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本編
喪失の記憶㈡
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ぱっと目を醒ましたとき、穂花は薄暗い和室にある天井の木目を見上げていた。
「あれ、私……」
無意識のうちにこぼした声は、かすれてしまった。
ぼんやりとした意識が覚醒するほどに、穂花は頭を抱えたくなる衝動に見舞われる。
「……あり得ない」
してしまった。
見ず知らずの青年と、あんなにも激しく。
夢の中での出来事であるはずなのに、全身が汗ばみ、燻るような熱が下腹部に宿っている。
(男の人は、寝てるあいだにそういうことになっちゃうって聞いたことがあるけど……やだ、恥ずかしい!)
誰に見られているわけでもないけれど、おのれが興奮していたという事実を突きつけられ、穂花は赤面した顔を両手で覆う。
「……よし、頭を冷やそう」
汗で寝間着が貼りついて、気持ちが悪い。着替えのついでに煩悩を払おうと、布団から抜け出たときだった。
穂花はようやく、自室である八畳間の片隅に、違和感をひろう。
カラカラカラ、と、不思議な音がする。
その音の正体は、半分ほど開かれた障子へ近寄り、そっと向こう側を覗き込んだことで判明した。
少年だ。縁側に腰かけ、満月を見上げる少年の右手に、若草色の風車がにぎられている。庭の木々をなでるような夜風が吹くと、その風車がカラカラと音を立てて回るのだ。
「あれ? ねーさま、おきたの? おはよ!」
縁側から投げ出した素足をブラブラさせていた少年が、穂花をふり返り、無邪気にはにかむ。
その拍子に、ゆるく束ねられた天色の髪が、するりと肩をすべり落ちた。
「…………蒼」
やっとの思いで絞り出した声も、やはりかすれてしまった。
弟のように可愛がっていた蒼の顔をまともに見ることができないのは、先ほど見た夢のせいだ。
(だって、夢に出てきたあの神……蒼に似てた)
外見はもっと大人びた、穂花より少し年上の青年のように見えたけれど。
いや、だがしかし、蒼は妖だ。主たる紅がそう話していたではないか。
他人の空似。ならばこうも畏縮してしまうのは、蒼に対して失礼ではないのか。
悶々と思い悩む穂花を前に、何を思うたか。
ぱちりと常磐色の双眸でまばたきをした蒼が、鋭い牙を覗かせ、笑った。
「なぁに、怖い夢でも見たの、姉様?」
「いや怖い夢じゃないんだけど! ……って」
とっさに反応してしまった穂花は、そうではないことに気づく。
違うのだ。真に言及すべきは、人の身に不慣れなはずの蒼が、突然流暢に言葉を紡ぎ出したことだろう。
「じゃあどうしたの? 僕の顔見て、真っ赤になって。かわいい」
蒼はくすくすと笑い声をもらし、おもむろに、手にしていた若草色の風車を畳上へ寝かせる。
それから音もなく立ち上がり、障子に手をかけると、夜風とともに鴨居をくぐった。
……すたん。
半開きだった障子が閉められ、外気が完全に遮断される。
にも関わらず、穂花はうすら寒さのようなものを感じ、どうすべきか決めあぐねていた。
ゆるく口の端を持ち上げて歩み寄る蒼を、呆然と見つめるしかない。
「明日は学校があるって主様も言ってたのに、夜ふかしはダメでしょ? 寝坊しないように、僕が寝かしつけてあげる」
聞き慣れた声音で、すらすらと紡がれる言葉が、どこか遠くに聞こえる。
(そういえば……私、どうやって家に帰ったんだっけ?)
せっかくの日曜なのだからと、蒼と朝の散歩に出かけたことまでは思い出せるのに、それ以降のことがわからない。
たしか、散歩の途中で綺羅と遭遇して、そのあと、なんだか蒼の様子がおかしくなって――
「もう、姉様ってば。僕が話しかけてるのに考え事? いじわる」
むっと唇をとがらせたのも、つかの間のこと。
少女と見まごうようなととのった顔が、ふいに距離を詰める。
「んっ……!」
気づけば、唇をふさがれていた。
驚いて胸を押し返そうとするも、それより先に肩を押され、とさりとからだが布団に沈み込む。
「んっ……はぁ、んんっ……」
血のように赤い舌が口内へ侵入し、くちゅり、くちゅりと、唾液をかき混ぜられる。
なんだ、これは。
自分は何故、蒼に押し倒され、口づけをされている?
たちまち、穂花は思考停止した。
どれくらいそうしていたか。穂花の唇を好き放題に貪っていた蒼が、ようやく顔を離す。
「ふふっ……あなたは、どこもかしこも甘い、お菓子みたいだね。もう食べちゃいたい……」
穂花は戦慄した。
間近にある蕩けきった表情。熱に浮かされたその表情に、既視感をおぼえたためだ。
あれはそう、夢に見た。
「……タケ、ミナカタ?」
ほぼ無意識の発声だった。
けれど直後、穂花を映し込んだ常磐色の双眸が、歓喜に見ひらかれる。
「思い出してくれたの……? 姉様、あぁ姉様っ、うれしい!」
歓喜のまま穂花を抱き込んだ蒼のからだが、まばゆい光に包まれる。
閉め切った部屋に、風が吹き抜けた。
やがて、静寂が流れる。
こわごわとまぶたを上げた穂花は、しめやかな月明かりの中に、衝撃的な光景を見出す。
「そう、僕はタケミナカタ。かつて国津神を統べていた大国主の息子、建南方神」
穂花を組み敷いていたのは、青年だった。
外見だけでいえば十七、八歳ほど。
天色の髪に常磐色の瞳、中性的な顔立ちはそのままに、ひたいから覗く二本角はより鋭く、からだつきもひとまわり大きくなって。
夢に見たタケミナカタに、違いなかった。
「でも、その名前は捨てさせられたものだから。僕はもう、ただの〝蒼〟でしかないよ」
すりすりと、指先でほほをくすぐられる。
愛おしくてたまらないといったまなざしを、一身にそそがれる。
「それでも、思い出してくれたなら。僕の想いが、あなたの心に響いたなら……こんなにしあわせなことはないよ」
タケミナカタ、いや蒼の声が震えている。
「ねぇ……今夜は僕とあそぼうよ。いっぱい、いっぱい……いいでしょ? 姉様……」
吐息のようなささやきを穂花の耳に吹き込んだ蒼は、つぅ……と穂花の腰をなぞり、それから噛みつくように、唇を奪った。
「あれ、私……」
無意識のうちにこぼした声は、かすれてしまった。
ぼんやりとした意識が覚醒するほどに、穂花は頭を抱えたくなる衝動に見舞われる。
「……あり得ない」
してしまった。
見ず知らずの青年と、あんなにも激しく。
夢の中での出来事であるはずなのに、全身が汗ばみ、燻るような熱が下腹部に宿っている。
(男の人は、寝てるあいだにそういうことになっちゃうって聞いたことがあるけど……やだ、恥ずかしい!)
誰に見られているわけでもないけれど、おのれが興奮していたという事実を突きつけられ、穂花は赤面した顔を両手で覆う。
「……よし、頭を冷やそう」
汗で寝間着が貼りついて、気持ちが悪い。着替えのついでに煩悩を払おうと、布団から抜け出たときだった。
穂花はようやく、自室である八畳間の片隅に、違和感をひろう。
カラカラカラ、と、不思議な音がする。
その音の正体は、半分ほど開かれた障子へ近寄り、そっと向こう側を覗き込んだことで判明した。
少年だ。縁側に腰かけ、満月を見上げる少年の右手に、若草色の風車がにぎられている。庭の木々をなでるような夜風が吹くと、その風車がカラカラと音を立てて回るのだ。
「あれ? ねーさま、おきたの? おはよ!」
縁側から投げ出した素足をブラブラさせていた少年が、穂花をふり返り、無邪気にはにかむ。
その拍子に、ゆるく束ねられた天色の髪が、するりと肩をすべり落ちた。
「…………蒼」
やっとの思いで絞り出した声も、やはりかすれてしまった。
弟のように可愛がっていた蒼の顔をまともに見ることができないのは、先ほど見た夢のせいだ。
(だって、夢に出てきたあの神……蒼に似てた)
外見はもっと大人びた、穂花より少し年上の青年のように見えたけれど。
いや、だがしかし、蒼は妖だ。主たる紅がそう話していたではないか。
他人の空似。ならばこうも畏縮してしまうのは、蒼に対して失礼ではないのか。
悶々と思い悩む穂花を前に、何を思うたか。
ぱちりと常磐色の双眸でまばたきをした蒼が、鋭い牙を覗かせ、笑った。
「なぁに、怖い夢でも見たの、姉様?」
「いや怖い夢じゃないんだけど! ……って」
とっさに反応してしまった穂花は、そうではないことに気づく。
違うのだ。真に言及すべきは、人の身に不慣れなはずの蒼が、突然流暢に言葉を紡ぎ出したことだろう。
「じゃあどうしたの? 僕の顔見て、真っ赤になって。かわいい」
蒼はくすくすと笑い声をもらし、おもむろに、手にしていた若草色の風車を畳上へ寝かせる。
それから音もなく立ち上がり、障子に手をかけると、夜風とともに鴨居をくぐった。
……すたん。
半開きだった障子が閉められ、外気が完全に遮断される。
にも関わらず、穂花はうすら寒さのようなものを感じ、どうすべきか決めあぐねていた。
ゆるく口の端を持ち上げて歩み寄る蒼を、呆然と見つめるしかない。
「明日は学校があるって主様も言ってたのに、夜ふかしはダメでしょ? 寝坊しないように、僕が寝かしつけてあげる」
聞き慣れた声音で、すらすらと紡がれる言葉が、どこか遠くに聞こえる。
(そういえば……私、どうやって家に帰ったんだっけ?)
せっかくの日曜なのだからと、蒼と朝の散歩に出かけたことまでは思い出せるのに、それ以降のことがわからない。
たしか、散歩の途中で綺羅と遭遇して、そのあと、なんだか蒼の様子がおかしくなって――
「もう、姉様ってば。僕が話しかけてるのに考え事? いじわる」
むっと唇をとがらせたのも、つかの間のこと。
少女と見まごうようなととのった顔が、ふいに距離を詰める。
「んっ……!」
気づけば、唇をふさがれていた。
驚いて胸を押し返そうとするも、それより先に肩を押され、とさりとからだが布団に沈み込む。
「んっ……はぁ、んんっ……」
血のように赤い舌が口内へ侵入し、くちゅり、くちゅりと、唾液をかき混ぜられる。
なんだ、これは。
自分は何故、蒼に押し倒され、口づけをされている?
たちまち、穂花は思考停止した。
どれくらいそうしていたか。穂花の唇を好き放題に貪っていた蒼が、ようやく顔を離す。
「ふふっ……あなたは、どこもかしこも甘い、お菓子みたいだね。もう食べちゃいたい……」
穂花は戦慄した。
間近にある蕩けきった表情。熱に浮かされたその表情に、既視感をおぼえたためだ。
あれはそう、夢に見た。
「……タケ、ミナカタ?」
ほぼ無意識の発声だった。
けれど直後、穂花を映し込んだ常磐色の双眸が、歓喜に見ひらかれる。
「思い出してくれたの……? 姉様、あぁ姉様っ、うれしい!」
歓喜のまま穂花を抱き込んだ蒼のからだが、まばゆい光に包まれる。
閉め切った部屋に、風が吹き抜けた。
やがて、静寂が流れる。
こわごわとまぶたを上げた穂花は、しめやかな月明かりの中に、衝撃的な光景を見出す。
「そう、僕はタケミナカタ。かつて国津神を統べていた大国主の息子、建南方神」
穂花を組み敷いていたのは、青年だった。
外見だけでいえば十七、八歳ほど。
天色の髪に常磐色の瞳、中性的な顔立ちはそのままに、ひたいから覗く二本角はより鋭く、からだつきもひとまわり大きくなって。
夢に見たタケミナカタに、違いなかった。
「でも、その名前は捨てさせられたものだから。僕はもう、ただの〝蒼〟でしかないよ」
すりすりと、指先でほほをくすぐられる。
愛おしくてたまらないといったまなざしを、一身にそそがれる。
「それでも、思い出してくれたなら。僕の想いが、あなたの心に響いたなら……こんなにしあわせなことはないよ」
タケミナカタ、いや蒼の声が震えている。
「ねぇ……今夜は僕とあそぼうよ。いっぱい、いっぱい……いいでしょ? 姉様……」
吐息のようなささやきを穂花の耳に吹き込んだ蒼は、つぅ……と穂花の腰をなぞり、それから噛みつくように、唇を奪った。
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