春日遅々

阿波野治

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「分からないけど、多分、十億円くらいじゃないかなあ」

 エミルは間延びした声で答えた。

「人の命って、そもそもお金に換算できるものじゃないと思うけど、あえて換算するとしたら、そのくらいだと思う」

 エミルは自室のベッドに横になり、スマートフォンを右耳に宛がっている。ネグリジェの肩紐が肩から外れ、襟ぐりが乱れているため、ブラジャーに包まれていない胸は今にもこぼれそうだ。

 入浴から起床までの間、エミルはブラジャーを着用しない。寝ている時にブラを着けないとおっぱいの形が崩れる。特に大きなおっぱいは形が崩れやすい。友達の中にはそう主張する者もいるが、エミルは馬耳東風と聞き流している。遠い将来のことを気にかけるよりも、目先の居心地のよさを追求したかった。なんといっても、エミルはまだ十九歳なのだから。

『十億円? 少なすぎ』

 カノンは呆れたような声を発した。

『ヤマダの年俸は三億五千万円だよ? 三年働いたら稼げる金額じゃん。その程度の懸賞金で暗殺してこいって言われてもね』

 カノンは野球が好きで、野球の話になるとヤマダ選手の名前をよく出す。エミルは野球には興味がないので、ヤマダ選手のことは詳しくは知らない。年俸が三・五億円という情報も、今日初めて知った。

 プロ野球選手が一流と呼ばれる条件は、年俸が一億円に達することだ。そう漠然と考えていたエミルにとって、その三・五倍もの金額を年給として受け取っている選手が存在するというのは、驚くべき事実だった。カノンが熱を上げるくらいだから、凄い選手に違いないとは思っていたが。

「ヤマダ選手みたいなお金持ちは、わざわざ独裁者の暗殺を試みたりはしないんじゃないかな。一攫千金を狙うのは、エミルたちみたいな一般庶民だけだよ」
『エミルは十億円貰えるんだったら、独裁者を暗殺する?』
「ううん、絶対しない」

 エミルはきっぱりと断言した。

「金額が少ないとかじゃなくて、人を殺してお金持ちになっても意味ないでしょ。だから絶対にしない。たとえ貧乏だとしても、平和に暮らすのが一番だよ」

 カノンは聞こえよがしにあくびをした。もうじき電話を切るに違いない。その前に確認しておきたいことがある。

「ちょっとカノンちゃん、エミルの部屋に泊まりに来るっていう約束、あれはどうなったの?」
『泊まる約束? すっかり忘れてた』
「えー、そんなあ。エミル、すっごく楽しみにしてるんだよ?」
『エミルにとってはそうでも、僕にとってはどうでもいいことだから』
「ひどーい! ねえ、今日とかは無理なの? カノンちゃん、どうせ暇でしょ」
『エミルよりは暇じゃないと思う。ていうか、今日はどっちみち無理』
「えー、なんで?」
『急に言われても、準備してないし』
「一泊の準備なんて、十分もあれば余裕だよ」
『ううん、心の準備。エミルと一緒にいると、なんか疲れるっていうか』
「ちょっと、今日のカノンちゃん、朝から酷くない?」

 やりとりはその後もしばらく続いたが、エミルが何気なく、まだ朝食を摂っていない事実を明かした途端、

『じゃあ、さっさと食べれば』

 素っ気ない一言と共に通話を切られてしまった。溜息をつき、上体を起こし、手で寝癖を撫でつけながらベッドから降りた。
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