深淵の孤独

阿波野治

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一夜が明けての様々な会話③

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 やがて莉奈が再び姿を見せ、母親と共にキッチンで調理を始めた。
 基本的には母親と言葉を交わしながらも、積極的に僕に話しかけてくる。考える必要のない、あるいは考えたくない問題について思案せずに済んだこと。宮下紗弥加の頭部が待つ部屋に戻らなくてもいい理由ができたこと。二重の意味でありがたい。懸案から逃げている自覚と、それに伴う後ろめたさはあったが、御しきれないほどに増長することはない。

 六時半を回って父親が帰宅した。僕の体調に関する短いやりとりを僕と交わしてから、二階の自室へ。料理の匂いの主張が大分強くなってきた。

「お兄ちゃん、できたよー。自分で言うのも何だけど、すっごく上手に作れた」

 後ろ手にエプロンの紐をほどきながら、莉奈が報告した。得意満面といった表情だ。

「さあ、手ぇ洗ってきて」

 命令に従い、洗面所から戻ってきた時には、テーブルの中央に大皿が置かれている。満面の笑みの莉奈が両手でそれを示す。

「じゃーん! 今日作ったのはこれでーす」

 中華風野菜炒めだ。野菜を中心に、何種類かの食材が食べやすいサイズにカットされ、加熱され、とろみがついた中華スープでひとまとめにされている。品目が多く、栄養バランスがよさそうで、丸一日以上食事をしていない僕にぴったりの一品だ。目の当たりにした瞬間はそう思った。
 しかしその評価は、白濁としたスープがからんだ食材の一つを認めた瞬間、撤回せざるを得なくなる。

「栄養とか、作りやすさとか、色々考えて野菜炒めにしたんだ。結構大変だったよ。食材をちょうど十種類使ったんだけど――」

 兄の表情の変化に気づく様子もなく、莉奈は自作の料理について誇らしげに語っている。
 僕の目に留まったのは、豚肉。扁平な、加熱によって白っぽく変色したその食材は、少女の青白い肌を否応にも想起させた。
 豚肉――人肉――殺された少女。

 突飛な連想などではない。宮下紗弥加の首から下の体は、首と共に置かれてはいなかった。犯人の異常性を考えれば、食料として活用した可能性もゼロではない。
 事前にその連想が予測できていたならば、豚肉が極力視界に入らないように注意を払っていた。人肉が使われているはずがないのだから気にせずに食べろと、自らに言い聞かせておくこともできた。
 しかし、見てしまった。直視してしまった。軽い嘔吐感が込み上げてきて、堪らず目を逸らす。

「……えっと、何か嫌いなものでも入ってた?」

 莉奈は少し眉根を寄せて僕の顔を見つめる。

「お兄ちゃん、食べ物の好き嫌いは殆どなかったと思うけど。何が駄目だったの?」
「いや、そういうことでは――」
「莉奈、配膳手伝って」

 キッチンから母親が大声で呼ぶ。莉奈は「はーい」と返事をしてキッチンに戻る。僕は浮かんでもいない頬の汗を手の甲で拭った。
 料理と食器が並べ終わり、父親が二階から下りてくる。全員が着席を完了し、二日ぶりとなる家族四人揃っての夕食が始まった。

 テレビを点け、他愛もない会話を散発的に交わしながら、箸を動かす。言葉によるやりとりの合間を縫い、莉奈の探るような視線が僕の顔や手元へと注がれる。手料理をお披露目した際の反応が芳しくなかったから、だろう。
 人肉はあくまでも連想しただけで、実際に使われているのは豚肉だと承知している。それでも僕の箸は、十種類の中から豚肉だけを巧みに避ける。今のところ莉奈は気がついていないようだが、選り好みが発覚するのも時間の問題だ。その事態を未然に防ぐには、抵抗感を振り切って食べるしかない。

 豚肉を単独で食べる冒険は避けた。野菜と野菜の間に挟んで視覚的に隠蔽し、口に放り込む。肉の柔らかい感触をなるべく味わわないように、極力噛む回数を抑え、殆ど呑み込むようにして食道送りにする。肉を食していることを意識しないように、無心を心がけてそれを繰り返す。
 作り手に対して失礼な食べ方だ。せっかく僕のために作ってくれた莉奈には、済まないと思う。しかし、代替案は思いつかない。
 作戦は功を奏したらしく、莉奈が僕に注目する頻度は次第に低下していく。ただ、妹の好意を踏みにじっていると自覚しながらの食事だから、愉快な気持ちにはなれない。

 やがて情報バラエティ番組が本日の放送を終了し、ローカルニュースに移行した。アナウンサーのごく短いオープニングトークを経て、最初のニュースが始まる。案の定、宮下紗弥加失踪事件についてだ。
 新たに判明した事実や情報はないらしく、既成の事実を並べ直したような構成だ。ただ、極めて特殊な形で、しかも密に宮下紗弥加に関わってしまったあとだけに、一昨日と同じ心境で見聞きはできない。

 画面が切り替わり、宮下紗耶香の母親が映し出される。涙ながらに娘の無事を祈っている。一昨日同じチャンネルで放送されていた、別の番組で流れていたのと同じ映像だ。
 宮下紗弥加の母親は震えを帯びた声で、愛娘の早期の発見と帰宅を繰り返し願う。自らが発したふとした一言が引き金となって感情が昂ぶり、堪えていた涙が溢れ出し、言葉が続かなくなる。
 箸を持つ右手の震えを抑えるのに苦労した。そうする傍ら、豚肉を肉だと意識しないように心がけながら食べなければならないため、実感としては苦行に臨んでいるに等しい。
 母親のインタビューの模様が終わり、画面がスタジオに戻るまでの一分少々が、果てしなく長く感じられた。
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