春日遅々

阿波野治

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青年

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「千代子!」

 いきなり大声が聞こえた。ポメラニアンが走ってきた方角からだ。
 顔を向けると、エミルたちがいる方に向かって、男性が走ってくるのが見えた。全力疾走をしている。十メートルを切ったところで、躓いて転びそうになったが、踏み堪えた。以降は走るのではなく、早足で歩く。

「千代子! やめなさい!」

 距離が二メートルほどまで縮まったところで、ポメラニアンは振り返った。歩み寄ってくる姿を認めるなり、エミルから体を離し、男性のもとへ走る。エミルの時と同じように、男性の脚に前脚をかけ、エミルの時よりも激しく尻尾を振る。

 男性はリードの持ち手をしっかりと握り締め、安堵の笑みをこぼした。しかし即座に表情を引き締め、ポメラニアンを軽々と抱き上げ、ベンチへと小走りに走り寄る。

「すみません! うちの千代子が悪さを! お怪我などは――ああっ!」

 男性はエミルの足元に跪き、見開いた双眸で彼女の右脚の一点を凝視した。問題の部分に目を落とす。右の膝頭の両側がうっすらと白く汚れていた。

「うわあ、大変だ。……どうしよう。女の人の素肌に傷を」
「ワンちゃんの足についていた土がついただけですよ。痛みは感じなかったから、怪我はしていないと思います」

 エミルは微笑を禁じ得なかった。男性の慌てぶりが大げさだったのと、「肌」ではなく「素肌」という単語を使ったのが、なんともおかしかったのだ。
 男性はエミルと同い年くらいだろうか。外見にこれといった特徴はなく、よくも悪くもオーラがない。

「ああ、どうしよう。汚しちゃって、どうしよう……」

 男性はまだおろおろしている。

「大丈夫ですって。土がついただから、手で払えば――ほら」

 汚れをあっという間に払い除け、男性に微笑みかける。それからポメラニアンを指差す。

「その子、千代子ちゃんっていうんですか?」
「えっ? ああ、こいつですか」

 突然の質問に虚を突かれた様子だったが、同時に、エミルの態度に安心したようでもあった。

「はい、千代子っていいます。犬種はポメラニアン。性別はメス。二歳になったばかりです」

 千代子の頭を撫でる男性の手つきは優しい。千代子は尻尾の動きこそ忙しないままだが、大人しく愛撫に身を任せている。両者が厚い信頼関係で結ばれていることがよく分かる。
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