非常階段マラソンマン

工藤かずや

文字の大きさ
上 下
1 / 1

非常階段マラソンマン

しおりを挟む
ヤバイ!
体重が3キロも増えてる。
この一週間、仕事がやけに忙しかった。
日課の非常階段マラソンができなかった。

「また始めなきゃ!」
非常階段マラソンとは、私が考えた昼休みトレーニングである。
昼休みになると、私はスニーカーとトレーニングウエアに着替える。

「お、マラソン、やめたんじゃないのか」
係長の吉田が、うしろを通りながら言った。
くそッ!続きっこない!と思ってたんだ。

よし、これからは、仕事よりマラソンを優先させてやる!
私は決心してロッカールームをした。
廊下の非常ドアを押す。

真夏の日差しがきつかった。
踊り場で軽い準備体操をすませ、非常階段を上り出す。
俺の課のフロアは四階にある。

いったん屋上の十二階まで駆け上がり、一階まで降りる。
そして、また四階へ戻る。
その間の所要時間12分21秒。

これが私の最速レコードだ。
半年前に始める時は18分もかかっていた。
さあ、今日こそ新記録を出すぞ!

今週中に十二分を切ってやる。
これが今の私のひそかな生き甲斐だ。
会社の連中に、この楽しみは分かるまい。

終わって上半身裸になり、汗を拭き、顔を洗って十二階の食堂で昼食を執る。
それでも、一時までに十分以上を残している
一週間ぶりの階段マラソンはきつかった。

体がなまっていた。
やっと八階の踊り場までたどりつき、これからだ!と言う時に、ギクリ!とした。
踊り場に同じ課の橋本由香がいた。

彼女は私の意中の人だ。
だが、手の届かない高嶺の花と、とっくにあきらめている。
由香は壁によりかかり、りんごをかじっていた。

「なにしてんだ?こんなとこで」
息を切らしながら言った。
これまで彼女に、声をかけたことはない。

「階段マラソン、止めたんじゃなかったの?」
また、言われた。
これは課員全員、知ってるってことか。

「昼飯、どしたん?」
由香はかじりかけのりんごを見せた。
「ダイエット?そんもん食ってると、死んじまうぞ」

由香はかすかに笑った。
これまで見せたことのない
妙な笑いだった。

入社以来、彼女は俺の憧れの人だ。
気になった。
私は由香を見詰めた。

「早く行ったら!」
追い立てるように由香が言った。
いきなり由香の腕をつかみ、リンゴを取り上げた。

彼女は抵抗しなかった。
驚いたように大きな目で、間近から私を見た。
リンゴを手すりから地上へ投げた。

宙を舞ったりんごがアスファルトで、
かすかなクラッシュ音をたてた。
「お前も来いよ!」

私は言った。
こんなことを由香に言ったのは始めてだ。
「非常階段マラソン、付き合えっての」

今度は笑わなかった。 
「もっとも健康的なダイエット法だ」
「パスする。この格好じゃムリ」

由香は会社の制服を着ていた。
「そんなもん、どうでもいい」
私は乱暴に彼女の手を取り、強引に階段を駆け上がった

初めて由香の手を握った。
形のいいひんやりした手だった。
由香が普通でない精神状態にある。

私は直感した。
若い女性の重さが手に余った。
「重い!」

と、それが急に消えた。
由香が付いて来たのだ。
走っていた。

なんと、私を追い越して前へ出た。
スカートから伸びた形のいい脚が、目の前にあった。
速いのだ!

くそッ!12分21秒の記録を持つ俺が!
と思ったが、とてもついていけない。
由香がこんなに速いとは驚きだった。

彼女がまともに走ったら、私の記録など簡単に破っちまう。
まずい!
これはまずいぞ!

屋上へ着くと、由香は手すりの前で遠くを見ていた。
私はすぐにまわれ右をして階段を降りようとした。
記録、記録、記録がかかっている!

それでなくても途中由香をひろい、時間をロスしている
滑稽だが、その時私は本気でそう思ったのだ。
息切れと汗だらけの私に由香が言った。

「大丈夫、もうやらないから!」
足が停まった。
息も止まった。

やはり、そうだったのか!
腹に両手を当てて由香は言った。
「この子を始末するために、死のうと思った」

私は凍りついた!
「絶対、生んではいけない子だから」
身重の由香に、私は階段マラソンを強いたのか!

由香は背を向けたままだった。 
声を殺して嗚咽していた。
「りんごの潰れる音を聞いて、気がついた」

押さえ切れない泣き声が漏れた。
「赤ちゃんに謝った。バカなママを許してって」
由香は深々と俺に頭を下げた。

「子供は事情なんて関係ない。親の身勝手が恥ずかしかった」
私は答えられなかった。
「綾部君、ありがとう!」

そして、私の横をすり抜け、階段を駆け降りて行った。
翌日、由香は退職届を出した。
一週間後に会社を辞めた。

年の暮れ、社内に妙なうわさが流れているのを知った。
由香が父親のいない子を産んだと言うのだ。、
子供は男の子で、名前を雅之とつけたと言う。

雅之は―――俺の名だった
課長を始め課員たちは、私を意味あり気に見た。
私は相変わらず、昼休みに非常階段マラソンを続けている。

誰も知らない孤独な記録に挑戦して。
汗みどろで非常階段を黙々と往復するのは、
我ながら異常だった。

だが、俺が以前とちがうのは、
あの日、由香が立った屋上の場所を目にすると、
涙があふれて止まらないことだった。

なんの涙か分からない。
意味などないのかも知れない。
だが、そこを見ると涙があふれるのだ。

あの時、もう一歩踏み込んでいたら、
憧れの由香を自分のものに出来たかも知れない。
だが、私はやらなかった!

身重の彼女の弱身につけ込みたくなかったからだ。
そんな自分は許せない!
私は走りながら声を殺して、誰憚ることなく号泣する。

そした「良かった!」と何度もつぶやくのだ。
12分21秒の記録は、いまも破れていない。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

スーパースター

原口源太郎
恋愛
高校時代の友人の神谷が百メートルと二百メートル走の日本記録を出し、オリンピック代表選考の大会でも優勝を飾って代表に決まる。俺は心のどこかに嫉妬する思いを抱えながらも、大舞台で疾走する神谷を応援する。

【ショートショート】おやすみ

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。 声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

婚約破棄の断罪劇が名前パニックになった件について

夜空のかけら
恋愛
名前は重要ですが、これはひどい… 物忘れをする年頃なんです。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

お久しぶりです、元旦那様

mios
恋愛
「お久しぶりです。元旦那様。」

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

男性向け(女声)シチュエーションボイス台本

しましまのしっぽ
恋愛
男性向け(女声)シチュエーションボイス台本です。 関西弁彼女の台本を標準語に変えたものもあります。ご了承ください ご自由にお使いください。 イラストはノーコピーライトガールさんからお借りしました

処理中です...