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遥かなる懐古㈢
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「お仕事で疲れたの?」
「これから疲れる予定だな。……しばらく空ける。俺がいないからって、寂しくて泣くなよ」
もしや真知は、不在の折りにまた自分が離れていくのではと、危惧しているのだろうか。
一度、湯飲みの中に咲く紅の花を見やる。
そしてすぐに、真知へと顔を寄せた。
「大丈夫……私は、どこにも行かないよ」
額と額をふれあわせ、努めて穏やかになだめる。
そう……どこにも行きはしない。
もう、行けないのだ。
* * *
静寂の部屋に、扉を叩く控えめな音が響く。
真知ではないはずだ。散々抱き締めて、いましがた漸く出かけて行った彼であるから。
「どうぞ」
椅子に腰かけたまま、返事のみをする。
この部屋に鍵は存在しない。真知が認めた者のみしか出入りは赦されないよう、術をかけられているのだ。
失礼致します、との断りがあって、静かに扉が開く。入室してきたのは、この邸で働く女官のようであった。湯浴みの際に何度か世話になっている。
ここの使用人、いや使用神たちはみな、なんらかの方法で顔を隠している。真知の意向らしいが、理由はわからない。
目前の女官も例に漏れず面で素顔を隠していたのだが、ふと違和感を憶える。思わず椅子から腰を浮かせ、確信した。
元々数少ない女官の中に、自分より背の高い、女性にしては長身の神が、果たしていただろうか。それにあの狐の面――
息を呑んで目を凝らした、そのときだ。
「ご無事だったのですね!」
狐の面を早々に取り払い、彼の神は素顔をさらす。
穂花は瞠目した。桜も恥じらうそのかんばせは、まぎれもなく。
「――さく!?」
「はい、サクヤにございます。お迎えが遅くなってしまい、申し訳ございません」
「どうやってここに……紅は? 蒼は?」
「蒼は妖でありますゆえ、高天原に足を踏み入れることは赦されません。ですが兄上は、こちらに。いまは訳あって、行動を別にさせて頂いているのです」
紅が、ここに来ている。
胸がざわついた。歓喜とも言うか。だがそれもつかの間。
「貴女様がご無事で、本当に良かった……再会の喜びに浸りたいところですが、どうぞこちらへ。まずは邸を出なければ」
手を取るなり、穂花を連れ出そうとするサクヤであるが、事はそう上手くは行かない。
「待って、私は行けないわ!」
ほかでもない穂花自身が、抜け出すことを拒んだ為。
「それは……何故です?」
「まちくんの傍を、離れられないの」
「離れられない? なにか術でも施されたのですか? ですが、オモイカネ様がそのように強引な真似をなさるとは……」
「ちがう、そうじゃないのよ」
「どういうことですか、穂花……?」
問われている。答えなければならない。
答えられるのだろうか? 嗚呼それでも……
夫だからこそ、伝えなければならない。
「さく、私――赤ちゃんが、出来たの」
菫の双眸が極限まで見開かれる。
心根の優しい彼は、咎めないだろう。
だからきっと、哀しませてしまう。
……それが哀しくて、息苦しかった。
「これから疲れる予定だな。……しばらく空ける。俺がいないからって、寂しくて泣くなよ」
もしや真知は、不在の折りにまた自分が離れていくのではと、危惧しているのだろうか。
一度、湯飲みの中に咲く紅の花を見やる。
そしてすぐに、真知へと顔を寄せた。
「大丈夫……私は、どこにも行かないよ」
額と額をふれあわせ、努めて穏やかになだめる。
そう……どこにも行きはしない。
もう、行けないのだ。
* * *
静寂の部屋に、扉を叩く控えめな音が響く。
真知ではないはずだ。散々抱き締めて、いましがた漸く出かけて行った彼であるから。
「どうぞ」
椅子に腰かけたまま、返事のみをする。
この部屋に鍵は存在しない。真知が認めた者のみしか出入りは赦されないよう、術をかけられているのだ。
失礼致します、との断りがあって、静かに扉が開く。入室してきたのは、この邸で働く女官のようであった。湯浴みの際に何度か世話になっている。
ここの使用人、いや使用神たちはみな、なんらかの方法で顔を隠している。真知の意向らしいが、理由はわからない。
目前の女官も例に漏れず面で素顔を隠していたのだが、ふと違和感を憶える。思わず椅子から腰を浮かせ、確信した。
元々数少ない女官の中に、自分より背の高い、女性にしては長身の神が、果たしていただろうか。それにあの狐の面――
息を呑んで目を凝らした、そのときだ。
「ご無事だったのですね!」
狐の面を早々に取り払い、彼の神は素顔をさらす。
穂花は瞠目した。桜も恥じらうそのかんばせは、まぎれもなく。
「――さく!?」
「はい、サクヤにございます。お迎えが遅くなってしまい、申し訳ございません」
「どうやってここに……紅は? 蒼は?」
「蒼は妖でありますゆえ、高天原に足を踏み入れることは赦されません。ですが兄上は、こちらに。いまは訳あって、行動を別にさせて頂いているのです」
紅が、ここに来ている。
胸がざわついた。歓喜とも言うか。だがそれもつかの間。
「貴女様がご無事で、本当に良かった……再会の喜びに浸りたいところですが、どうぞこちらへ。まずは邸を出なければ」
手を取るなり、穂花を連れ出そうとするサクヤであるが、事はそう上手くは行かない。
「待って、私は行けないわ!」
ほかでもない穂花自身が、抜け出すことを拒んだ為。
「それは……何故です?」
「まちくんの傍を、離れられないの」
「離れられない? なにか術でも施されたのですか? ですが、オモイカネ様がそのように強引な真似をなさるとは……」
「ちがう、そうじゃないのよ」
「どういうことですか、穂花……?」
問われている。答えなければならない。
答えられるのだろうか? 嗚呼それでも……
夫だからこそ、伝えなければならない。
「さく、私――赤ちゃんが、出来たの」
菫の双眸が極限まで見開かれる。
心根の優しい彼は、咎めないだろう。
だからきっと、哀しませてしまう。
……それが哀しくて、息苦しかった。
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