少女と虎といつか終わる嘘

阿波野治

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勇気

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 どれもこれも看過しがたい情報ではあるが、物事には優先順位というものがある。
 胸の苦しみが小康状態に入り、その分だけ意識が現実に引き戻されたことで、彼はなにを優先させるべきかを悟った。虎の鎮虎祭襲撃計画について話すか否か、虎を退治する「力」が偽物だと告白するか否か、というのがそれだ。

 咲子の打ち明け話により、真一は彼女の人生の奥行きを知った。こんなにも深い奥行きを持つ人間を簡単に失ってはならない、と思った。西島咲子という一個人には、もっともっとこの世界で生を維持してほしい。そのためには、虎のおぞましい計画のことを彼女に密告するべきだ。
 ただ、それを話してしまえば、必然に真一が持つ「力」が真っ赤な噓であることも告白しなければならなくなる。
 それに対する、咲子を含む住人たちの反応と対応は、厳しいものになるだろう。真一の見立てでは、リンチされる公算が高い。咲子は真一への恋心を正式に打ち明け、二度も体を交えたが、その事情が減刑に結びつくとは思えない。話を聞いたかぎり、咲子が人間・沖野真一に惹かれたのは、一人の人間として、あるいは男性として魅力を感じたからではなく、広義のさびしさを解消してくれる貴重な若い男性が真一だった、というだけの話なのだから。

 真一はとてもではないが、自分から現状維持を動かす勇気を持てない。

 咲子は真一の右手に左手を押さえられたままだが、振りほどこうとはしない。片方の掌の重さや、体温を感じられているだけで満足しているかのように、身じろぎ一つしない。一回目を終えた二人が足を踏み入れたのを機につけられた冷房は、室内をある程度冷やしたはずだし、二回目のセックスからだいぶ時間が経っている。それにもかかわらず、彼の体は依然として熱いままだ。
 意味と、重みと、ボリュームを兼ね備えた話を聞いたにもかかわらず、考えかたを変えられなかったのは、情けない。しかし、清水の舞台から飛び降りる気持ちで正反対の道を進んだとしても、情けなさを消せる代わりに、情けないという感情以上の損益を被るかもしれない。そう思うと、彼はまばたきすらもろくにできずに、ただ横になっていることしかできなかった。

 窓外が暗くなりはじめたころ、真一は夕食の誘いを断って帰途に就いた。
 この夏初めて、彼はヒグラシが鳴くのを聞いた。
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