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本編
青葉の秘想㈠
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水墨画のような空。
紫陽花の滲む庭先に、けほけほ、と空咳の音を認めた。
長らく頬杖をつき、参考書の活字やルーズリーフの罫線とニ対一のにらめっこ大会を繰り広げていた穂花は、飛び上がる思いで文机を引っぱたいた。
「どうしたの蒼! 具合悪い!?」
しかしながら、咳き込んだ当人は振り向きざまにきょとんと小首を傾げ、膝立つ穂花を常磐の瞳でまあるく切り取るのみ。
「んー、だいじょぶー」
ふにゃあ。あどけない笑みに、こちらまで頬が緩みそうになる。
「ちょっと、むせちゃったのー」と続ける蒼は、腰かけた濡れ縁から投げ出した素足を、思い出したように滴る青葉時雨と遊ばせていた。
水神の使いである蛇の妖らしく、雨季における蒼は連日上機嫌だった。
ゆえにこそ失念していた。楽しげに鼻歌を口ずさむこの子と最後に戯れたのは、いつだったかと。
「ねぇ蒼、今日は日曜だし、私と遊ばない?」
「ふぇ……?」
そっと肩を叩かれたことで、頭上を仰いだ蒼の背を、ひとつに束ねた天色の髪がさらりと滑り落ちる。
「あそぶ? ねーさまと?」
「うんうん」
「あおと、あそんでくれるっ!?」
「もちろん! なんでもいい……うぐっ!」
突如見舞った肉弾は、言わずもがな、言葉の終わりを待たずに抱きついてきた妖によるものだ。
「やたー! ねーさま、だいすき!」
「ふふ……わたしも、だよ……」
ともすれば少女のように可憐な見目をして相も変わらず怪力な蒼であるがゆえに、若干意識が薄れそうにもなったが、そこは可愛い可愛い蒼のため。根性で踏ん張り、抱き返す。
誰とは言わないが、プライベート侵害の達人である永久の神や、自称兄を名乗りながらバリバリに手を出してくる知恵の神や、薄幸の美少年の皮を被った雷の武神などに悩まされる日々なのだ。
そりゃあ、純粋無垢な妖に癒やされたくもなる。テスト勉強? ナニソレおいしいの?
かくて穂花は、残りの休日すべてを捧げても悔いはなしと、鈍色の彼方へ微笑みを飛ばしたのだった。
* * *
身支度をととのえた後に、居間へ舞い戻る。開放した障子の向こうでは、手毬咲いた薄桃と薄青の花が水滴に滲むのみ。
くるりと静寂を見渡すうちに、ふと囁くような人声を捉えた鼓膜が震える。台所のほうだ。
深く考えるまでもなく一歩、二歩、三歩と足を伸ばした穂花は、まもなく視界を遮った紺の暖簾を潜る。
探していた妖はそこにいた。後ろ手に細い指を組み、主たる美しき少年の神と対面している。
「ねぇねぇ、ぬしさま」
「……うむ」
「ダメ……?」
小首を傾げた蒼の肩を、一房の天色の結髪がさらりと滑る。
紺青の衣に桜霞の襷掛けを施そうとしていた姿勢を不自然に維持した紅は、「……うぅむ……」と再度唸るような声をもらし、嘆息する。
「昼餉までには、帰ってくるように」
「ほんと? ぬしさまありがとー!」
利口な蒼のことだ。外出の可否について、紅へお伺いを立てていたらしい。
〝穂花の専属お世話係〟を自称する紅としても食事の支度を放棄することは躊躇われたため、このような返答となったようだ。
そのさまが幼い弟のおねだりに折れる兄のようで、穂花は声を押し殺して笑ったのだった。
紫陽花の滲む庭先に、けほけほ、と空咳の音を認めた。
長らく頬杖をつき、参考書の活字やルーズリーフの罫線とニ対一のにらめっこ大会を繰り広げていた穂花は、飛び上がる思いで文机を引っぱたいた。
「どうしたの蒼! 具合悪い!?」
しかしながら、咳き込んだ当人は振り向きざまにきょとんと小首を傾げ、膝立つ穂花を常磐の瞳でまあるく切り取るのみ。
「んー、だいじょぶー」
ふにゃあ。あどけない笑みに、こちらまで頬が緩みそうになる。
「ちょっと、むせちゃったのー」と続ける蒼は、腰かけた濡れ縁から投げ出した素足を、思い出したように滴る青葉時雨と遊ばせていた。
水神の使いである蛇の妖らしく、雨季における蒼は連日上機嫌だった。
ゆえにこそ失念していた。楽しげに鼻歌を口ずさむこの子と最後に戯れたのは、いつだったかと。
「ねぇ蒼、今日は日曜だし、私と遊ばない?」
「ふぇ……?」
そっと肩を叩かれたことで、頭上を仰いだ蒼の背を、ひとつに束ねた天色の髪がさらりと滑り落ちる。
「あそぶ? ねーさまと?」
「うんうん」
「あおと、あそんでくれるっ!?」
「もちろん! なんでもいい……うぐっ!」
突如見舞った肉弾は、言わずもがな、言葉の終わりを待たずに抱きついてきた妖によるものだ。
「やたー! ねーさま、だいすき!」
「ふふ……わたしも、だよ……」
ともすれば少女のように可憐な見目をして相も変わらず怪力な蒼であるがゆえに、若干意識が薄れそうにもなったが、そこは可愛い可愛い蒼のため。根性で踏ん張り、抱き返す。
誰とは言わないが、プライベート侵害の達人である永久の神や、自称兄を名乗りながらバリバリに手を出してくる知恵の神や、薄幸の美少年の皮を被った雷の武神などに悩まされる日々なのだ。
そりゃあ、純粋無垢な妖に癒やされたくもなる。テスト勉強? ナニソレおいしいの?
かくて穂花は、残りの休日すべてを捧げても悔いはなしと、鈍色の彼方へ微笑みを飛ばしたのだった。
* * *
身支度をととのえた後に、居間へ舞い戻る。開放した障子の向こうでは、手毬咲いた薄桃と薄青の花が水滴に滲むのみ。
くるりと静寂を見渡すうちに、ふと囁くような人声を捉えた鼓膜が震える。台所のほうだ。
深く考えるまでもなく一歩、二歩、三歩と足を伸ばした穂花は、まもなく視界を遮った紺の暖簾を潜る。
探していた妖はそこにいた。後ろ手に細い指を組み、主たる美しき少年の神と対面している。
「ねぇねぇ、ぬしさま」
「……うむ」
「ダメ……?」
小首を傾げた蒼の肩を、一房の天色の結髪がさらりと滑る。
紺青の衣に桜霞の襷掛けを施そうとしていた姿勢を不自然に維持した紅は、「……うぅむ……」と再度唸るような声をもらし、嘆息する。
「昼餉までには、帰ってくるように」
「ほんと? ぬしさまありがとー!」
利口な蒼のことだ。外出の可否について、紅へお伺いを立てていたらしい。
〝穂花の専属お世話係〟を自称する紅としても食事の支度を放棄することは躊躇われたため、このような返答となったようだ。
そのさまが幼い弟のおねだりに折れる兄のようで、穂花は声を押し殺して笑ったのだった。
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