少女と虎といつか終わる嘘

阿波野治

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銃撃

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 虎が動いた。咲子がいるほうに向かって、右の前足を一歩踏み出した。
 次の瞬間、耳をつんざくような破裂音。
 真一は、虎の右肩から花火のように鮮血が噴出したのを見た。

 巨体がぐらつく。踏み出したばかりの右脚が折れかけたが、次の瞬間には真っ直ぐに立て直していた。黄金色の地に細く走る黒に沿って、傷口からあふれた鮮やかな赤が流れ落ちる。銃創が穿たれたのは左の肩口だ。地面に次から次へと点を描き、ほどなく大きくて歪な一個の楕円へと変わる。
 銃口からうっすらと白い煙が昇っている。引き金にかかった人差し指、銃身を握る左手の五指、どちらにも力がこもっている。咲子は険しい顔つきで虎を真っ直ぐに睨んでいる。銃声にも、虎が一歩距離を詰めたことにも、肩口から流出している鮮血にも、まったく動じていない。

 今度は左足を踏み出した。咲子は全身の緊張をさらに高め、引き金にかけた人差し指の圧力を強めた。右足を踏み出した瞬間を狙い澄ましたように、再び銃声。今度は右の肩口に命中し、唸り声が低く響いた。体がゆっくりと横に傾き、どうと音を立てて地面に横倒しになる。犬のように舌を出しての荒い呼吸。止まらない流血。

 銃口は依然として虎に定められたままだ。
 虎は喘ぎながらも、起き上がろうとしている。
 虎はあくまでも咲子を殺すつもりであり、咲子はあくまでも虎を殺すつもりなのだ。虎からすれば、今からでも咲子の案を呑む旨を表明すれば、命だけは助かるのに。咲子からすれば、銃の威力を見せつけたのだから、虎を殺さずとも永遠に小毬に立ち入れなくさせることもできるのに。

 憎しみという感情が持つ力に、真一は慄然とすると同時に、悲しかった。哀れだとも思った。虎と咲子、両者ともが対象だが、虎に対してより強い憐れみと悲しみを覚えた。
 人間だったころの中後保は、孤独を好む文学青年だったという。人付き合いが悪かったのだろう。己の実力を過大評価し、自惚れていたのかもしれない。しかし、それを差し引いても、ごく普通の青年だったはずだ。人付き合いが悪い人間なんて世の中に掃いて捨てるほどいるし、若者は誰だって少なからず自惚れている。

 自殺にまで追い込まれた見逃せない要因の一つは、不運だったからではないか、と真一は考える。
 こもりがちな性格は、普通からは外れた行動をとる人間に厳しい田舎の人間とは相性が悪かった。小説で結果が出なかったのは、実力不足もあったにせよ、何パーセントは運が悪かったからでもある。彼の両親の飲食店経営が上手くいかなかったのと同じように。
 ようするに、中後保が自殺し、住人を恨んで虎に生まれ変わったのは、百パーセント中後保が悪いからではない。
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