少女と虎といつか終わる嘘

阿波野治

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南那からの提案

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 ただ、来て早々に逃げるのは少し惜しい気もしている。

 今晩食べた牛肉のしぐれ煮、あれは美味しかった。真一のような庶民には、食材と調理法にこだわった高級料理よりも、白米に合う味の家庭料理のほうがよっぽどご馳走だ。副菜が複数用意されていたのもよかった。一つ一つは取るに足らないが、いくつもの味わいを少しずつ賞味できる楽しさは珍味に舌鼓を打つ喜びを頭一つ上回っている。
 美味しい食事を毎食味わいながら、空気が澄んでいて、緑が鮮やかな環境下で、労働や気苦労とは無縁の生活を送る。真一が理想とする生き方といっても過言ではない。

 せっかくだからなるべく長く味わいたい。汗を垂れ流しながら夏の山道をひたすら歩くのも、借りがある人間から逃げ回るのも、もうたくさんだ。
 ただ、「虎退治のためのエネルギーは三日で溜まる」とすでに宣言してしまった。長く待たせれば不信感を抱かせるかもしれないと危惧して、期間を短めに設定したのが今となっては悔やまれる。
 しかし、もはや後の祭りだ。

 期限が切れたさいはどう振る舞おう? もっともらしい新しい理由を創造して、タイムリミットを引き延ばすか。潔く小毬から出て行くか。選択肢はそのどちらかだが――。

 真一は暗闇の中で苦々しく微笑する。

 考えても仕方がないことを、なにをぐちぐちと考えているんだ。少なくとも明日と明後日の二日間は安泰なのだから、それまではこのささやかな幸福を大いに味わおう。対応を考えるのは、決断を迫られてからでも遅くない。火事場の馬鹿力ということわざもある。土壇場になれば、今日の自分では思いもつかなかった妙案を思いつく。きっとそうだ。

 そう結論してまぶたを閉じた直後、衣擦れの音が聞こえた。
 全身が緊張を帯びた。一拍遅れて、床板の軋む音。
 南那だ。

 トイレだな、と肩の力を抜きながら思う。小用を足したら南那ちゃんも寝るだろうから、俺もそろそろ寝ないと。

 しかし足音は部屋を出ていくのではなく、真一の布団のかたわらまで来て止まった。瞼を開いて首を回すと、闇の中に少女の立ち姿が白く浮かび上がっている。
 まぎれもなく南那だが、様子が尋常ではない。一糸まとわぬ姿で、表情のない顔で彼を見下ろしているのだ。白いという印象を抱いたのは、肌の露出が多いせいらしい。

「……南那ちゃん?」
「真一さん、わたしと体を交えませんか」
「えっと……。それはつまり、セックスをするということ?」
「オブラートに包まない言いかたをするなら、そうですね」

 南那は無表情を崩さずに指摘を認めた。
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