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1 免許皆伝一万面
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一文字織部はお小夜が好きだった。
寝ても起きても、お小夜のことばかり想っていた。
お小夜の顔が脳裏から離れなかった。
お小夜は俺が通う道場の主人竹脇監物の娘だ。
道場は内藤新宿にあり、門弟は五十数人。
江戸では流行っている方だった。
俺はお小夜に会えるから道場へ通っているようなものだった。
実際には、お城のお納戸役の父に言われて入門したのだが。
竹脇道場は無外流を教えていた。
無外流は禅を基本として、毎回稽古の前後に座禅を組んだ。
織部はなんのこと分からず、ただ足が痺れるのが辛かった。
道場へ言ってもお小夜に会えないこともあった。
だから、道場奥の監物の住居にいるお小夜ばかりが気になっていた。
彼女も俺の気持ちがわかるらしく、会えば微笑んでくれた。
ある日、稽古終わりに井戸端で体を拭いているとお小夜が通りかかった。
織部は思い切って声をかけた。
「今度、上野へ桜見物に行かないか」
お小夜は笑みを浮かべて俺を見た。
「見物するだけ」
「もちろん、桜餅も食べる」
お小夜は俺に少し身を寄せて言った。
「織部さんはいま何!切紙、目録。まさか免許じゃないわよね」
俺はいい詰まった。
こんなことを言われるとは思ってなかった。
「い、いや、切紙もまだだ」
「じゃ、私を誘うのは十年早いわ。私は竹脇監物の娘よ。免許を取ったら上野でも隅田でも付き合ってあげる」
それだけ言うと中庭を抜け、奥へ戻って行った。
少し傷ついたが目標ができた。
そうだ、免許を取ればお小夜と付き合えるんだ!
俺は俄然元気が出て来た。
これまでの織部は、剣術どころかやりたいことは何もなかった。
父に言われたから道場へ通っていた。
そうしたらお小夜がいた。
お小夜と目が合えば、必ず婉然と微笑んでくれる。
お小夜も俺のことを思ってくれてるんだ。
だから、今だって付き合いを断りはしなかった。
返って励ましてくれた。
翌日から織部の態度が激変した。
竹脇道場は朝五つ(午前十時)頃から始まるのだが、織部は朝六つ(午前六時)に道場へ行った。
簡単に座禅を組み、すぐに防具をつけて稽古を始めた。
物凄い張り切りようである。
四半刻(三十分)も打ち込みをしたら、汗まみれになる。
親友の両角右門が出て来た。
俺の稽古にびつくりした。
「お前、何やってんだ!」
「ちょっと心境の変化でな。朝稽古だ」
「座禅はしたんか」
「ざっとな、あんなもんしても意味ない」
「無外流分かっとらんな。付き合え」
俺たちは並んで座禅をした。
「心境の変化ってなんだ」
右門の問いに俺は答えた。
「急いで免許を取ることにした」
驚いて右門は俺を見た」
「免許だと!!」
右門は確か目録のはずだ。
「急いでって、何年で取るつもりだ」
「一年以内!じゃないと、小夜が嫁に行っちまう」
「小夜のために、一年以内に免許を取るってのか」
「そうだ!出来れば半年以内」
右門は呆れて俺を見た。
「お前、一万面て言葉知ってるか」
「知らん、なんだそれ!」
「免許取るためには、毎日死ぬような稽古をして一万日!すなわち三十三年かかるってわけだ」
織部は目を剥いた。
「三十三年!!そんなにかかったら、
俺は五十過ぎのじじいになっちまう!」
「それが現実だ!俺はささんも年かかっても目録だ!才能の問題もあるだろうがこの言葉に外れはない」
織部は座禅をやめて背後の壁にもたれた。
「お小夜さんは十年早いと言ってたけど、三十三年早いのか!」
「お小夜と付き合うのはやめとけ!」
右門は言った。
「なぜだ!」
「いろいろ噂の多い女だ!男も多い」
「そんなはずない!」
「俺も何度か話しをしたことがあるが、嘘が多い女だ。女は嘘つきが多いが、お小夜は特別だ。息をするように嘘をつく」
ひどい言い方に俺は右門を見た。
「それから、狡猾で人の操作に長けいる。罪の意識や良心の呵責がない」
そこまで言わなくてもいいのにと思った。
こいつ、何かお小夜に恨みでもあるのか!
「自分の言動に責任を負おうとしない」
織部は唖然とした。
右門がお小夜さんをそんな風に思っているとは!
「お前も今にわかる。やめとけやめとけ!」
「免許のことは分かった。だが、お小夜さんは諦めん!今更忘れられん」
「ひどい目に会うし、後悔するぞ!」
「お前はしたのか!」
「俺は最初から近づかん!だが、そんなやつを何人か知っている!今でも苦しんでる奴がいる」
織部はため息をついた。
「何か剣で、免許に変わるものはないか」
今度は右門が驚いて俺を見た。
「それほど剣の腕を上げたいのか!」
「お小夜は監物先生の娘だ!剣の腕がなければ絶対尊敬してはくれん」
しばらく無言だった右門は言った。
「そうか、では真剣で強くなれ!」
「どういうことだ」
「人を斬ることに秀でろ!」
「そんなこと簡単にできるわけないだろ!」
「出来る!ヤクザの連中は剣道など習わずとも喧嘩出入りで、度胸一つで切った張ったをする」
織部は唖然として右門を見た。
「俺にヤクザになれというのか」
「免許を取ったって、度胸一つで刀やドスを使うヤクザに勝てるとは限らん!」
「つまり、真剣勝負は道場の稽古だけじゃないってことか!」
「そうだ!免許皆伝の侍が、通りすがりにヤクザのドスでいとも簡単にやられちまうなんて、いつもある」
「俺はヤクザにはなりたくない。侍がいい!」
「では、侍の人斬りの剣術をやり方を真似ろ!」
「どういうことだ。意味がわからん」
「実は人を斬るなんて、案外難しくないんだ」
「では、お前が進める人斬りの剣術とはなんだ」
「これしかない!薩摩示現流!」
織部は唖然とした。
そんなもん真似られるのか!
第一、示現流の名前は聞いたことがあるが、見たこともい。
江戸にも道場はないはずだ。
なにせ門外不出のお留め流で薩摩藩士以外には教えないと聞く。
「稽古したことはないが、あるお人から形は習った」
「誰だ」
「言えんから、あるお人と言っている」
右門は今度はすごい目で俺を睨んだ。
「お前な、小夜のために本当に人斬りになるのか!」
「なる!でなければ、小夜さんは振り向いてもくれん」
「他の女を選べ!あれはやめとけって!」
「示現流を教えろ!」
「示現流そのものではない!形しか知らん」
「それで十分だ!人さえ斬れればなんでもいい!お前が言ったんだ!責任を取れ!」
右門は頭を抱えた。
こりゃ、本物だ!うかつに言うんじゃなかった。
門弟たちが、ぞろぞろと道場へ入り始めて来た。
「ここで教えろ!」
織部は頑として動かなかった。
「ここでなどできるか!師範代に見られたら破門だ!」
「じゃ、口で言え」
右門は織部に口を滑らせたことを、つくづく後悔した。
寝ても起きても、お小夜のことばかり想っていた。
お小夜の顔が脳裏から離れなかった。
お小夜は俺が通う道場の主人竹脇監物の娘だ。
道場は内藤新宿にあり、門弟は五十数人。
江戸では流行っている方だった。
俺はお小夜に会えるから道場へ通っているようなものだった。
実際には、お城のお納戸役の父に言われて入門したのだが。
竹脇道場は無外流を教えていた。
無外流は禅を基本として、毎回稽古の前後に座禅を組んだ。
織部はなんのこと分からず、ただ足が痺れるのが辛かった。
道場へ言ってもお小夜に会えないこともあった。
だから、道場奥の監物の住居にいるお小夜ばかりが気になっていた。
彼女も俺の気持ちがわかるらしく、会えば微笑んでくれた。
ある日、稽古終わりに井戸端で体を拭いているとお小夜が通りかかった。
織部は思い切って声をかけた。
「今度、上野へ桜見物に行かないか」
お小夜は笑みを浮かべて俺を見た。
「見物するだけ」
「もちろん、桜餅も食べる」
お小夜は俺に少し身を寄せて言った。
「織部さんはいま何!切紙、目録。まさか免許じゃないわよね」
俺はいい詰まった。
こんなことを言われるとは思ってなかった。
「い、いや、切紙もまだだ」
「じゃ、私を誘うのは十年早いわ。私は竹脇監物の娘よ。免許を取ったら上野でも隅田でも付き合ってあげる」
それだけ言うと中庭を抜け、奥へ戻って行った。
少し傷ついたが目標ができた。
そうだ、免許を取ればお小夜と付き合えるんだ!
俺は俄然元気が出て来た。
これまでの織部は、剣術どころかやりたいことは何もなかった。
父に言われたから道場へ通っていた。
そうしたらお小夜がいた。
お小夜と目が合えば、必ず婉然と微笑んでくれる。
お小夜も俺のことを思ってくれてるんだ。
だから、今だって付き合いを断りはしなかった。
返って励ましてくれた。
翌日から織部の態度が激変した。
竹脇道場は朝五つ(午前十時)頃から始まるのだが、織部は朝六つ(午前六時)に道場へ行った。
簡単に座禅を組み、すぐに防具をつけて稽古を始めた。
物凄い張り切りようである。
四半刻(三十分)も打ち込みをしたら、汗まみれになる。
親友の両角右門が出て来た。
俺の稽古にびつくりした。
「お前、何やってんだ!」
「ちょっと心境の変化でな。朝稽古だ」
「座禅はしたんか」
「ざっとな、あんなもんしても意味ない」
「無外流分かっとらんな。付き合え」
俺たちは並んで座禅をした。
「心境の変化ってなんだ」
右門の問いに俺は答えた。
「急いで免許を取ることにした」
驚いて右門は俺を見た」
「免許だと!!」
右門は確か目録のはずだ。
「急いでって、何年で取るつもりだ」
「一年以内!じゃないと、小夜が嫁に行っちまう」
「小夜のために、一年以内に免許を取るってのか」
「そうだ!出来れば半年以内」
右門は呆れて俺を見た。
「お前、一万面て言葉知ってるか」
「知らん、なんだそれ!」
「免許取るためには、毎日死ぬような稽古をして一万日!すなわち三十三年かかるってわけだ」
織部は目を剥いた。
「三十三年!!そんなにかかったら、
俺は五十過ぎのじじいになっちまう!」
「それが現実だ!俺はささんも年かかっても目録だ!才能の問題もあるだろうがこの言葉に外れはない」
織部は座禅をやめて背後の壁にもたれた。
「お小夜さんは十年早いと言ってたけど、三十三年早いのか!」
「お小夜と付き合うのはやめとけ!」
右門は言った。
「なぜだ!」
「いろいろ噂の多い女だ!男も多い」
「そんなはずない!」
「俺も何度か話しをしたことがあるが、嘘が多い女だ。女は嘘つきが多いが、お小夜は特別だ。息をするように嘘をつく」
ひどい言い方に俺は右門を見た。
「それから、狡猾で人の操作に長けいる。罪の意識や良心の呵責がない」
そこまで言わなくてもいいのにと思った。
こいつ、何かお小夜に恨みでもあるのか!
「自分の言動に責任を負おうとしない」
織部は唖然とした。
右門がお小夜さんをそんな風に思っているとは!
「お前も今にわかる。やめとけやめとけ!」
「免許のことは分かった。だが、お小夜さんは諦めん!今更忘れられん」
「ひどい目に会うし、後悔するぞ!」
「お前はしたのか!」
「俺は最初から近づかん!だが、そんなやつを何人か知っている!今でも苦しんでる奴がいる」
織部はため息をついた。
「何か剣で、免許に変わるものはないか」
今度は右門が驚いて俺を見た。
「それほど剣の腕を上げたいのか!」
「お小夜は監物先生の娘だ!剣の腕がなければ絶対尊敬してはくれん」
しばらく無言だった右門は言った。
「そうか、では真剣で強くなれ!」
「どういうことだ」
「人を斬ることに秀でろ!」
「そんなこと簡単にできるわけないだろ!」
「出来る!ヤクザの連中は剣道など習わずとも喧嘩出入りで、度胸一つで切った張ったをする」
織部は唖然として右門を見た。
「俺にヤクザになれというのか」
「免許を取ったって、度胸一つで刀やドスを使うヤクザに勝てるとは限らん!」
「つまり、真剣勝負は道場の稽古だけじゃないってことか!」
「そうだ!免許皆伝の侍が、通りすがりにヤクザのドスでいとも簡単にやられちまうなんて、いつもある」
「俺はヤクザにはなりたくない。侍がいい!」
「では、侍の人斬りの剣術をやり方を真似ろ!」
「どういうことだ。意味がわからん」
「実は人を斬るなんて、案外難しくないんだ」
「では、お前が進める人斬りの剣術とはなんだ」
「これしかない!薩摩示現流!」
織部は唖然とした。
そんなもん真似られるのか!
第一、示現流の名前は聞いたことがあるが、見たこともい。
江戸にも道場はないはずだ。
なにせ門外不出のお留め流で薩摩藩士以外には教えないと聞く。
「稽古したことはないが、あるお人から形は習った」
「誰だ」
「言えんから、あるお人と言っている」
右門は今度はすごい目で俺を睨んだ。
「お前な、小夜のために本当に人斬りになるのか!」
「なる!でなければ、小夜さんは振り向いてもくれん」
「他の女を選べ!あれはやめとけって!」
「示現流を教えろ!」
「示現流そのものではない!形しか知らん」
「それで十分だ!人さえ斬れればなんでもいい!お前が言ったんだ!責任を取れ!」
右門は頭を抱えた。
こりゃ、本物だ!うかつに言うんじゃなかった。
門弟たちが、ぞろぞろと道場へ入り始めて来た。
「ここで教えろ!」
織部は頑として動かなかった。
「ここでなどできるか!師範代に見られたら破門だ!」
「じゃ、口で言え」
右門は織部に口を滑らせたことを、つくづく後悔した。
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