深淵の孤独

阿波野治

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「それ」との遭遇②

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 にわかには信じがたい光景だった。無意識に胸の内で、「有り得ない」だとか「嘘だ」だとかいった言葉を早口に繰り返していた。
 未曽有の混乱と恐怖に襲われながらも、頭部から目を離さない。「こんな場所に人間の頭部があるはずがない」という祈りにも似た思いが、「僕の目の前にある、僕の脳髄が人間の頭部と認識した何かは、人間の頭部ではなく、人間の頭部とは似て非なる何かだ」という反発心を生み、立証するべく頭部を凝視した。要するに、真相を確かめたい気持ちが恐怖を上回ったわけだ。

 頭部のサイズは、成人のそれよりも小さい。目鼻立ちは幼く、あどけなく、小学校低学年の女児と見受けられる。瞼と唇は厳粛に閉ざされ、表情は苦悶しているわけでも安らかなわけでもない。頭髪は純然たる黒で、後ろ髪は純白のリボンのようなものによって一つに束ねられている。肌は病的に青白く、血の気が感じられない。
 似て非なる何かなどではない。本物の人間の頭部だ。

 悟った瞬間、猛烈な嘔吐感が込み上げた。
 ひと思いに胃の中身をぶちまけていれば、多少なりとも楽になれていたのかもしれない。しかし、吐けなかった。今にも吐きそうな気がするのに、現実が伴わない。
 熱いような寒いような、どちらかのはずなのに、どちらでもあるしどちらでもないような、初めて体験する不可解で不愉快な感覚に総身が包まれている。体の震えは次第に激しさを増していく。額や首元から粘っこい汗が旺盛に分泌され、緩慢に垂れ落ちる。逆に、目頭に溜まった雫は悪戯に体積を増やすばかりで、最後の審判の日が訪れてもこぼれ落ちそうにない。

 震えは一向に収まる気配がないが、吐き気は尻すぼみに沈静していく。程なく、無視しようと思えば無視できる程度に落ち着いた。
 しかし、周囲の状況に気を配るだけの余裕を得たのが仇となり、新たなる災いに見舞われることとなる。早朝の正門前の人気のなさと静寂を認識したことで、恐怖の感情が爆発的に膨張したのだ。

 一刻も早く、心が安らげる場所に逃れたい。

 切実な欲求が芽生えた、直後、どこからか物音が聞こえた。
 背筋を悪寒が駆け上った。素早く前後左右に目を走らせたが、人の姿は確認できない。
 ただ、正門に通じる一本道の両脇には、人間が姿を隠せそうな高さと奥行きの叢が、道に沿って展開している。
 特別臆病な人間ではなくても、キャパシティを超えた衝撃と恐怖を味わえば、誰だって多少なりとも精神に変調を来たす。神経が過敏になり、普段ならば気にも留めないような些細な違和感を、過大に認識してしまう状態に僕は陥っていた。明らかに正気ではなかった。

 極限状態の中、こう考えた。
 今この場所に誰かが来たとしたら、その人は、少女の頭部を正門の上に置いた犯人は僕だと疑うだろう。気が動転している僕は、「僕は頭部の発見者に過ぎず、犯人ではない」と主張することさえもままならないかもしれない。そうなれば、通報され、警察官の手によって警察署に連行され、少女殺しの容疑者として取り扱われてしまう。
 殺人の罪も、死体損壊の罪も、死体遺棄の罪も犯していないのに。起床するのが早かったから早めに登校しただけなのに。パニックに陥っているから上手く説明できないだけなのに。それなのに、容疑者だなんて、
 冗談じゃない。

 体操着入れから体操着を引きずり出し、入れ替わりに頭部を突っ込み、紐を固く締めて口を閉ざす。体操着をスクールバッグの中に突っ込んで肩にかけ、頭部入りの体操着入れを右手に提げ、脇目も振らずに駆け出した。校舎を目指して、ではなく、歩いてきた道を行きとは逆方向に。

 人間の頭部が入った体操着入れは、体操着が入った体操着入れよりも遥かに重たい。僕の動きに合せて揺れる内容物が、体操着入れ越しとはいえ体に触れないように、右腕を大きく横に突き出して走る。
 走りにくかった。滑稽な走り方だと己を客観視した。それでも走り続けた。
 安心して一人でいられる場所に、一刻も早く辿り着きたい。頭部が入った袋を手に、しゃにむに疾駆する僕の胸を占めるのは、その一念だ。

 走っている間は、何者かに見られているような感覚が常につきまとった。一方で、辛うじて生き残っていた正気で冷静な自分が、気のせいだ、パニックを起こしているからそう感じるだけだと、臆病な自分にひっきりなしに言い聞かせ、その感覚を懸命に否定しようと試みてもいた。

 人間とも、自動車とも、自転車とも擦れ違うことなく、自宅に帰り着いた。

 玄関ドアの内側に滑り込んだ途端、嘔吐感が喉の奥で再生された。前回とは異なり、結果を伴う類の感覚だ。体操着入れの紐を強く握り締め、足音を鳴らしてトイレに駆け込む。
 ドアを閉めた途端、物理的に込み上げてくる感覚があった。体操着入れの紐が手から離れ、床に落下して音を立てる。ドアの鍵を閉め、便器の蓋と便座を一緒くたに上げ、白亜の器に覆い被さるように跪いて嘔吐した。
 不快感も熱さもなく、どろどろとしたものが食道を逆行し、排出されていく感覚だけがあった。ああ、吐いているんだな、と思う。吐けなかったのに、吐けたんだね。よかったね、よかったね、よかったね……。

 涙は出ない。目の縁に溜まっていた雫は、走っている間に蒸発していた。風前の灯火のような微かな熱だけが、地縛霊のように目頭に居座っていた。
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