少女と虎といつか終わる嘘

阿波野治

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咲子の過去②

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 まず、私の母親が交通事故で亡くなった。隣町まで買い物に出かけたさいに、信号無視のトラックに撥ねられたの。即死だった。
 誰もがみな、交通事故なんて新聞やテレビの中の出来事で、自分とは無縁だと思い込んでいるものでしょう。私も例外ではなかったから、物凄くショックだった。母親に先立たれたことよりも、偶然の不幸に選ばれたのが自分の母親だったことがショックだった気がする。

 それから、父親。もともと私の父親は、選挙に負けてから精神的にちょっと弱っていたんだけど、妻に先立たれたのを機にそれが加速して。あんなに地域のために精力的に活動していた人が、だんだん口数が少なくなって、なにをするにも自信なさそうに振る舞うようになって、家にこもりがちになって。
 娘の私も、「お母さんがいなくなっちゃったんだから、その分お父さんががんばらなきゃいけないでしょ」とかなんとか、せいいっぱい力づけたんだけど、精神論ではどうにもならなくて。そうするうちにベッドから出られなくなって、医者からは「長くない」って告げられて。
 ある晩、父親は私を枕元に呼んだ。そして、「父さんの代わりに地区長になる夢を叶えてくれ」と私に託して、その三日後に帰らぬ人なったの。

 選挙活動に励む父親の姿を見て、わたしの小毬愛は徐々に深まっていた。そこに、今際の会話で父親から夢を託されたことで、爆発的に高まった。当時私は二十歳。生まれ故郷を出て都会で暮らすことも検討していたんだけど、この地で生涯を終えよう、死ぬまでに絶対に地区長の座に就こうって、強く固く心に誓ったの。

 それからの道のりは長かった。二十歳になったばかりのひよっこが、両親も亡くして親族もいないただの小娘が、どうすれば小毬で一番偉い人間になれるのか。試行錯誤と、苦難と、失敗と、挫折と、ささやかな成功と前進と、そのくり返しだった。一例を挙げると、ていねいにあいさつするように心がけるとか、コミュニケーション能力を磨く方法を書籍で勉強するとか。簡単な頼みごとを無償で引き受けるとか。ほんとうにいろんなことをやった。

 当時の地区長である今宮卓郎と肉体関係を結んだのも、全ては地区長になるという夢のため。
 小毬にとって貴重な若い女である自分が、大人の男性からどう見られ、どう評価されているのかは、地区の住人と密に付き合ううちに分かってきた。若い女というだけで価値があるんだ、男たちに絶大な威力を発揮する武器なんだって、二十歳の私は知った。
 でも、なんの役職にも就いていない男に使っても無駄撃ちだから、得られるものが最も大きい獲物に狙いを定めた。それが今宮卓郎だったというわけ。

 卓郎は、生真面目で有能で信頼がおける地区長で通っていたけど、実は女遊びが激しくてね。その評判は風の噂で聞いていたから、こちらとしても近づきやすかった。案の定、卓郎は私の誘いに乗ってきて、私は晴れて今宮卓郎の愛人になった。それが今からだいたい十五年前のこと。
 地区長の座に野心を燃やしていることはおくびにも出さなかった。卓郎は私を子ども扱いしていたから、子どもの無邪気な夢だと受けとって笑い飛ばす気もしたけど、せっかくのチャンスをふいしたくなかったからね。
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