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一夜が明けての様々な会話①
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カーテン越しに見え透く空が、太陽由来の明るさに染め上げられてから、秒針は幾千回時を刻んだだろう。
時間の感覚は鈍磨している。ヘッドボードのケータイのサブディスプレイを確認したり、机上の置き時計を一瞥したりする気力すらない。もうじき夕焼けが見られる時間帯かもしれない、と他人事のように思う。
僕はベッドの上に両脚を投げ出して座り、壁にもたれ、反対側の壁の白亜を廃人のように眺めている。あれほど深く被っていた掛け布団は、今や完全に体から外れ、半ば床に落ちかかっている。
全身の震えは収束している。殺人鬼の幻影は出現しなくなった。
ただただ心細かった。両親と莉奈を逆恨みする気持ちは、今となっては微塵もない。血が通った人間と交流したかった。心ならずも拒絶した優しさを、今度こそ受け取りたかった。
あちらが会いに来てくれないなら、こちらから会いに行くしかない。
演技がかったような緩慢さでベッドから下りる。体がふらつき、丸一日以上何も口にしていない事実に気がつく。一階に下りる理由が二つになったのだから、もう下りるしかない。
着替えを取り出すべく箪笥へ向かおうとして、裏返った声が飛び出した。
宮下紗弥加の頭部が床に放置されている。犯行声明文共々、仕舞い忘れている。
猛然とドアへと走り寄り、ノブを掴んで揺さぶる。施錠されている。幻影と格闘している間に何者かが部屋に侵入したのでは、という懸念が晴れ、肩の力が抜けた。危うくベッドに倒れ込みそうになったのは、あるいは、睡眠と栄養の不足による体力の低下も一因かもしれない。
頭部を体操着入れに入れ直す。犯行声明文を再び髪の毛に結ぶ気にはなれず、小さく畳んで袋に仕舞い、クローゼットの奥に押し込む。昨日と比べて、嫌悪感を覚えるなりに頭部に触れる抵抗感は少なくて済み、指先が微震するなりに手際はいい。手早く着替え、ケータイをジーンズのポケットに押し込んで部屋を出る。
廊下とリビングを仕切るドアに達した。耳を澄ませずとも、テレビの音声が微かに聞こえてくる。
人がいる。
家族がいる。
一人ではない。
両の瞳が淡く潤んだ。人間に会いたい。その一念に促され、空間と空間を隔てるものを開く。
「あら、龍平」
ダイニングテーブルに着いていた母親が、肩越しにこちらを振り返り、素っ頓狂な声を上げた。読んでいた地方紙の夕刊を、悪事を目撃されたかのように急ぎがちに畳む。
「足音も立てずに下りてくるから、びっくりした。それよりあんた、体調の方はもう大丈夫なの?」
僕は小首を傾げる。母親は席を立つ。
「そんなところで突っ立ってないで、座りなさい。心配したのよ? お腹が空いたら下りてくるだろうと思って放っておいたけど、ずっと部屋に籠もりきりだから。昨日、学校にやけに早く行ったと思ったら、真っ青な顔して帰ってきたけど、何があったの?」
「莉奈は?」
自分の席に腰を下ろし、質問を無視して質問を投げかける。昨日の出来事に触れられたくなくて、話を逸らそうとしたのか。本当に莉奈のことが気がかりだったのか。
「莉奈なら学校よ。もう四時を回っているから、そろそろ帰ってくるんじゃない。ずっと寝ていたから、時間が分からなくなっているのね」
母親は口元に皺を作り、シンクで手を洗う。体調不良という事情を斟酌し、質問を無視した事実を看過してくれたらしい。
「お腹空いたでしょう。すぐに食べられるものを作るから、ちょっと待ってなさい」
タオルで手を拭うと、今度は調理用具の用意を始める。
食欲はないと伝えようとしたのだが、声が掠れて「食欲」としか言えなかった。その一言も、音量の小ささのせいで母親の耳には届かなかったらしく、冷蔵庫を開けて食材を取り出し始める。
ドアの隙間からミネラルウォーターのペットボトルが見えた瞬間、自室に籠もっている間、一滴も水を飲んでいないことに気がついた。途端に、舌が口蓋に貼りつく感覚を覚えた。唾を生成し、口内に行き渡らせて乾燥を最低限解消し、邪魔なものを呑み込む。
「いいよ、作らなくても。もうすぐ晩ご飯だから、その時に食べる。それより、水ちょうだい」
「あら、そう? お水ね、はいはい」
母親はミネラルウォーターをグラスに注ぎ、ダイニングテーブルまで持って来てくれた。去りゆく背中に向かって心中で謝辞を述べ、一口飲む。軟水の滑らかな喉越しに、無償の愛を施されたことへの率直な喜びが湧き、口角が弛緩する。
「お母さんは晩ご飯の支度をするから、あんたはここでゆっくりしてなさい」
柔らかい口調で告げ、作業を再開する。僕のために特別に、ということではなく、まだ午後五時前ではあるが、夕食の準備に取りかかるらしい。
テレビでは夕方の情報バラエティ番組が流れている。日本における携帯電話の人口普及率が五十パーセントを超えた、という調査結果が紹介され、コメンテーターが意見を述べている。僕には全く興味がない話題だ。
グラスを空にして椅子から立ち上がる。肩越しに視線を投げかけてくる母親の姿を目の端に映しながら、リビングの白革のソファに腰を下ろし、ジーンズのポケットからケータイを取り出す。
通知を確認すると、メールが二通届いている。一通は莉奈からで、もう一通の差出人は友人の筧ナオ。
莉奈からのメールは、兄の体調を心配する内容だ。元気づけるためか、絵文字や顔文字がいつもにも増して使用されている。少し照れくさいが、嬉しい一通だ。もうすぐ帰宅する時間なので、礼はその時にすることにする。
筧からのメールには、その日学校で起きた出来事や友人との会話のレポートが、いつも通りフランクな調子で綴られている。それに紛れさせるように、僕の体調を気づかう一文が挿入されている。
あいつらしいな。思わず笑みがこぼれた。
普段は馬鹿なことばかり言い合っている友人に、率直な喜びと感謝の意をストレートに表明するのは照れくさい。打ち込んだばかりの返信メールを見返すと、文章が少々堅苦しくなっている。冷やかされるかもしれないと思いながらも、一か所あった打ち間違いを訂正するだけにして、送信する。
時間の感覚は鈍磨している。ヘッドボードのケータイのサブディスプレイを確認したり、机上の置き時計を一瞥したりする気力すらない。もうじき夕焼けが見られる時間帯かもしれない、と他人事のように思う。
僕はベッドの上に両脚を投げ出して座り、壁にもたれ、反対側の壁の白亜を廃人のように眺めている。あれほど深く被っていた掛け布団は、今や完全に体から外れ、半ば床に落ちかかっている。
全身の震えは収束している。殺人鬼の幻影は出現しなくなった。
ただただ心細かった。両親と莉奈を逆恨みする気持ちは、今となっては微塵もない。血が通った人間と交流したかった。心ならずも拒絶した優しさを、今度こそ受け取りたかった。
あちらが会いに来てくれないなら、こちらから会いに行くしかない。
演技がかったような緩慢さでベッドから下りる。体がふらつき、丸一日以上何も口にしていない事実に気がつく。一階に下りる理由が二つになったのだから、もう下りるしかない。
着替えを取り出すべく箪笥へ向かおうとして、裏返った声が飛び出した。
宮下紗弥加の頭部が床に放置されている。犯行声明文共々、仕舞い忘れている。
猛然とドアへと走り寄り、ノブを掴んで揺さぶる。施錠されている。幻影と格闘している間に何者かが部屋に侵入したのでは、という懸念が晴れ、肩の力が抜けた。危うくベッドに倒れ込みそうになったのは、あるいは、睡眠と栄養の不足による体力の低下も一因かもしれない。
頭部を体操着入れに入れ直す。犯行声明文を再び髪の毛に結ぶ気にはなれず、小さく畳んで袋に仕舞い、クローゼットの奥に押し込む。昨日と比べて、嫌悪感を覚えるなりに頭部に触れる抵抗感は少なくて済み、指先が微震するなりに手際はいい。手早く着替え、ケータイをジーンズのポケットに押し込んで部屋を出る。
廊下とリビングを仕切るドアに達した。耳を澄ませずとも、テレビの音声が微かに聞こえてくる。
人がいる。
家族がいる。
一人ではない。
両の瞳が淡く潤んだ。人間に会いたい。その一念に促され、空間と空間を隔てるものを開く。
「あら、龍平」
ダイニングテーブルに着いていた母親が、肩越しにこちらを振り返り、素っ頓狂な声を上げた。読んでいた地方紙の夕刊を、悪事を目撃されたかのように急ぎがちに畳む。
「足音も立てずに下りてくるから、びっくりした。それよりあんた、体調の方はもう大丈夫なの?」
僕は小首を傾げる。母親は席を立つ。
「そんなところで突っ立ってないで、座りなさい。心配したのよ? お腹が空いたら下りてくるだろうと思って放っておいたけど、ずっと部屋に籠もりきりだから。昨日、学校にやけに早く行ったと思ったら、真っ青な顔して帰ってきたけど、何があったの?」
「莉奈は?」
自分の席に腰を下ろし、質問を無視して質問を投げかける。昨日の出来事に触れられたくなくて、話を逸らそうとしたのか。本当に莉奈のことが気がかりだったのか。
「莉奈なら学校よ。もう四時を回っているから、そろそろ帰ってくるんじゃない。ずっと寝ていたから、時間が分からなくなっているのね」
母親は口元に皺を作り、シンクで手を洗う。体調不良という事情を斟酌し、質問を無視した事実を看過してくれたらしい。
「お腹空いたでしょう。すぐに食べられるものを作るから、ちょっと待ってなさい」
タオルで手を拭うと、今度は調理用具の用意を始める。
食欲はないと伝えようとしたのだが、声が掠れて「食欲」としか言えなかった。その一言も、音量の小ささのせいで母親の耳には届かなかったらしく、冷蔵庫を開けて食材を取り出し始める。
ドアの隙間からミネラルウォーターのペットボトルが見えた瞬間、自室に籠もっている間、一滴も水を飲んでいないことに気がついた。途端に、舌が口蓋に貼りつく感覚を覚えた。唾を生成し、口内に行き渡らせて乾燥を最低限解消し、邪魔なものを呑み込む。
「いいよ、作らなくても。もうすぐ晩ご飯だから、その時に食べる。それより、水ちょうだい」
「あら、そう? お水ね、はいはい」
母親はミネラルウォーターをグラスに注ぎ、ダイニングテーブルまで持って来てくれた。去りゆく背中に向かって心中で謝辞を述べ、一口飲む。軟水の滑らかな喉越しに、無償の愛を施されたことへの率直な喜びが湧き、口角が弛緩する。
「お母さんは晩ご飯の支度をするから、あんたはここでゆっくりしてなさい」
柔らかい口調で告げ、作業を再開する。僕のために特別に、ということではなく、まだ午後五時前ではあるが、夕食の準備に取りかかるらしい。
テレビでは夕方の情報バラエティ番組が流れている。日本における携帯電話の人口普及率が五十パーセントを超えた、という調査結果が紹介され、コメンテーターが意見を述べている。僕には全く興味がない話題だ。
グラスを空にして椅子から立ち上がる。肩越しに視線を投げかけてくる母親の姿を目の端に映しながら、リビングの白革のソファに腰を下ろし、ジーンズのポケットからケータイを取り出す。
通知を確認すると、メールが二通届いている。一通は莉奈からで、もう一通の差出人は友人の筧ナオ。
莉奈からのメールは、兄の体調を心配する内容だ。元気づけるためか、絵文字や顔文字がいつもにも増して使用されている。少し照れくさいが、嬉しい一通だ。もうすぐ帰宅する時間なので、礼はその時にすることにする。
筧からのメールには、その日学校で起きた出来事や友人との会話のレポートが、いつも通りフランクな調子で綴られている。それに紛れさせるように、僕の体調を気づかう一文が挿入されている。
あいつらしいな。思わず笑みがこぼれた。
普段は馬鹿なことばかり言い合っている友人に、率直な喜びと感謝の意をストレートに表明するのは照れくさい。打ち込んだばかりの返信メールを見返すと、文章が少々堅苦しくなっている。冷やかされるかもしれないと思いながらも、一か所あった打ち間違いを訂正するだけにして、送信する。
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