深淵の孤独

阿波野治

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「それ」との遭遇③

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 胃の中のものを長々と放出したあと、断続的に三・四回吐き、嘔吐感は終結した。
 全身汗だくだ。顔面を垂れ落ちる汗が不快でならない。トイレットペーパーを使おうかとも思ったが、濡れたそれが肌にへばりつきそうで、口元の残滓を拭うのに用いるに留めた。
 少し強張ったような体を叱咤してレバーに手を伸ばし、水を流す。吐瀉物とトイレットペーパーが渦に飲み込まれる光景と音声を、無心で視聴する。吐いたものは大量だったので、詰まるかもしれないという一抹の懸念があったが、杞憂に終わった。
 水音が収束したあとも、座り込んだまま動けない。擬声語を呟きながら、肩を上下させて呼吸をくり返す。

 恐怖の大王。
 空っぽの頭に、脈絡なくそんな言葉が浮かんだ。
 二・三前に突如として巷で話題になり、一時は下火になったものの、いよいよその時が目前に迫り、一部の人々の間でブームが再燃しつつある、ノストラダムスの大予言。一九九九年の七月に、空から恐怖の大王が降ってくる、というあれだ。

「降ってくる」の部分は「降りてくる」だったかもしれないし、「やって来る」だったかもしれないし、全く別の言葉だったかもしれない。ノストラダムスの予言に対する僕の興味は、所詮はその程度。当時も現在も、当時の世間の熱量とはかなり開きがある。
 ノストラダムスがどれほど偉大な人物なのかは知らないが、僕は予言など信じない。広義の予言も、狭義の予言も。百歩譲って信じてみるのだとしても、カレンダーはまだ六月。今日は二十八日だから、予言が成就するのは早くとも三日後ではないとおかしい。
 しかし、精神的に追い詰められていた僕は、こんな馬鹿げた疑いを抱いた。
 少女の頭部は、空から降ってきた恐怖の大王なのではないか?

 鼻頭から雫が落下し、白々とした便器の縁を叩いて弾けた。
 直後、ドアがノックされた。
 鋭利な長い針で心臓を貫かれたような感覚。首が半自動的に反時計回りに回転し、見開かれた一対の眼球でドアを凝視する。
 心臓が早鐘を打っている。困惑と混乱と恐怖とに、双眸が追い立てられた蠅のように四方八方を飛び回る。ドアには鍵がかかっている事実を思い出し、視線の落ち着きは回復したものの、精神の安定からは程遠い。

「お兄ちゃん、トイレまだ?」

 まだ三分の一ほど眠りの世界にいる声。妹の莉奈だ。
 どう答えるのが正しいのだろう? 完全無欠の解答を瞬時に導き出せるはずもなく、混乱に歯止めがかからない。
 急かすというよりも、こちらの反応を窺うように、ドアノブが揺り動かされる。
 もちろん、開かない。開くはずがない。しかしその事実は、僕の心に安寧をもたらしてはくれない。

「いつまで入ってんの? てゆーか、中で死んでたりしないよね」

 冗談めいた一言だったが、その底にはシリアスな響きが淡く滲んでいる。僕は干からびた唇を舐めた。
 これ以上ここに留まっていれば、大げさではなく、騒ぎに発展しかねない。その事態を未然に防ぐには、こちらから行動を起こす必要がある。
 体操着入れの中身を見られることなく、僕が死んでもいず、深刻な体調不良に陥っているわけでもないことを知らせる方法――。

 首から下の体の向きを顔に合わせる。一呼吸置いて躊躇いを殺し、ドアをノックする。
 障壁の向こうの世界は無音に包まれている。

 求めたくせに、何で黙るんだ。
 泣きたい気持ちになったが、感情を押し殺して立ち上がる。顔の汗を掌でざっと拭い、深呼吸を一つ。
 頭部は袋の中に完全に収まっているから、外からは見えない。血の生臭ささも、死肉の悪臭も、現時点では発生していない。そもそも、切断された人間の頭部がこんな身近にあるなんて、誰も考えない。
 大丈夫だ。絶対にこの窮地を切り抜けられる。

 体操着入れとスクールバッグを左右の手に持ち、ドアの鍵を開ける。小さく息を吐き、バッグを持った方の手でドアを開く。
 視界に飛び込んできたのは、セーラー服姿の莉奈。
 妹は僕の顔を一目見た瞬間、あからさまに眉根を寄せた。

「大丈夫? 凄く顔色悪いよ?」

 咄嗟には返す言葉を見つけられない。だからと言って、考えなしに言葉を返したのでは、遅かれ早かれ襤褸が出る。僕は人見知りの幼児のように沈黙の檻に幽閉された。
 それを見た妹が取った行動に、僕は大いに焦り、大いに慌てることとなる。

「ちょっと、お母さん! お兄ちゃん、物凄く体調悪そう! 早く来て!」

 面倒なことになった、と本音が舌打ちをした。口やかましい楠部家の女二人を同時に相手にするのは、今の僕には荷が重すぎる。
 退散するしかない。逃げるという対応を取ったことを怪しまれたとしても、会話が長引き、袋の中身に感づかれる事態に発展するよりも、数兆倍ましだ。

 莉奈の脇を抜けて階段へと突き進む。擦れ違った瞬間にこぼれた「あっ」という声を、神経過敏になっている僕は無視できない。あろうことか、呼び止められたわけでもないのに歩みを止める、という愚行を犯してしまった。

「どうしたの、龍平。どこか具合が悪いの?」

 母親が駆けつけ、莉奈の隣に位置を取る。階段の上り口こそ塞がっていないものの、四つの瞳から射出される視線に刺し貫かれ、身動きが取れない。
 通行許可証を獲得するためには、トイレに長々と籠もり、陰鬱な顔を引っ提げて出てきた理由を述べなければならないのは明らかだ。
 口腔に溜まっている唾を、喉を鳴らさないように用心しながら嚥下する。母親と妹に向き直り、二人の顔を交互に見ながら、

「何か、体調悪い。さっき吐いた。やばいかも」

 事件後に初めて人前で発した言葉は、微かだが明確な震えを帯びていた。それを糊塗したい無意識の下心が唇と舌に波及し、僅かながらも早口になる。

「だから、今日は学校は休む。寝るから邪魔しないでよ」
「学校で何かあったの? お兄ちゃん、今日は登校するのがやけに早かったよね」

 莉奈が考えているだろう「何か」と現実との隔たりとの大きさに、胸が締めつけられた。恋のときめきとはあまりにもかけ離れた、食い込む紐の材質や太さまでもが明瞭に感じられるような緊縛だ。現実の詳細について説明することは絶対にできないだけに、なおさら切ない。

「たまたま早起きしたから、早めに登校しただけだよ。歩いている最中に急に気分が悪くなったから、引き返してきた。それだけだから」

 二人の表情は良化も悪化もしない。僕の言い分を、完全にでこそないが信じてくれたのだ。
 本当に鈍いな、うちの家族は。

「寝たら治ると思うから、寝るよ。起こさないでね」

 二人から視線を切り、階段を上る。二人分の視線が追跡してくるのをひしひしと背中に感じる。一応信じてくれたようではあるが、ゼロと一、どちらに近いのか。一足ごとに悪化していく両脚の震えを抑え込むために、一段一段、意識的に強く踏み締めながら上る。

 自室に入ると、直ちにドアを閉め、施錠する。体操着入れをクローゼットの奥深くに押し込み、制服を着たままベッドに潜り込む。体を丸め、旋毛から足の爪先まで掛け布団の中に収まる。温もりに包まれた体が、寒風に吹きつけられているかのように震えている。
 症状はいつまで経っても治まってくれない。
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