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23.悲しみの雨もよう

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 すべてを押しつぶす、鉛色の曇天。
 襲いかかる雨粒の矢。
 泥地と化したグラウンドで、たった一箇所だけ、雨雲に覆われぬ場所がある。

「おれはレイ。キライなモノは雨――」

 黒髪の青年が呪文のごとく繰り返す場所。
 青年の姿をしたカラクリ人形が、理性という糸をことごとく断ち切った場所。
 壊れたカラクリ人形は、新品のように整っている。

 対してこちらは、動き回るほどに壊れゆく。壊されゆく。
 虚夢。いや、現実。

(本能に呑み込まれたか)

 襤褸同然の上着を脱ぎ捨てる。
 顔を出すのは、無数に裂けたシャツのにじみもよう。血か雨かは、もはやどうでもいい。
 以前もそうだった。怒り狂った青年――れいに全身を切り刻まれ、散った。

(だが、同じ手は食らわん)

 あの雨粒ひとつひとつが凶刃。ならば。

「消え失せろ」

 ボウッ!

 刹那、髪や衣服に含まれた水分が干上がる。
 この身を覆う、炎の熱によって。

「……わーお、大惨事。1回死んで、妙な小技覚えてきたね」

 抑揚のない声音が、土砂降りのすきまをすり抜け、届く。

「雨の中燃え上がるって、ふざけてるの?」
「天変地異を起こす小僧に言われたくはないな」

 零は殺気を隠そうともしない。
 なにをしてでも俺を殺す。やつの目的はそれのみだ。

(さすが〝死神〟)

 一般人がどうなろうが、かまいはしない。
 だがそれは、我々〝銀猫ぎんねこ〟の本意ではない。

(お嬢の結界がなければ、こんな学校、すでに瓦礫の山と化しているな)

 結界を隔てた〝外側〟が、お嬢たちのいる現実世界。
 対して〝内側〟は、俺たちのいる水平世界。
 狂気の雨雲が〝外側〟を侵食する前に、終わらせる。

「地獄から這い上がって……やっと……やっとふぅちゃんに会えたの……」

 ゆらり――……

 闇をまとう声音。
 相手の一挙手一投足、揺らぐ影に至るまで、研ぎ澄ました神経で捉える。

「いまなら、ダイスキだって伝えられる……キスだってできる……」
「だが、〝恋人〟にはなれない。どうあがいても、俺たちはヒトにはなれない」
「うるさいっ……ふぅちゃんを幸せにするのはおれなんだ! ふぅちゃんにはおれしか要らないんだ! ジャマするヤツは死ねよッ!!」
「ほざけ、若造が」

 無数の雨の矢を、放たれる前に焼き切った。
 零はすかさず次の手を繰り出そうとするが、怒りに駆られたときほど、攻撃は単調になるもの。
 攻撃軌道外に跳躍、ふところに突っ込む。
 炎は、おさめて。

「……な」
「ふッ!」

 俺の最初にして最後のこぶしは、手応えあり。
 不気味なほど整いすぎた零の横っ面に、届いた。

 ザァ――……

 横殴りの雨が、倒れ込んだ零の黒髪と制服を濡らす。

「……なに手抜いてるの。本気で死にたいの」

 泥を引っ掻く華奢な指。
 震える声に、先ほどまでの気迫はない。

「俺たちの目的は、おまえを殺すことではない。おまえの大事な大事な彼女もしかり、だ」
「ウソつきっ! そう言ってふぅちゃんを殺すんだろ! 時間がないからって!」
「零、いい加減にぐずるのはよせ。おまえがいくら手を尽くそうと無意味なことは、おまえ自身がよくわかっているだろう」
「……っ!」

 キッと俺をねめつけた零だが、唇を引き結んだ一瞬後には、再びうつむく。

「……わかってるよ……おれが三葉みつば先生を殺せても、ふぅちゃんには戻らない……〝はぐれ猫〟のツルが、ふぅちゃんにまで絡んでるから……」

 お嬢の言った通りだ。零は、すべてを悟っていた。
 蒼の瞳で〝生の世界〟を、金の瞳で〝死の世界〟を視ることができるこいつの、どちらの瞳にそう映ったか。火を見るより明らか。

「なんなの……おれへの報復なの? 何度も何度も、おれからふぅちゃんを奪って……アイツキライ! 大ッキライ!」

 泣きわめく子供には実力行使。
 これがはたして正しいのか。……いや。

「おまえがしたことは、間違いじゃなかっただろ」

 こいつは、心に入った亀裂に悲鳴を上げている。
 虚勢の生意気を耳にして思うことは、いつだって同じ。

〝零は、年のわりに死にすぎた〟……と。

「おまえは間違ったことをしていない。だが、〝はぐれ猫〟を責めるのは俺たちじゃない」
「だから、ふぅちゃんに死ねって言うの……」
「履き違えるな。お嬢に言われただろう、〝行動で示せ〟と。泣きべそをかくより先にすることがあるだろうが、鼻タレ小僧」

 これだけ雨に打たれたら、もう充分に頭も冷えただろう。
 そろそろ切り上げるが、かまわないな、お嬢。

「ちょっと……なにするの、ゴジョウ!」
「いいから来い」

 打ちつける雨の中、腕をかっさらわれた零は、反射的に立ち上がった。それでいい。

「おまえの大事な飼い主だろう。なら、責任持って最後まで飼われてろ」
「――っ!」

 とたん、打ちつける雨が鳴りをひそめる。
 俺を見上げる零。
 その頬をつたう雫が洗い流されたとき、哀しみの雨は、細かな霧雨へと変わった。
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