深淵の孤独

阿波野治

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北山司①

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 寝つきこそやや悪かったが、昨夜とは違い、充分な睡眠時間を確保できた。豚肉を食べた時の経験を生かし、無心を心がけたのが功を奏した気もする。爽やかな目覚めとは言い難かったが、二日間で溜まりに溜まった疲れは大幅に解消された。
 ほーほー、ほほー、という、例の鳴き声は聞こえてこない。
 そんな朝は決まって、世界から僕一人が仲間外れにされている気がするものだが、今日は寂寥感に襲われることはない。一昨日あった出来事が出来事だけに、より強い寂しさに駆られても不思議ではないのに。

 朝のルーティンを普段通りにこなす。クローゼットの中身のことは極力考えないようにしたが、いよいよ登校しなければならない時間が迫り、向き合わざるを得なくなった。
 部屋のドアの鍵は外側からはかけられない。家族が無断で開けることはないだろうが、専業主婦の母親は一日中家にいるし、莉奈の帰宅時間は基本的には僕よりも早い。念には念を入れて、宮下紗弥加の頭部の隠し方にもう一工夫を加えたい。
 施した処置はこうだ。頭部が入った体操着入れをダンボール箱に入れ、ガムテープで封をする。それをさらに一回り大きいサイズのダンボール箱に入れて同じように封をし、クローゼットの最奥に安置する。それを隠すように他の荷物を積み上げ、ドアを閉ざす。

 母さんと莉奈は、僕が長時間トイレに籠もっていたのを不審に思ったかもしれないが、部屋のクローゼットに何かを隠していると疑ったわけではない。クローゼットのドアの外観が不自然でなければ、開けることはまずない。今のところ死臭は発生していないのだから、怪しむ理由はない。何かの間違いで開けたとしても、こんなにも厳重に隠蔽したのだから、頭部まで辿り着く可能性は、ゴルフの素人がホールインワンを決めるくらいに低いはずだ。
 大丈だ。絶対に見つかりはしない。
 何度も言い聞かせるうちに、頭部を残して家を出る決心がついた。作業に思いの外時間を食ったため、普段よりも少し遅い登校となった。


*


 僕は学校へは毎朝一人で向かう。友人たちの自宅の方角がてんでばらばらというわけではないのだが、筧が低血圧で朝に弱く、遅刻することがままある。行動を共にするならば下校時のみ、という場合が多かった。
 あのあと、あんなものを発見するとは知らずに、あのコンビニで朝食を買って店先で食べたんだな。
 あんなものを抱えて逃げ帰ることになるとは思いもしないで、紫陽花を鑑賞しながらこの道を歩いたんだな。
 一昨日のことを振り返りながらの歩みとなる。後悔も、嘆きも、悲しみもない。赤の他人に降りかかった些細な悲劇の顛末を、別室からモニター越しに観覧しているかのようだった。

 精神が変調を来たしたのは、なだらかな上り坂が終点に近づき、正門一帯の光景が視界に映った瞬間のこと。二日前の早朝、あの場所で体験した出来事や思いや感情が彷彿と甦り、鼓動がにわかにテンポを速めた。
 今日は一昨日とは違う。人間の頭部が二度も校門に置かれているはずがない。よく見ろ。よく見てみるんだ、楠部龍平。門柱の上には虚空があるだけだ。生徒たちは平然と正門を通過しているではないか。頭部は置かれていない。だから、臆するな。
 繰り返し自らに言い聞かせたが、顔が引きつっているのが鏡を見ずとも分かったし、足取りは断頭台へと赴く囚人さながらに鈍る。僕の表情や歩行様態を目に留めた者がいたならば、双眸を正円に変形させて僕を凝視したかもしれない。

 まさか、恐怖の大王が僕を萎縮させている、とでも言うのか?
 そんなはずはない。宮下紗弥加の頭部が恐怖の大王なのだとすれば、人々を恐怖させる不可視の光線を放出する装置なのだとすれば、その装置は僕の自宅のクローゼットに幽閉されている。
 馬鹿げた考えを否定したことで、動悸の悪化を防ぎ、最低限の精神の安定を保持できた。脈拍の異常は、正門を潜ったのを境にして正常へと向かった。

 入れ替わるように意識の中心に進出してきたのは、北山司。
 彼女が僕のメールアドレスを求めた動機について、改めて考えてみる。
 狭義の好意を僕に寄せたからだとは、やはり考えられない。宮下紗弥加の事件と何らかの関わりがあるから、なのだろうか? 他に思い当たる節がないだけに、凄まじく嫌な予感がする。

 微かな躊躇いのようなものを感じながら、教室の戸を開く。自意識過剰が生んだ錯覚だと理解しながらも、中にいる生徒たちが一斉に視線を注いできた気がして、体が硬直してしまった。
 数秒を経てその状態が解除されると、直ちに北山司の姿を探した。そして、彼女の容姿を把握していないことに気がつく。長身なのか、短躯なのか。長髪なのか、短髪なのか。美人なのか、不器量なのか。それすらも僕は知らない。

 筧と谷口は、窓際最後列の谷口の席で話をしている。僕が教室に来たことにはまだ気がついていないらしい。
 移動を開始した直後、谷口が何気なくといった風にこちらを向き、黒縁眼鏡の奥の瞳が僕を捉えた。僕が人差し指を縦にして唇に宛がうと、何食わぬ顔で会話に戻った。
 頬杖をついて盛んに口を動かしている筧は、僕と谷口の間で無言のやりとりが交わされたことに気がついた様子はない。何が滑稽なのか、口蓋垂が見えそうなくらい大口を開けて馬鹿笑いをした。
 僕は筧の背後で足を止め、筧の後頭部を平手で軽くはたいた。

「いってぇ! いきなり何を――」
「やあ、ナオ。久しぶり」
「……何だ、龍平か。ちゃんと生きてたんだな、お前」
「死んでたまるか。ていうか、昨日電話で話をしただろ」
「女の子を殺した犯人に殺されたのかと思って、心配したんだぜ? いや、マジで」

 何と言葉を返せばいいかが分からず、フリーズしてしまう。
 このままでは、まずい。僕が不審な挙動を見せたことがきっかけになり、宮下紗弥加失踪事件との関連を疑われる展開にならないとも限らない。
 喉が急速に砂漠化していく。熱を孕んだ脂汗が今にも噴き出しそうだ。可能な限り早期に立ち直らないと、取り返しがつかないことになる。

「まだ殺されたとは決まっていないだろう。殺されたのだとしても、犯人は変態ロリコン野郎の可能性が高いんだから、楠部が狙われるわけがない」

 主観的には絶体絶命にも思える状況の中、谷口が助け舟を出してくれた。視線は僕ではなく、筧へと注がれている。僕を助けたかったのではなく、単に筧の発言に異議を唱えたかっただけらしい。

「いや、それは分かってるけど。ていうかグッさん、何で犯人がロリコンって断言できるんだよ」
「断言はしていない。可能性が高いと言っただけだ」

 何はともあれ、命拾いをした。内心胸を撫で下ろしながら、右隣の男子生徒の席の椅子を借りて座る。
 僕が不在の間、筧は谷口を相手に事件について散々話したはずだ。頼むから、僕をまごつかせるような話は二度としないでくれ。
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