26 / 59
深淵なる夜④
しおりを挟む
「ちょい待ち」
自動ドアを潜る寸前、莉奈は足を止めた。自由を確保している方の手で、傘立てと公衆電話の間のスペースを指す。手首を解放すると、莉奈は自らが指差した場所に店舗を背にして佇んだ。僕はその隣に移動する。
「どうした。入らないのか」
「その前に質問。コンビニなんかに来て、何がしたいの?」
「いや、だから、買いたいものがあるんだ」
「それは知ってる。でもお兄ちゃん、リュックサックを背負ってるよね。コンビニで買い物をするだけなのに、何でそんなものが必要なの?」
軽く狼狽してしまう。「中身を見せてもらわなくてもいい」という発言があった時点で、リュックサックにまつわる追及は終結したものと思っていたのだが……。
考えてはみたものの言い訳は思いつかず、焦りが徐々に膨張していく。それを食い止めるべく、心の声で繰り返す。
大丈夫。外から見てもリュックサックに頭部が入っていることが分からないのは、既に確認済みだ。臭いは発生していない。現時点で莉奈はリュックサックには触れていないし、触れさせないようにすることも難しくない。言い訳が苦しいものになったとしても、何とかなる。
「リュックサックを背負ってきた理由は、何となくだよ。気紛れってやつ。特にこれといった理由はないよ」
「は? 何それ」
「本当に何となくだから、これ以上訊かれてもそれ以上は答えられない。だから、そういうことにしておいてくれ」
我ながら強引だと思う。頭が変になったと疑われても文句は言えない、と覚悟した。
一方で、何となく手応えがあった。リュックサックを背負っている理由は何となくではないが、そちらの何となくは正真正銘の何となく。上手く説明できないが、とにかく手応えがあった。
莉奈は夜の闇に擬態するように沈黙し、眉間に皺を作って僕を睨んでいたが、やがて聞こえよがしに溜息をついた。
「分かった。言えないなら、そういうことでいいよ。じゃあ、コンビニで何を買おうとしていたの」
「鞄だよ」
「鞄? 何で?」
「鞄っていうか、袋っていうか、要するに体操着入れ。ほら、一昨日、体調悪くてトイレに籠もってただろ。その時に、吐いたものでちょっと汚れたから、買い換えたいなと思って。明日あるんだよ、体育の授業」
「……ああ、そうだったんだ。こんな時間に買いに行くのは、流石にどうかと思うけど」
「忘れていたんだよ。明日の朝に買ってもよかったんだけど、早めに済ませておきたかったから」
「ていうか、そのリュックサックじゃ駄目なの?」
「これだとでかすぎるだろ。体育があるたびに一々持って行ったり持って帰ったりするなんて、煩わしいよ」
間が生じた。言い分を、形だけでも信じてもらえるか否かの分かれ目だけに、緊張感は凄まじいものがある。
心配性な兄を穏やかに笑い飛ばすかのように、莉奈は表情を緩めた。
「わざわざ買わなくても、わたしのをあげる。体操着を入れるのにちょうどよさそうなサイズのを持ってるから」
「マジで?」
「うん、マジで。いる?」
「女子っぽくないデザインなら、もらおうかな」
「黒一色だから、むしろ男子向けかも」
「そっか。じゃあ、そうする」
「最初からわたしに言ってくれればよかったのに。お兄ちゃんのくせに、妹に心配かけさせないでよね」
僕の二の腕を軽く叩き、莉奈は相好を崩した。無理矢理作った笑顔ではないことは、日常的に彼女の喜怒哀楽と接している僕には一目で呑み込めた。
嘘をついて、納得させた。
僕の顔は微かに苦く歪む。ただし罪悪感はなく、むしろ安堵の念を覚えている。混じり気がないとは言えないが、とにもかくにも安堵の念を。
「しかし、危ないよな、莉奈も」
「え? 何が?」
「物騒な事件が多発しているのに、深夜に一人で出歩くことだよ。まあ、僕が言うのも何だけど。僕が家を出て行くのに気がついて、引き留めたかったんだったら、メールとか電話とかでもよかったのに」
「だって、ケータイ持ってるかどうか分からないし」
「外出時には欠かさず持ち歩くようにしてるよ。とりあえず連絡を入れてみて、不通だった場合は対応を考える、とかでもよかったんじゃないの」
「それは考えたよ。でも、やっぱり電話やメールじゃなくて、追いかけて引き留めた方がいいかな、と思って。窓越しに見たお兄ちゃん、何か雰囲気がいつもと違っていたから。言葉では上手く説明できないけど、とにかく、そうしなきゃって思ったの」
「……そっか」
心配してくれたんだな、お兄ちゃんのこと。
心の声が聞こえて、照れくさくなったとでもいうように、莉奈は髪の毛の先を指で盛んに触っている。
「気をつけろよ。行方不明になった女の子も、今日ハンマーで襲われた二人も小学生だから、莉奈はストライクゾーンに入ってるぜ」
「えー、大丈夫だよ。確か、最初の被害者が小学一年生で、今日襲われた子は二人とも二年生だったよね。わたし、来年から中学生だよ」
「だとしても、気をつけなきゃ駄目だぞ。頭がおかしい人間はどこにいて、何を企んでいるか分からないから」
「分かってる。今日はお兄ちゃんが出ていくのを見たから、特例中の特例。わたしだって、やばい人に殺されたくないし」
兄妹は微笑みを交わす。莉奈の笑顔からは屈託は読み取れない。その事実だけで、宮下紗弥加の頭部発見以降に味わった苦労の全てを許せる気がした。
自動ドアを潜る寸前、莉奈は足を止めた。自由を確保している方の手で、傘立てと公衆電話の間のスペースを指す。手首を解放すると、莉奈は自らが指差した場所に店舗を背にして佇んだ。僕はその隣に移動する。
「どうした。入らないのか」
「その前に質問。コンビニなんかに来て、何がしたいの?」
「いや、だから、買いたいものがあるんだ」
「それは知ってる。でもお兄ちゃん、リュックサックを背負ってるよね。コンビニで買い物をするだけなのに、何でそんなものが必要なの?」
軽く狼狽してしまう。「中身を見せてもらわなくてもいい」という発言があった時点で、リュックサックにまつわる追及は終結したものと思っていたのだが……。
考えてはみたものの言い訳は思いつかず、焦りが徐々に膨張していく。それを食い止めるべく、心の声で繰り返す。
大丈夫。外から見てもリュックサックに頭部が入っていることが分からないのは、既に確認済みだ。臭いは発生していない。現時点で莉奈はリュックサックには触れていないし、触れさせないようにすることも難しくない。言い訳が苦しいものになったとしても、何とかなる。
「リュックサックを背負ってきた理由は、何となくだよ。気紛れってやつ。特にこれといった理由はないよ」
「は? 何それ」
「本当に何となくだから、これ以上訊かれてもそれ以上は答えられない。だから、そういうことにしておいてくれ」
我ながら強引だと思う。頭が変になったと疑われても文句は言えない、と覚悟した。
一方で、何となく手応えがあった。リュックサックを背負っている理由は何となくではないが、そちらの何となくは正真正銘の何となく。上手く説明できないが、とにかく手応えがあった。
莉奈は夜の闇に擬態するように沈黙し、眉間に皺を作って僕を睨んでいたが、やがて聞こえよがしに溜息をついた。
「分かった。言えないなら、そういうことでいいよ。じゃあ、コンビニで何を買おうとしていたの」
「鞄だよ」
「鞄? 何で?」
「鞄っていうか、袋っていうか、要するに体操着入れ。ほら、一昨日、体調悪くてトイレに籠もってただろ。その時に、吐いたものでちょっと汚れたから、買い換えたいなと思って。明日あるんだよ、体育の授業」
「……ああ、そうだったんだ。こんな時間に買いに行くのは、流石にどうかと思うけど」
「忘れていたんだよ。明日の朝に買ってもよかったんだけど、早めに済ませておきたかったから」
「ていうか、そのリュックサックじゃ駄目なの?」
「これだとでかすぎるだろ。体育があるたびに一々持って行ったり持って帰ったりするなんて、煩わしいよ」
間が生じた。言い分を、形だけでも信じてもらえるか否かの分かれ目だけに、緊張感は凄まじいものがある。
心配性な兄を穏やかに笑い飛ばすかのように、莉奈は表情を緩めた。
「わざわざ買わなくても、わたしのをあげる。体操着を入れるのにちょうどよさそうなサイズのを持ってるから」
「マジで?」
「うん、マジで。いる?」
「女子っぽくないデザインなら、もらおうかな」
「黒一色だから、むしろ男子向けかも」
「そっか。じゃあ、そうする」
「最初からわたしに言ってくれればよかったのに。お兄ちゃんのくせに、妹に心配かけさせないでよね」
僕の二の腕を軽く叩き、莉奈は相好を崩した。無理矢理作った笑顔ではないことは、日常的に彼女の喜怒哀楽と接している僕には一目で呑み込めた。
嘘をついて、納得させた。
僕の顔は微かに苦く歪む。ただし罪悪感はなく、むしろ安堵の念を覚えている。混じり気がないとは言えないが、とにもかくにも安堵の念を。
「しかし、危ないよな、莉奈も」
「え? 何が?」
「物騒な事件が多発しているのに、深夜に一人で出歩くことだよ。まあ、僕が言うのも何だけど。僕が家を出て行くのに気がついて、引き留めたかったんだったら、メールとか電話とかでもよかったのに」
「だって、ケータイ持ってるかどうか分からないし」
「外出時には欠かさず持ち歩くようにしてるよ。とりあえず連絡を入れてみて、不通だった場合は対応を考える、とかでもよかったんじゃないの」
「それは考えたよ。でも、やっぱり電話やメールじゃなくて、追いかけて引き留めた方がいいかな、と思って。窓越しに見たお兄ちゃん、何か雰囲気がいつもと違っていたから。言葉では上手く説明できないけど、とにかく、そうしなきゃって思ったの」
「……そっか」
心配してくれたんだな、お兄ちゃんのこと。
心の声が聞こえて、照れくさくなったとでもいうように、莉奈は髪の毛の先を指で盛んに触っている。
「気をつけろよ。行方不明になった女の子も、今日ハンマーで襲われた二人も小学生だから、莉奈はストライクゾーンに入ってるぜ」
「えー、大丈夫だよ。確か、最初の被害者が小学一年生で、今日襲われた子は二人とも二年生だったよね。わたし、来年から中学生だよ」
「だとしても、気をつけなきゃ駄目だぞ。頭がおかしい人間はどこにいて、何を企んでいるか分からないから」
「分かってる。今日はお兄ちゃんが出ていくのを見たから、特例中の特例。わたしだって、やばい人に殺されたくないし」
兄妹は微笑みを交わす。莉奈の笑顔からは屈託は読み取れない。その事実だけで、宮下紗弥加の頭部発見以降に味わった苦労の全てを許せる気がした。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説


サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
逢魔ヶ刻の迷い子3
naomikoryo
ホラー
——それは、閉ざされた異世界からのSOS。
夏休みのある夜、中学3年生になった陽介・隼人・大輝・美咲・紗奈・由香の6人は、受験勉強のために訪れた図書館で再び“恐怖”に巻き込まれる。
「図書館に大事な物を忘れたから取りに行ってくる。」
陽介の何気ないメッセージから始まった異変。
深夜の図書館に響く正体不明の足音、消えていくメッセージ、そして——
「ここから出られない」と助けを求める陽介の声。
彼は、次元の違う同じ場所にいる。
現実世界と並行して存在する“もう一つの図書館”。
六人は、陽介を救うためにその謎を解き明かしていくが、やがてこの場所が“異世界と繋がる境界”であることに気付く。
七不思議の夜を乗り越えた彼らが挑む、シリーズ第3作目。
恐怖と謎が交錯する、戦慄のホラー・ミステリー。
「境界が開かれた時、もう戻れない——。」
死霊の指
ねこ沢ふたよ
ホラー
ある日学校の図書館で怪しげな本を見つけます。
そこで見つけたのは、ドンドン増える不思議な指のこと
見つけたならば、やってみたくなるのは、人間の性。
魔法陣を描いて、召喚した死霊の指。
誰が、どんな目的で? なぜ学校の図書館にその本が?
※以前に書いた物を、修正してお届けしております!
人気が無くとも、どの作品も、作者には可愛いのです。ごめんね
赤い部屋
山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる