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本編

きらめく藍の空㈡

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「あっ、もうこんな時間! 待ち合わせしてるから私行かなきゃ。また学校でね、雨宮あめみやくん!」

 打ちひしがれた心中を悟られてはなるまいと、力みすぎたようだ。
 反動で口を衝いた声色こそ高いが、持ち上げた頬の筋肉はおそらく引きつっている。

 不自然極まりない、大根芝居にも程がある。が、居たたまれないこの場から逃れられるのであれば、知ったことか。
 三十六計、逃げるに如かず。

 最終的に逃げに走る自分が虚しくて、ちょっぴり目尻に滲むものがあった。
 だが、そそくさと踵を返したから、バレてはいないはずだ。

「――ねぇ、ちょっと」

 バレてはいないはず、だったのだが。
 後ろを振り返りきる寸前に視界を掠めた、物凄い勢いでこちらを射抜く、少年の姿は。

「どういうことなの」

 なにがどうしたのだと、こちらが問いたいのに、ぐんっ、と腕を引く力は、思いのほか力強くて。
 問答無用で振り向かされた至近距離に、夜空が広がった。
 深い藍色。爛々と月が輝く、宝石の如き双眸が、そこに。

「泣いてるの」
「な、いてな……」
「嘘。腫れてる」

 ずいと詰め寄る顔が、近い。近すぎる。
 まともに視線を返してくれなかった綺羅きらが、どうしてこんな、吐息がふれる程近くにいるのか。

「泣かされたの」
「っ……」

 そりゃあ一朝一夕で赤らむものでもなし、先だっての発言が原因でないとすれば、綺羅がそう問うのもわからないではなかった。
 けれど、泣き腫らした目尻をなぞる指先に狼狽えてしまい……一瞬の間が、なにを思わせたのだろう。

「――誰に泣かされた」

 明らかに、綺羅を取り巻く空気が一変した。

「分を弁えぬ身の程知らずは誰だ。言え」

 知らない。
 地底に響くような低音も。容赦なく畳み掛ける高圧的な口調も。

 目前にいる彼が誰なのか、知らない。
 だけれども、緋色の猫っ毛が、月を宿した夜空の瞳が、その面影を、雨宮 綺羅のそれと結びつける。

 違うのだと、断じて泣かされたわけではないのだと訴えたくとも、口が動かない。
 いまこの身を襲うものが殺気だとするなら、電流のようだ、と鈍い思考回路で理解した。
 びりびりと肌を駆け巡り、四肢の末端まで麻痺させてしまうような。

 自分に向けられた感情ではないのに、ほのの肩はひとりでに怯え出す。
 おそろしい、と。

「ッ……」

 ほのの震えを目の当たりにした刹那、覆い被さった影が飛び退く。
 突然の解放感。そろりと視線をやった先に、己の手のひらを凝視する綺羅の姿を認めた。
 それから「はぁああ……」とやたら長いため息が吐き出されるのは、すぐだった。

「あっぶな……うっかりいつもの癖が」
「……えっと?」
「なんでも」

 なにやら独り言を口走ったのち、簡潔に結んだ綺羅は、普段のすました態度を取り戻している。

「色々面倒だから、理由はあえてスルーしとくけど、葦原あしはらさんさ」
「は、はい!」
「あんまほっつき歩かないほうがいいと思うよ。特にそういう顔では」
「そういう……?」
「あーはい、やっぱり無自覚ね。そういう、しおらしく落ち込んでるとこ。女の泣き顔って、分別のない野郎共の格好の餌だから。食われたいなら話は別だけど」
「食われたい!? ないないない! そんな願望微塵もありませんっ!」
「だったら早いとこ帰りなよ。それか、後学のためにあえて僕がやってあげよっか、送り狼」
「後学ってなに? 雨宮くんは私になにを学ばせようとしてるの!?」

 いつになく饒舌ゆえ、からかわれているのかと思ったりもしたが、肝心の綺羅は真顔だ。
 いつも通りの、雲のような掴みにくさ。これには冗談なのか本気なのか、量りかねてしまう。

「なにって、危機感」
「あの、これでも人並みにはありますけど……っていうか、私が万が一ドジしても、雨宮くんにはなんのメリットもデメリットもないんじゃ?」
「さてね」
「でしょでしょ! ……えっ?」

 てっきり「そうだね」と簡潔な返事を食らうと踏んでいた穂花だけに、その返しは予想外だった。
 否定しない。つまり、メリットないしはデメリットがあるということ。
 では穂花に危機感を覚えさせることは、綺羅にとってメリットであるのか、それとも、デメリットであるのか。
 残念ながら、そこまではわからないけれど。

「……雨宮くんって、いい人なんだね」
「なんでそんな結論に至るわけ」
「女の子なんだから気をつけろって、紳士の考え方だと思うのですが」
「……お気楽なもんだね」

 ふいと顔を逸らされて、はたと気づく。
 綺羅がそれまで、向かい合って話を聞いてくれていたことに。

 泣き腫らしたあとに気づいてくれたり、暗い夜道でもないのに、帰りを心配してくれたり。
 素っ気ない言動から綺羅の真意を取り出してみれば、その実、穂花を気にかけるものがほとんどだった。
 嫌われてはいないのかな、と思うだけで、驚くくらいに心が軽くなる。

「変わらないね、きみ」
「うん……?」

 ふいの呟きは、そよ風に吹かれる。
 変わらない、だなんて、まるで、変わってゆけるほど昔から、自分を見守ってきたような言い方をして――

「甘やかしていいものなら、僕は、とっくに――……」

 緋色の髪をしばし風に躍らせた少年は、おもむろに向き直る。
 真っ直ぐに見つめられて、藍色の瞳に宿る光が、どこか懐かしい温度を持ち始めたような、そんな気がして。

「穂花!」

 吸い込まれてしまいそうなひとときから、聞き慣れた呼び声が、穂花を引き戻した。
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