上した。
「リボンの鬼死」の正体は莉奈なのでは?
「リボンの鬼死」からの脅迫状は莉奈の手から渡された。帰宅した際に郵便受けの中を確認し、入っていたものを持ってきた、と僕は解釈したが、その場面を見たわけではない。たまたま外を覗いたら、外出する兄を見かけたという供述も、考えてみれば不自然だ。僕が脅迫状に明記された要求に屈し、夜中に自宅を出ることを想定し、消灯した部屋で息を潜めて外の様子を窺っていたのでは?
考えすぎだと思う。常識的に考えれば、莉奈が殺人を犯すはずがない。
しかし、莉奈が絶対に「リボンの鬼死」ではない証拠はどこにもない。
「あ、これ美味しそう。お兄ちゃん、これ食べようよ」
莉奈の声に我に返る。彼女が指差していたのは、イチゴ味のクリームとホイップクリームが入ったシュークリーム。大きさは拳ほどもある。
「大きいな。半分分け?」
「一人一個に決まってるじゃん。手で割ったりしたら、クリームで手が汚れちゃう」
「そんなの、トイレを借りて洗えばいい」
「違うよ。一個丸ごと食べたいんだって」
「分かった。奢るって言ったもんな」
会計を済ませて店を出る。上空を仰ぐと、芥子粒のような微小の星々が瞬いている。夜空が晴れているのだから、夜が明けてからも晴れている。そう信じたい。
入店する前と同じ場所に佇み、袋を破ってシュークリームにかぶりつく。百五十円という値段相応の味でも、その甘さに心は大いに和む。外気の冷たさもさほど苦にならない。
「こういうのって、何かいいよね」
相手もきっとそう感じている、という確信を持った口振りで莉奈が呟く。視線の方向は僕だったが、僕が顔を向けると星空へと移し替えた。
「家族に内緒で家を抜け出して、こうやって夜空を眺めながら甘いものを食べて。こういう時間って、楽しいよね。たまにはこんなのもいいかな、なんて」
ささやかな幸福を素直に喜べる心を持った人間が、人命を軽視するはずがない。
そう思った瞬間、莉奈が「リボンの鬼死」ではないかという疑念は、限りなくゼロに近い存在感にまで縮小した。
同時に、卑劣な殺人鬼に屈してなるものかという、攻撃的ではないが地に足がついた決意が芽生えた。
「リボンの鬼死」という存在は、あまりにも強大で、あまりにも不可解だ。具体的な対抗策も、勝算も、現時点では一切見出せていない。
それでも、殺人鬼に怯え、振り回されるばかりだった自分がそう決意するに至ったことが、我ながら嬉しいし、誇らしい。
二個のシュークリームは互いの胃の腑に消えた。空き袋をゴミ箱に捨て、僕たちは目配せをする。
「莉奈、帰ろうか」
「うん」
肩を並べて来た道を引き返す。会話はないが、気まずい空気が漂っているわけではない。足取りは急いてはいないが、緩やかすぎるわけではない。時折空を見上げては、惹かれ合うように視線を交わす。言葉は交わさない。静かな夜の道を、歩調を保って淡々と歩く。夜気は冷たいが、決して不愉快ではない。
結果的に、僕は宮下沙弥加の頭部を返さない道を選んだ。
この先、どんな未来が僕を待ち受けているのだろう。
考えようとしたが、集中力を確保できない。脳髄が、物静かながらも断乎として思索を拒絶している、とでも表現すればいいだろうか。
思考不能の状態を強いて打破しようとは思わない。我が家までの道のりを莉奈と共に穏やかな心境で歩んで、朝が到来するまでの短い時間、死んだように眠りたかった。
「お兄ちゃん、もうこんなことはしないでね」
あと百メートルほど歩けば楠部家に辿り着くというタイミングで、莉奈は僕に向かって、僕にしか聞こえない声で呟いた。誰に聞かれても恥ずかしい台詞ではないのに。大声を出したとしても、誰もが熟睡している夜夜中だというのに。
姉から注意された弟のように、僕は神妙な表情で頷く。莉奈は弟の聞き分けのよさを喜ぶ姉のように小さく頷き返し、顔を進行方向に戻した。
榊原さんの庭から生き物の気配は感じなかった。行きに感じた鳥の視線は、恐らく気のせいだったのだろう。
帰宅し、自室で一人になると、自ずと溜息が出た。リュックサックの中の頭部は、クローゼットには仕舞うのではなく、ベッドの横に置く。ケータイを見ると、まだ三時を回っていない。
あと四時間眠れる、と思いながらベッドに潜り込んだ。
「せっかくだから、何か奢るよ」
「いいよ、今は。夜中だし」
「礼くらいさせてくれ。ほら、来い」
自動ドアを潜ると、莉奈はついてきた。兄の強引さに呆れているらしい表情を見せていたが、デザートの陳列棚の前に来た時には上機嫌そうな顔に変わっている。
「食べるなら、やっぱり甘いものだよね。アイスもいいけど、今夜はちょっと寒いし、この中のどれかかな」
甘いもの。莉奈が口にしたその一言に、クッキーを食べる北山の冷めた無表情が彷彿と甦った。それが引き金となり、突拍子もない、禁忌的な疑いが胸に浮上した。
「リボンの鬼死」の正体は莉奈なのでは?
「リボンの鬼死」からの脅迫状は莉奈の手から渡された。帰宅した際に郵便受けの中を確認し、入っていたものを持ってきた、と僕は解釈したが、その場面を見たわけではない。たまたま外を覗いたら、外出する兄を見かけたという供述も、考えてみれば不自然だ。僕が脅迫状に明記された要求に屈し、夜中に自宅を出ることを想定し、消灯した部屋で息を潜めて外の様子を窺っていたのでは?
考えすぎだと思う。常識的に考えれば、莉奈が殺人を犯すはずがない。
しかし、莉奈が絶対に「リボンの鬼死」ではない証拠はどこにもない。
「あ、これ美味しそう。お兄ちゃん、これ食べようよ」
莉奈の声に我に返る。彼女が指差していたのは、イチゴ味のクリームとホイップクリームが入ったシュークリーム。大きさは拳ほどもある。
「大きいな。半分分け?」
「一人一個に決まってるじゃん。手で割ったりしたら、クリームで手が汚れちゃう」
「そんなの、トイレを借りて洗えばいい」
「違うよ。一個丸ごと食べたいんだって」
「分かった。奢るって言ったもんな」
会計を済ませて店を出る。上空を仰ぐと、芥子粒のような微小の星々が瞬いている。夜空が晴れているのだから、夜が明けてからも晴れている。そう信じたい。
入店する前と同じ場所に佇み、袋を破ってシュークリームにかぶりつく。百五十円という値段相応の味でも、その甘さに心は大いに和む。外気の冷たさもさほど苦にならない。
「こういうのって、何かいいよね」
相手もきっとそう感じている、という確信を持った口振りで莉奈が呟く。視線の方向は僕だったが、僕が顔を向けると星空へと移し替えた。
「家族に内緒で家を抜け出して、こうやって夜空を眺めながら甘いものを食べて。こういう時間って、楽しいよね。たまにはこんなのもいいかな、なんて」
ささやかな幸福を素直に喜べる心を持った人間が、人命を軽視するはずがない。
そう思った瞬間、莉奈が「リボンの鬼死」ではないかという疑念は、限りなくゼロに近い存在感にまで縮小した。
同時に、卑劣な殺人鬼に屈してなるものかという、攻撃的ではないが地に足がついた決意が芽生えた。
「リボンの鬼死」という存在は、あまりにも強大で、あまりにも不可解だ。具体的な対抗策も、勝算も、現時点では一切見出せていない。
それでも、殺人鬼に怯え、振り回されるばかりだった自分がそう決意するに至ったことが、我ながら嬉しいし、誇らしい。
二個のシュークリームは互いの胃の腑に消えた。空き袋をゴミ箱に捨て、僕たちは目配せをする。
「莉奈、帰ろうか」
「うん」
肩を並べて来た道を引き返す。会話はないが、気まずい空気が漂っているわけではない。足取りは急いてはいないが、緩やかすぎるわけではない。時折空を見上げては、惹かれ合うように視線を交わす。言葉は交わさない。静かな夜の道を、歩調を保って淡々と歩く。夜気は冷たいが、決して不愉快ではない。
結果的に、僕は宮下沙弥加の頭部を返さない道を選んだ。
この先、どんな未来が僕を待ち受けているのだろう。
考えようとしたが、集中力を確保できない。脳髄が、物静かながらも断乎として思索を拒絶している、とでも表現すればいいだろうか。
思考不能の状態を強いて打破しようとは思わない。我が家までの道のりを莉奈と共に穏やかな心境で歩んで、朝が到来するまでの短い時間、死んだように眠りたかった。
「お兄ちゃん、もうこんなことはしないでね」
あと百メートルほど歩けば楠部家に辿り着くというタイミングで、莉奈は僕に向かって、僕にしか聞こえない声で呟いた。誰に聞かれても恥ずかしい台詞ではないのに。大声を出したとしても、誰もが熟睡している夜夜中だというのに。
姉から注意された弟のように、僕は神妙な表情で頷く。莉奈は弟の聞き分けのよさを喜ぶ姉のように小さく頷き返し、顔を進行方向に戻した。
榊原さんの庭から生き物の気配は感じなかった。行きに感じた鳥の視線は、恐らく気のせいだったのだろう。
帰宅し、自室で一人になると、自ずと溜息が出た。リュックサックの中の頭部は、クローゼットには仕舞うのではなく、ベッドの横に置く。ケータイを見ると、まだ三時を回っていない。
あと四時間眠れる、と思いながらベッドに潜り込んだ。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
コ・ワ・レ・ル
本多 真弥子
ホラー
平穏な日常。
ある日の放課後、『時友晃』は幼馴染の『琴村香織』と談笑していた。
その時、屋上から人が落ちて来て…。
それは平和な日常が壊れる序章だった。
全7話
表紙イラスト irise様 PIXIV:https://www.pixiv.net/users/22685757
Twitter:https://twitter.com/irise310
挿絵イラスト チガサキ ユウ様 X(Twitter) https://twitter.com/cgsk_3
pixiv: https://www.pixiv.net/users/17981561
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ヴァルプルギスの夜~ライター月島楓の事件簿
加来 史吾兎
ホラー
K県華月町(かげつちょう)の外れで、白装束を着させられた女子高生の首吊り死体が発見された。
フリーライターの月島楓(つきしまかえで)は、ひょんなことからこの事件の取材を任され、華月町出身で大手出版社の編集者である小野瀬崇彦(おのせたかひこ)と共に、山奥にある華月町へ向かう。
華月町には魔女を信仰するという宗教団体《サバト》の本拠地があり、事件への関与が噂されていたが警察の捜査は難航していた。
そんな矢先、華月町にまつわる伝承を調べていた女子大生が行方不明になってしまう。
そして魔の手は楓の身にも迫っていた──。
果たして楓と小野瀬は小さな町で巻き起こる事件の真相に辿り着くことができるのだろうか。
暗夜の灯火
波と海を見たな
ホラー
大学を卒業後、所謂「一流企業」へ入社した俺。
毎日毎日残業続きで、いつしかそれが当たり前に変わった頃のこと。
あまりの忙しさから死んだように家と職場を往復していた俺は、過労から居眠り運転をしてしまう。
どうにか一命を取り留めたが、長い入院生活の中で自分と仕事に疑問を持った俺は、会社を辞めて地方の村へと移住を決める。
村の名前は「夜染」。
ツギハギ・リポート
主道 学
ホラー
拝啓。海道くんへ。そっちは何かとバタバタしているんだろうなあ。だから、たまには田舎で遊ぼうよ。なんて……でも、今年は絶対にきっと、楽しいよ。
死んだはずの中学時代の友達から、急に田舎へ来ないかと手紙が来た。手紙には俺の大学時代に別れた恋人もその村にいると書いてあった……。
ただ、疑問に思うんだ。
あそこは、今じゃ廃村になっているはずだった。
かつて村のあった廃病院は誰のものですか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる