深淵の孤独

阿波野治

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被害者の正体、加害者の正体②

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 重苦しい空気が室内に蔓延している。無力感が滾々と湧出し、心を暗澹たる純黒に塗り潰していく。我が子の現状を知ったら、宮下紗弥加の母親はどんなに嘆き、悲しむだろう。身につまされて、つまされて、つまされて、目の奥が灼熱地獄と化し、心臓が物理的に痛む。現実と向き合うことを放棄したい。そう切に願った。
 それでも面と向かわなければならない。懸案を先送りにしたところで、状況が好転する可能性は絶望的だ。困難でも、気乗りがしなくても、根気強く解決策を模索していくしかない。

 とにもかくにも、頭部をどう処理するか。
 頭部入りの体操着入れを提げたまま母親や莉奈と会話をした際の、あの生きた心地がしない、酷く長く感じられた時間を思い返す。
 あの物体が手元にある限り、僕は安らげない。家族に発見されれば、僕は破滅だ。早急に問題の解決を図らなければ。

 深遠なる謎を解き明かさなければならない課題を突きつけられた人間は、その謎を構成する物体の一つをまずは手に取ってみるのではなく、途方に暮れてただ立ち尽くす。平々凡々の中央に位置する僕も、その御多分に漏れなかった。
 唯一違ったのは、事態があまりにも深刻だったために、危機感に背中を押されたこと。
 自画自賛したくなるくらい粘り強く、問題解決のための鍵を探し求めた。落ち着け。自暴自棄にだけはなるな。余計なことは考えずに、考えるべきことだけを考えろ。何度も何度もそう自らに言い聞かせながら。
 絶望感漂う暗中模索が続いた。それにも疲れて、悪く言えば気の緩みが生じ、よく言えば肩の力が程良く抜けた。心身がそのような状態になった時にありがちなことだが、初歩的にも思える疑問が唐突に浮上した。

 宮下紗弥加の後ろ髪に結ばれていたもの。
 僕はそれを、白いリボンのようなもの、と認識した。白いリボン、ではなく、白いリボンのようなもの、と。
 リボンではないとしたら、何が使われているんだ?
 死体にまつわる未知の事実を確認するのだから、怖さは当然ある。ただ、思案は煮詰まっている。気分転換、という言葉を使うのは呑気すぎるようだが、少し体を動かしたかった。

 ベッドからクローゼットの前まで移動し、ドアノブに手をかけたところで、僕は硬直してしまう。
 腰を抜かすほどに恐怖し、嘔吐するほどに嫌悪した物体なのだから、無理もない。しかし、確認してみない限りは次のステージへは進めない。口腔の唾を嚥下して腹を括り、ひと思いにドアを開く。

 仄暗く、埃っぽい空間の片隅に、歪に膨らんだ体操着入れが置かれている。頭部の輪郭が浮き出ているわけではないが、袋に頭部を入れた張本人である僕には、いかにもその物体が入っているらしく見え、青臭い不快感を喉の奥に覚えた。
 その場に片膝をつき、床に擦らないように注意を払いながら引っ張り出す。その程度の作業をこなしただけで、額にべたついた汗が滲んだ。手の甲で拭い、深々と息を吐く。袋の口を開ければ、頭部に起因する臭いが解き放たれる。自室で心置きなく呼吸できるのは、これが最後かもしれない。

 袋の口に両の人差し指を差し込み、慎重すぎるほどに慎重な手つきで左右に開いていく。穴の面積が徐々に広がり、比例して、視界に映る髪の毛の黒色も拡大していく。
 一部分ではあるが頭部を、実に数時間ぶりに見たことに対する恐怖は、意外にもなかった。恐れていた悪臭も感じ取れない。二つの結果に勇気づけられ、これまでの慎重さが嘘のように素早く、口を限界まで広げる。皮を剥くようにして、頭部を八割方露出させる。

 髪の毛に結ばれている白いものは、やはりリボンではなさそうだ。恐る恐る触れて見ると、冷ややかで固い。紙の手触りだ。
 ほどきにかかったが、結び目が固く、容易には外せない。手間取っている間も、両手は髪の毛に触れ続けている。死人の一部と肉体的に接触するのは、当たり前だが快いものではない。炎天下で立ち働く肉体労働者のごとく、汗を滂沱と垂れ流しながらの作業となる。
 漸く、結び目と結び目の間に指を差し込むことに成功した。そのまま指を小刻みに動かし、結束を緩めていく。

 リボンがほどけ、ひとまとめになっていた後ろ髪が広がったのを見て、全身に鳥肌が立った。

 リボンのようなものの正体は、白くて厚みがある、細長い紙製の物体だった。薄い層が折り重なることで厚みが生じているらしい。
 広げてみると、A4サイズのコピー用紙らしき紙だ。真っ赤な文字で埋め尽くされている。定規か何かで引いて書いたらしく、一画一画が直線的だ。
 早速目を通した。

『先日、とうとう一つの小さな命を奪った。悲願だった殺人を達成した今、とても晴れやかな気分だ。掛け替えのない生命を永久にゼロにする――この世界で最高の快楽だ。だが、私の心は依然として満たされていない。近々、さらなる命をこの手で奪おう。凶行はもう誰にも止めることは出来ない。無力な愚民共よ。せいぜい隣人を疑い、震えながら朝を待つがいい。』
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