3 / 3
第一章 旅をすれば盗賊に当たると思え
二
しおりを挟む
意外に近くから聞こえた声にぎょっとして、闇の中目を凝らす。
木立の向こうにぼんやりと人影が見えた。異様に大きな頭に再びぎょっとする。
だが、よく目を凝らすと、それは蘭笠を被った男の影だとわかった。
「さてもさても、日が落ちても旅を続けるなんぞ、よほど腕に自信のある御仁とお見受けするが……武田の侍大将じゃったかの? おお、怖や怖や」
ひょっひょっと癇に障る笑い声を上げながら、男はゆっくりと近づいてくる。
見たところ、腰にはなにも帯びていない。手にも弓や太刀を持っている様子はない。
どうみても荒事にふさわしくないが、それにしては醸し出す気配が尋常ではない。
男がゆるゆると腕を広げる。
だらしなく襟をくつろげて着崩した垂領の水干姿。手に、小さな皿のようなものと、棒きれのようなものを持っているのが見えた。
ちん。
甲高い、金属音が響いた。
鉦だ。
男が鐘木を振り上げ、鉦を叩く。
ちんこんこん、こんこんちん。
叩くところによって音色の違う音が、三拍ずつ打たれる。
それとともに、男の身体がゆらゆらと動いた。細かく歩を刻んでいるらしい。
――まずい。
晴豊は目を見張った。
鉦を使うのは初めて見るが、あの動きには思い当たる節がある。
「まずい、な」
晴豊だけではなく、光若も気づいたらしい。初めて声に焦りが滲んだ。
「光若殿もご存じですか?」
「ああ。唱門師だ」
「唱門師というのですか。陰陽師の類だと思いました」
「流れの陰陽師崩れだ。公家のおぬしには馴染みがないだろうが」
唱門師の男が低い声で何事かを呟き始める。
「……南斗北斗三台玉女、左青龍避万兵、右白虎避不詳……」
「な、なんだなんだ、なにをしようとしてるんだ彼奴は」
「呪を唱えているのだ」
弥平治の問いに晴豊は答えた。
陰陽寮が司る泰山府君祭や天曹地府祭などを、都の御所で間近に見てきた晴豊にとって、陰陽師の唱える呪はよく知った、そして恐るべきものであった。
穢れを払い、災厄を鎮め、未来を見る。人たる身には叶わぬはずのことを、いともたやすくやってのけるのが陰陽師たちなのだ。
唱門師というのが流れの陰陽師だというなら、劣るとしても似たような力の一端を持っているだろう。晴豊の背に、嫌な汗が滲む。
「……急急如律令。乾、坤、元、亨、利、貞」
不気味な声でそう呟くと、唱門師はゆっくりとこちらに近づいてくる。
一歩……二歩……。六歩進んだところで、男の姿が忽然と消えた。
「なっ」
「幻術か!?」
「落ち着け! 来るぞ!」
光若が叫んだその瞬間、数十匹の山犬がいきなり現れた。
目が血走り、耳まで避けたその獣は、涎を垂らしながら歯を打ち鳴らして襲ってくる。
「ええい、くそ!」
「どういう仕掛けになってんだ!」
光若や弥平治、改悛たちが得物を振り回して山犬を斬るのが見える。
晴豊も腰に帯びた刀を抜いた。振り返って飛び掛かってくる山犬を両断する。
途端に山犬の姿がふっと消えた。
確かに斬ったはずなのに手ごたえがない。闇の中、二つに切断された白い紙きれがひらひらと落ちてくるのが見えた。朱い色の梵字と六芒星が書きつけてある。
「なんだよ、こりゃあ」
「だから呪だ」
「元は護符かよ。いくら斬ってもきりがないんじゃないのか!?」
護符から生み出された山犬とはいえ、噛まれれば怪我をする。喰われる。こちらの体力や気力はどんどん削られていくのに、斬っても斬ってもあちらは紙きれしか失わないというこの理不尽さ。
敵の野盗どもがこの隙に乗じて一緒に襲ってこないのだけが救いだ。山犬と太刀と長刀が切り結ぶ間に入ってくる胆力はなかなか出ないのだろう。
どうすればいい、どうすれば。
唱門師がどれほどの護符を持っているのか。たとえ使い果たしたとしても、他の呪を唱えられでもしたら。
そんな焦りが隙を生んだ。
山犬の歯が左腕をかすった。焼けつくような鋭い痛みの後、血の匂いが漂う。
「若君!?」
「晴豊殿!」
「支障ない! 捨て置け!」
咄嗟に叫んだが、左腕が重く痺れている。
利き腕でなくて助かったが、このままではどれだけ持つことか。
「……南無大日大聖不動明王……」
つい、困ったときの神頼みで、武神に祈りたくなる。
が、相手は唱門師だ。菩提寺の仏より、生まれた甲辰の歳神に祈ったほうがいいのかもしれない。
「南無文殊大菩薩……」
刀を振り回しながら、そう何気なくつぶやいたときだった。
「……そこは波夷羅大将といってほしいものだな」
ひどく涼やかな声が響いたと同時に、突如辺りに風が巻き起こった。
「うわ?」
「なんだこれ」
皆が戸惑った声を上げたのも無理はない。
その風は、まるで地中から巻き上がったかのような不自然さだったのだ。突然、小さな竜巻がその場に発生したかのようだった。
山犬の姿は箒で掃いたように綺麗さっぱり消え失せ、風に切り裂かれたたくさんの紙切れが宙を舞う。
そして。
晴豊の前には、白く淡い光を帯びて輝く、童子の姿があった。
木立の向こうにぼんやりと人影が見えた。異様に大きな頭に再びぎょっとする。
だが、よく目を凝らすと、それは蘭笠を被った男の影だとわかった。
「さてもさても、日が落ちても旅を続けるなんぞ、よほど腕に自信のある御仁とお見受けするが……武田の侍大将じゃったかの? おお、怖や怖や」
ひょっひょっと癇に障る笑い声を上げながら、男はゆっくりと近づいてくる。
見たところ、腰にはなにも帯びていない。手にも弓や太刀を持っている様子はない。
どうみても荒事にふさわしくないが、それにしては醸し出す気配が尋常ではない。
男がゆるゆると腕を広げる。
だらしなく襟をくつろげて着崩した垂領の水干姿。手に、小さな皿のようなものと、棒きれのようなものを持っているのが見えた。
ちん。
甲高い、金属音が響いた。
鉦だ。
男が鐘木を振り上げ、鉦を叩く。
ちんこんこん、こんこんちん。
叩くところによって音色の違う音が、三拍ずつ打たれる。
それとともに、男の身体がゆらゆらと動いた。細かく歩を刻んでいるらしい。
――まずい。
晴豊は目を見張った。
鉦を使うのは初めて見るが、あの動きには思い当たる節がある。
「まずい、な」
晴豊だけではなく、光若も気づいたらしい。初めて声に焦りが滲んだ。
「光若殿もご存じですか?」
「ああ。唱門師だ」
「唱門師というのですか。陰陽師の類だと思いました」
「流れの陰陽師崩れだ。公家のおぬしには馴染みがないだろうが」
唱門師の男が低い声で何事かを呟き始める。
「……南斗北斗三台玉女、左青龍避万兵、右白虎避不詳……」
「な、なんだなんだ、なにをしようとしてるんだ彼奴は」
「呪を唱えているのだ」
弥平治の問いに晴豊は答えた。
陰陽寮が司る泰山府君祭や天曹地府祭などを、都の御所で間近に見てきた晴豊にとって、陰陽師の唱える呪はよく知った、そして恐るべきものであった。
穢れを払い、災厄を鎮め、未来を見る。人たる身には叶わぬはずのことを、いともたやすくやってのけるのが陰陽師たちなのだ。
唱門師というのが流れの陰陽師だというなら、劣るとしても似たような力の一端を持っているだろう。晴豊の背に、嫌な汗が滲む。
「……急急如律令。乾、坤、元、亨、利、貞」
不気味な声でそう呟くと、唱門師はゆっくりとこちらに近づいてくる。
一歩……二歩……。六歩進んだところで、男の姿が忽然と消えた。
「なっ」
「幻術か!?」
「落ち着け! 来るぞ!」
光若が叫んだその瞬間、数十匹の山犬がいきなり現れた。
目が血走り、耳まで避けたその獣は、涎を垂らしながら歯を打ち鳴らして襲ってくる。
「ええい、くそ!」
「どういう仕掛けになってんだ!」
光若や弥平治、改悛たちが得物を振り回して山犬を斬るのが見える。
晴豊も腰に帯びた刀を抜いた。振り返って飛び掛かってくる山犬を両断する。
途端に山犬の姿がふっと消えた。
確かに斬ったはずなのに手ごたえがない。闇の中、二つに切断された白い紙きれがひらひらと落ちてくるのが見えた。朱い色の梵字と六芒星が書きつけてある。
「なんだよ、こりゃあ」
「だから呪だ」
「元は護符かよ。いくら斬ってもきりがないんじゃないのか!?」
護符から生み出された山犬とはいえ、噛まれれば怪我をする。喰われる。こちらの体力や気力はどんどん削られていくのに、斬っても斬ってもあちらは紙きれしか失わないというこの理不尽さ。
敵の野盗どもがこの隙に乗じて一緒に襲ってこないのだけが救いだ。山犬と太刀と長刀が切り結ぶ間に入ってくる胆力はなかなか出ないのだろう。
どうすればいい、どうすれば。
唱門師がどれほどの護符を持っているのか。たとえ使い果たしたとしても、他の呪を唱えられでもしたら。
そんな焦りが隙を生んだ。
山犬の歯が左腕をかすった。焼けつくような鋭い痛みの後、血の匂いが漂う。
「若君!?」
「晴豊殿!」
「支障ない! 捨て置け!」
咄嗟に叫んだが、左腕が重く痺れている。
利き腕でなくて助かったが、このままではどれだけ持つことか。
「……南無大日大聖不動明王……」
つい、困ったときの神頼みで、武神に祈りたくなる。
が、相手は唱門師だ。菩提寺の仏より、生まれた甲辰の歳神に祈ったほうがいいのかもしれない。
「南無文殊大菩薩……」
刀を振り回しながら、そう何気なくつぶやいたときだった。
「……そこは波夷羅大将といってほしいものだな」
ひどく涼やかな声が響いたと同時に、突如辺りに風が巻き起こった。
「うわ?」
「なんだこれ」
皆が戸惑った声を上げたのも無理はない。
その風は、まるで地中から巻き上がったかのような不自然さだったのだ。突然、小さな竜巻がその場に発生したかのようだった。
山犬の姿は箒で掃いたように綺麗さっぱり消え失せ、風に切り裂かれたたくさんの紙切れが宙を舞う。
そして。
晴豊の前には、白く淡い光を帯びて輝く、童子の姿があった。
0
お気に入りに追加
6
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
梅すだれ
木花薫
歴史・時代
江戸時代の女の子、お千代の一生の物語。恋に仕事に頑張るお千代は悲しいことも多いけど充実した女の人生を生き抜きます。が、現在お千代の物語から逸れて、九州の隠れキリシタンの話になっています。島原の乱の前後、農民たちがどのように生きていたのか、仏教やキリスト教の世界観も組み込んで書いています。
登場人物の繋がりで主人公がバトンタッチして物語が次々と移っていきます隠れキリシタンの次は戦国時代の姉妹のストーリーとなっていきます。
時代背景は戦国時代から江戸時代初期の歴史とリンクさせてあります。長編時代小説。長々と続きます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる