少女と虎といつか終わる嘘

阿波野治

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対話を終えての決意

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 帰り道も行きと同じく、屋外で立ち働いている住人たちからことごとく注目を浴びたが、どうでもよかった。
 顔色は行きよりもいくらか悪化しているのだろう。歩行様態からは生気が大幅に抜け落ちているに違いない。小一時間散歩していただけにしては疲れすぎているようで、怪訝に思った者もいたかもしれない。
 それらもひっくるめて、どうでもよかった。
 誰にどう思われようが、どの方向にどういった想像をされようが、どうだっていい。九死に一生を得て、無事に帰還を果たした。その奇跡と比べれば、赤の他人に勝手な想像を弄ばれることなんて、塵や芥も同然だ。

 命が助かったのは喜ばしい。生きていることは素晴らしい。文句なしにそう思う。

「……ただ」

 虎は「明日も同じ時間帯に来い」と命じた。それを承諾したのと引き換えに、真一は放免された。生きることを許された。
 あの猛獣には二度と会いたくない。
 しかし、死にたくないのであれば、命令に従う以外に道はない。
 住人が皆殺しにされても別に構わないが――自分の命。自分の命だけは、なにを犠牲にしても死守しなければ。

 虎は鼻がきく? 逃げようと思えばすぐに分かる? 真実なのか、それともはったりなのか。
 前者だった場合を考えると、リスクを冒すのは怖い。失敗すなわち死である以上は、安全策をとりたい。

 死にたくない。
 生きたい。
 せっかく存続した命なのだ。もう少し――いや、まだまだ長続きさせたい。

「行くしかないのかよ……」

 特大のため息があふれ出した。怒りたいがその気力もないというような、陰気なため息。

「……それにしても、虎のやつ」

 再び俺を呼び出して、いったいなにをするつもりなんだ?
 虎は真一のことを「面白いことを言う」と評価したが、なんらかの素晴らしい才能を見出し、感服したからこそ再会を願ったわけではなさそうだ。見所がないわけではないから、まあ生かしておいてやるか。そんなニュアンスだった。次回の対話のさいの真一の振る舞いによっては、虎は今度こそ彼に牙を突き立てるに違いない。

 厳しいものになると予想されるのは、突きつけられる要求もそうだ。厳しいのも、なにを要求されるかが分からないのも、どちらも嫌だ。殺されていたほうがましだった、とはさすがに思わないが、気分は重苦しくなる。
 虎は人間の言葉をしゃべっていたが、心は獣に近いように感じた。真一の文字どおりの命がけの命乞いにも、心を揺さぶられている様子ではなかった、というのがその根拠だ。神が気まぐれを起こしたようなもので、人間らしい慈悲の心が働いた結果の救済では明らかになかった。

 そんな猛獣と、再び相まみえなければならないのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。
 しかし、許された選択肢はもはやそれ一つのみだ。

「やるしかねぇな、おい」
 庭先で立ち話をしている中年女性二人組の前を通り過ぎるところだったのだが、それを承知で、強いて声に出してつぶやいた。

 幸い、虎は人語が通じる。人間らしい心の持ち主ではないが、言葉が理解できるのであれば勝負にはなる。真一が勝つチャンスもゼロではない。
 ならば、戦おう。死に物狂いで戦って、勝利をこの手に掴もう。
 言葉という武器で、虎を人間の支配下に置くのだ。
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