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森の獣 1章 稲生編

ふぅふぅ

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「失礼します、お食事をお持ちしました」
稲生は、そう言って、入室した。
無理に起き上がろうとするメープルを
片手で制して、近くに盆を置くと、
稲生は、メープルを起き上がらせた。
「ありがとうございます、稲生様」
とうつむきながら、メープルは、伝えた。

「いえいえ、一人では食べにくいかと
思いますので、はい、あーん」
食器とスプーンを手に取り、
稲生は、言ってみたかったフレーズを言葉にした。

突然のことにメープルは、えっえっええー
といった感じで、目を白黒させて
口元近くにあるスプーンを凝視している。

稲生は、更に「熱くないと思いますが、
ふうーふうーをしましょうか?」
と言って、メープルの口元にある
スプーンに顔を近づける。

メープルは、「はひ、大丈夫です」と言って、
ぱくりと頬張った。
そして、一言、「おいしいです」

正直、その仕草を稲生は、可愛らしく感じ、
4杯、5杯と続け、メープルの表情を楽しんだ。
メープルは、黙々と食べる。

6杯目に差し掛かった時、メープルは、
「これは、稲生様が作られたのですか?
我が国では、見られない味ですね」
と尋ねた。

「いえ、リンが調理しました。
材料は、ちょっと独特のもので
知らぬ方がよいでしょう」
慇懃な調子で答える稲生。

「そっそうなんですか。
それと、稲生様、ふうーふうーとは一体、
何なのでしょうか?おまじないですか?」

メープルの問いに稲生は、説明するより
やってみましょうと伝えた。
メープルの口元にスプーンと顔を近づけ、
ゆっくりとふうーっと二度、三度と息を吹きかけた。
メープルは稲生の吐息を感じてか、
それとも痛みからか顔が真っ赤になり、
はああぁと声を上げていた。

ドアから見える稲生の後ろ姿は、
メープルにキスをしているようにしか見えないだろう。
そして、その姿を般若の形相で観察するリン。
リンの姿がメープルの視界にはいると、
「稲生様、いけません、そのようなお戯れは。
普通に食べられます」
と言って、6杯目を口にした。

「メープルさん、これは、熱すぎる食べ物を
冷ます一つの方法です。
何もおかしなことはありませんよ」
と微笑みながら、稲生は答えた。

「ほほぅ、異世界では随分と変わった
冷まし方をするものだな、稲生よ。
よく教えてもらおうか、このクズ召喚者がぁ」
いきなりの暴言の乱入に今までの
甘い雰囲気は一瞬で散逸してしまった。

誰だ、この甘美な空間に乱入した馬鹿者は!
と稲生は、激おこで振り向くと、
そこには夜叉が立っていた。

「稲生様、すみません、少し疲れましたので、
お休みさせて頂けると助かるのですが」
ここに裏切り者が一名。
流石に病人の言、無視するわけにもいかず、
身体を寝かす手伝いをした。
リンは近づき、メープルの額にかざし、何事か唱えていた。
メープルは、「リンさん、ありがとうございます」
と言い、ゆっくりと瞳を閉じた。

終始無言の圧力を感じながら、稲生は、
部屋を出て、厨房に食器を戻すと、
執務室に強制連行された。

「さて、稲生は現在のところ、特定の女性との
深いお付き合いはないようだが、非常に女性の扱いに
経験豊富なようだな。
先ほどのすばらしい手管、しかと拝見させてもらったぞ。
危うく私も騙されるところだった」
最後の方は、ぶつぶつと何を言っているのか
わからなかったが、稲生は、ひとまず弁明を試みた。

「単に熱いスープを冷ましていただけです。
他意はございません」

「ふん、その割には、神官には
あるまじき吐息を漏らしていたように聞こえたが?」

「気のせいかと。リン、そのようなうがった見方を
してはよくないかと思います」

「あの後ろ姿は、それそのものの行為だろう。
弱った女性の心を巧みに掴みおってからに」
身か出た錆とはいえ、何と答えれば、
この場が収まるのかわからず、稲生はほとほと困ってしまった。
「私にそのような技巧は、ございませんよ。
そもそも女性をデートに誘うことすら難儀なことです」
「なら、明日、試してみるか。
どの程度の技量があるのか!明日、4刻に迎えに来い」

「えっ」

稲生は、素の反応をしてしまった。

リンは、短く問う。

「何か不満か?」

稲生は、再度、時間を確認した。
「いえ、特には。わかりました、4刻ですね」

「他の者は連れてくるなよ」
リンは、最後に念を押すように注文を付けくわえた。
「了解いたしました」
稲生が答えると少し満足そうな顔でリンは
うなずき、仕事に戻った。

稲生は、自室に戻り、どうしてこうなったと
思い悩んでいた。
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