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0.バッドエンド

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 ――空が、血に濡れています。

「おれはレイ。キライなモノは雨」

 あかい紅い夕照せきしょうにまみれながら、青年がつぶやきました。

「スキなモノは……」
「もうやめてッ!」

 ほぼ悲鳴の拒否を受けて、スッと閉じられる薄い唇。
 でもそれも、ひとときのこと。

「アナタが訊いたんです。おれは誰なのかと。アナタは、それを知っているのに」

 無機質な声音が、温度を持ちます。
 絶対零度という、温度を。
 鮮烈な夕焼けを背に、青年が1歩。

「やだっ……来ないでッ!」

 2歩、3歩、4歩。

 青年の夜色をした猫っ毛が、なびきます。
 青年が歩むたび、嫌な汗がこめかみをつたい、視界がにじむのです。

「おねがい、来な……っ」

 水分という水分を出しつくしたわたしの喉は、乾ききっていました。
 恐怖に凍える自分を、大きく裂けたブラウスごと、苦しいほどに抱きしめます。

「痛みに恐怖し、死をいとう……ヒトは、ことごとく無知だ。死とは、未知への恐怖です」

 とうとう、青年の影に捕まってしまいました。
 しゃがみ込む、きぬずれの音。

 こわごわと見上げ、肩が跳ねます。
 蒼と金の瞳が、左右で違う虹彩が、血色の逆光のなか、妖しげに輝いていたからです。

「未知を教えましょう。そうすれば、アナタの涙も、止まるはずです」
「……厶リ、です……死んだ人間は、笑わないわ……笑えない、のよ……!」
「不適です」

 絞り出した言葉は、一蹴されます。
 まるで、ゴミ箱に捨てられるように。

「おれが教えるのは未知であって、死そのものではありません」
「どういう、こと……?」
「それを言ったところで、理解できるでしょうか。もう限界でしょ?」
「うっ、くぁ……!」

 ぐらつく意識。
 なんとか保っていましたが、青年の言うとおり、限界のようです。

「い、たいッ……!」

 当然です。ブラウスを裂かれて、横腹を裂かれて、平然としている人間なんて、いるはずがありません。
 はっ、はっ、と虫の息を繰り返すわたしを、ふいに伸びてきたしなかやな腕が、仰向かせ――

 ――ちりん。

 鈴の音と、謎の浮遊感。

 (ブレス、レット……?)

 青年の右手首に鈴が提がっていて、抱きあげられたのだと理解するのに、何十秒を浪費したことでしょう。

「じっとしててね」

 ……酷く優しい声音でした。
 わたしの膝裏を支えた青年は、踏み出すのです。
 腕が血に染まるのも、気にはとめずに。

(もう……ダメね)

 血を流しすぎたようです。
 青年が心変わりをしたところで、救急車が到着する7分の間に、わたしは事切れてしまうでしょう。

 ……冴えない人生でした。
 なにも望まず、ひっそりと息を続けて、けれどもそれなりに満たされていたのに。
 取るに足りぬ女の24年は、7つも年下の青年によって、幕を下ろすのです。

 ポタッ、ポタッ――
 ちりん、ちりん――

 血は流れ、鈴は歌う……

「おれはレイ。キライなモノは雨。スキなモノは、なんだと思います?」

 ……なんだか、まぶたが重くなってきたわ。
 早く眠りにつきたくて、わたしは問い返すのです。

「それは……ひと、でしょうか」
「はい、猫がダイスキな女の子です。薄汚い野良猫を拾って、お風呂に入れちゃうような、ね」

 閉じかけたまぶたが、すぅっと持ち上がります。
 わたしの本能? あるいは、わたしを抱いた青年が、そうさせたのかも。

「水は大っキライだけど……ふぅちゃんとなら、イヤじゃなかった。いまも、そう」

 ――ちりん。

 鈴の音が止まりました。青年が歩みを止めたのです。
 ぼんやりとあたりを見回して、ようやく思い出します。
 ここが、高校という学び舎であったこと。
 とりわけ、まだ少し肌寒い、水無月のプールサイドであったことを。

「……スキ」

 わたしにできるのは、おぼろげな意識のまま、身をゆだねることだけ。

「もう、離れないから……」

 青年は、女のわたしから見ても綺麗な顔を、おもむろに近づけます。
 そうして形のいい唇で、わたしの下唇を、かすめるのです。

「ずっといっしょだよ――ふぅちゃん」

 それが青年の、最後の言葉でした。

 ひっくり返る天地。
 パシャン、と水面に叩きつけられる感触と、身体が沈んでゆく感覚。
 鼻につく、次亜塩素酸ナトリウムのにおい。

 せめて、と1回でも呼吸することさえ、青年は許してはくれませんでした。
 先ほどとは比べものにならないくらいに、わたしの唇に、唇を押しつけて。

 細かな水泡のひと粒さえ入ることを許さない抱擁は、まるで、ぐずる子供のようでした。
 かろうじてこじ開けた瞳で、血濡れの空へと手を伸ばし……揺らぐ水面を抜けるより先に、華奢な指で、絡めとられてしまいました。
 なにもない蒼の世界で、夜色の髪だけがわたしの頬をくすぐって、なんだか無性に、安堵してしまったのです。


 イタミも、クルシミも、
 なにも、わからない。

 だれにもジャマされず、
 ただただ、
 しずんでゆくだけ。


 ふかく、

 ふかく、

 ふたりだけで。
 
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