深淵の孤独

阿波野治

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北山司③

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 結局、朝のショートホームルームが始まるまでに、北山司に声をかけられなかった。
 僕の臆病さに、筧は小馬鹿にしたように笑い、谷口は失望を露わにした。普段ならば言葉で反撃し、筧相手には肩を小突くくらいはするのだが、そうするだけの心のゆとりはなかった。

 今まで言葉を交わしたことすらなかったのに、僕が頭部を持ち帰った日に僕のメールアドレスを求めてくるなんて、明らかに不自然だ。北山司は宮下紗弥加を殺害し、頭部を切断し、正門の上に遺棄した張本人なのか? そうではなくても、宮下紗弥加殺害事件と何らかの関わりがあるのか? 明日メールアドレスを教えた際に、理由を尋ねてみよう。そうすれば、謎の答えも自ずと明らかになるはずだ。対応について検討するのは、答えを聞いてからでも遅くない。

 電話で筧から北山のことを聞いてから、教室に入るまでの間に考えたことを要約したならば、以上になる。
 それが今朝、髪の毛に白いリボンを結んだ彼女を見て、疑惑は一気に深まった。答えを知る瞬間までの時間を、平常心を保って待つことが極めて困難になった。

 授業中休み時間中を問わず、北山司の一挙手一投足を追視した。彼女が何か、僕が定義するところの「普通」から外れた行動を取ってはいないか。その一点に主眼を置いて。
 午前の観察の結果、彼女の言動に不自然な点は見受けられなかった。授業中は真剣に教師の話を聞いていたし、ペンを小まめに動かして黒板の文字をノートに書き写していた。休み時間になると、鞄から取り出した文庫本を熱心に読んだ。一度、恐らくは小用を足すために教室から出たのみで、それ以外はずっと着席していた。クラスメイトの誰とも会話を交わすことなく、本を手に一人静かに。
 大人しくて、生真面目な、よくも悪くも存在感が希薄な生徒。そんな印象を受けた。

 しかし、彼女に対する警戒並びに監視態勢は解除しない。僕が頭部を持ち帰った日に、僕のメールアドレスを求めた。その事実だけで、殺人鬼かもしれないと疑うに値するからだ。
 影が薄い優等生。猟奇殺人事件の犯人。どちらが真実の彼女なんだ?


*


「おい龍平、チャンスだぜ。昼休みの今が」

 午前最後の授業のチャイムが鳴り終わるや否や、筧が僕の席までやって来て声をかけた。表情も口振りも冷やかすような調子だったが、瞳の奥には真剣な色がふてぶてしく居座っている。

「何がチャンスなんだよ」
「アホ。『一緒に昼飯食おう』って誘ったら自然だろうが」

 筧はもどかしげに声を強めた。

「一緒に飯食って、話をして、最後にメアドを交換すればいい。今日の続きはメールでしようね、みたいな感じで。北山がどこかに行ってしまわないうちに、お前の方から話しかけろよ」

 北山は自席に着いて文庫本を読んでいる。机の上には教科書と文房具が出しっぱなしだ。昼休みに入って約三分。今のところ、昼食をとろうとする素振りは見せていない。

「北山の方から教えてほしいって言ってきたんだぜ? いけるだろ、普通に考えて」
「とりあえず、声をかけてくれば? 断られたら、メールアドレスだけ交換して退散すればいい」

 合流した谷口が意見を述べた。筧は繰り返し頷いて同意を示す。僕は溜息をついた。

「分かったよ。行ってくる」

 話をしてみなければ見えてこないこともある。そういう意味で、僕も二人の意見には賛成だ。不安材料も、不安な気持ちも少なくはなかったが、それらと折り合いをつけてでも接触するべきだ。
 真っ直ぐに歩み寄り、目的の机の脇で足を止める。北山司は読書に没頭していて、僕には見向きもしない。無視しているのではなく、存在に気づいていないだけだと理解してはいたが、嫌な感じがした。プレッシャー、不快感、不安――様々なネガティブな感情を総称しての「嫌な感じ」だ。

「北山さん」

 細い首が回り、顔がこちらを向く。視線が重なった瞬間、闇色の瞳に吸い込まれるような感覚に襲われ、眩暈にも似た症状に一瞬見舞われた。
 北山は読んでいたページにスピンを挟み、本を閉じて机の上に静かに置く。間近で直視した彼女の顔は陶器のように白く、衣服越しにも線の細さが読み取れる。殺人事件の加害者よりも被害者に相応しい、そんな印象だ。

「メールアドレス、だよね。北山さんと全然話したことなかったし、驚いて」
「うん。ごめんね、急に」

 声量は決して大きくないが、発音の一つ一つが明瞭で、地に足がついた喋り方をする。抑揚がなく、感情が読み取れない。

「いや、気にしないで。ただ驚いただけだから」

 感情が浮かばないのは顔もそうだ。メールアドレスを欲した相手が話しかけてきたのだから、思惑が何にせよ、愛想笑いくらいはしてもいいだろうに。
 北山の振る舞いは、客観的には異常と評するほどではないかもしれない。しかし、宮下紗弥加の事件との関連を疑っている僕には、その評価が適当に思える。

「ちょうど昼休みだし、一緒に食べない? 僕は弁当なんだけど、北山さんは?」
「私もお弁当。じゃあ、どこで食べようか。お勧めの場所とか、ある?」
「いつも教室で食べているから、よく知らなくて。北山さんの希望があれば、合わせるけど」
「それじゃあ、校庭の南にある木のあたりはどう? あそこなら人もいないだろうし」
「そうだね。そこで一緒に食べよう」

 視線を感じて振り向くと、筧と谷口が僕たちのことを見ている。筧は、彼がよく見せる弛緩した笑みを浮かべて。谷口は、静謐ながらも深い関心を湛えた瞳で。
「友達と話があるんだったら、先に行ってようか?」
 僕の視線の先にいる二人を見ての北山の発言だ。
「うん、そうして」
「じゃあ、待っているから」

 文庫本を鞄の中に仕舞い、入れ替わりに小さな白い包みとペットボトルを取り出し、教室から出て行く。
 宮下紗弥加の事件に関係しているかどうかは、不明。僕に恋愛感情は抱いているとは、到底思えない。以上が、北山と会話をしてみてのありのままの感想だ。

「北山、出て行っちゃったけど、どうなった?」

 自席に戻ると、すかさず筧が問うてきた。

「一緒に食べることになった。北山さんは先に行ってるって」

 つっけんどんに答えると、筧は「おお!」と歓声を上げた。

「やったじゃん! 早くしないと、時間が勿体ないぜ」
「分かってる。覗き見とか、するなよ」
「するわけないだろう。いいから、行ってこい」

 谷口が促す。筧はただただにやついている。僕は鞄から弁当箱と水筒を取り出し、教室を出た。
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