31 / 61
本編
きらめく藍の空㈡
しおりを挟む
「あっ、もうこんな時間! 待ち合わせしてるから私行かなきゃ。また学校でね、雨宮くん!」
打ちひしがれた心中を悟られてはなるまいと、力みすぎたようだ。
反動で口を衝いた声色こそ高いが、持ち上げた頬の筋肉はおそらく引きつっている。
不自然極まりない、大根芝居にも程がある。が、居たたまれないこの場から逃れられるのであれば、知ったことか。
三十六計、逃げるに如かず。
最終的に逃げに走る自分が虚しくて、ちょっぴり目尻に滲むものがあった。
だが、そそくさと踵を返したから、バレてはいないはずだ。
「――ねぇ、ちょっと」
バレてはいないはず、だったのだが。
後ろを振り返りきる寸前に視界を掠めた、物凄い勢いでこちらを射抜く、少年の姿は。
「どういうことなの」
なにがどうしたのだと、こちらが問いたいのに、ぐんっ、と腕を引く力は、思いのほか力強くて。
問答無用で振り向かされた至近距離に、夜空が広がった。
深い藍色。爛々と月が輝く、宝石の如き双眸が、そこに。
「泣いてるの」
「な、いてな……」
「嘘。腫れてる」
ずいと詰め寄る顔が、近い。近すぎる。
まともに視線を返してくれなかった綺羅が、どうしてこんな、吐息がふれる程近くにいるのか。
「泣かされたの」
「っ……」
そりゃあ一朝一夕で赤らむものでもなし、先だっての発言が原因でないとすれば、綺羅がそう問うのもわからないではなかった。
けれど、泣き腫らした目尻をなぞる指先に狼狽えてしまい……一瞬の間が、なにを思わせたのだろう。
「――誰に泣かされた」
明らかに、綺羅を取り巻く空気が一変した。
「分を弁えぬ身の程知らずは誰だ。言え」
知らない。
地底に響くような低音も。容赦なく畳み掛ける高圧的な口調も。
目前にいる彼が誰なのか、知らない。
だけれども、緋色の猫っ毛が、月を宿した夜空の瞳が、その面影を、雨宮 綺羅のそれと結びつける。
違うのだと、断じて泣かされたわけではないのだと訴えたくとも、口が動かない。
いまこの身を襲うものが殺気だとするなら、電流のようだ、と鈍い思考回路で理解した。
びりびりと肌を駆け巡り、四肢の末端まで麻痺させてしまうような。
自分に向けられた感情ではないのに、穂花の肩はひとりでに怯え出す。
おそろしい、と。
「ッ……」
穂花の震えを目の当たりにした刹那、覆い被さった影が飛び退く。
突然の解放感。そろりと視線をやった先に、己の手のひらを凝視する綺羅の姿を認めた。
それから「はぁああ……」とやたら長いため息が吐き出されるのは、すぐだった。
「あっぶな……うっかりいつもの癖が」
「……えっと?」
「なんでも」
なにやら独り言を口走ったのち、簡潔に結んだ綺羅は、普段のすました態度を取り戻している。
「色々面倒だから、理由はあえてスルーしとくけど、葦原さんさ」
「は、はい!」
「あんまほっつき歩かないほうがいいと思うよ。特にそういう顔では」
「そういう……?」
「あーはい、やっぱり無自覚ね。そういう、しおらしく落ち込んでるとこ。女の泣き顔って、分別のない野郎共の格好の餌だから。食われたいなら話は別だけど」
「食われたい!? ないないない! そんな願望微塵もありませんっ!」
「だったら早いとこ帰りなよ。それか、後学のためにあえて僕がやってあげよっか、送り狼」
「後学ってなに? 雨宮くんは私になにを学ばせようとしてるの!?」
いつになく饒舌ゆえ、からかわれているのかと思ったりもしたが、肝心の綺羅は真顔だ。
いつも通りの、雲のような掴みにくさ。これには冗談なのか本気なのか、量りかねてしまう。
「なにって、危機感」
「あの、これでも人並みにはありますけど……っていうか、私が万が一ドジしても、雨宮くんにはなんのメリットもデメリットもないんじゃ?」
「さてね」
「でしょでしょ! ……えっ?」
てっきり「そうだね」と簡潔な返事を食らうと踏んでいた穂花だけに、その返しは予想外だった。
否定しない。つまり、メリットないしはデメリットがあるということ。
では穂花に危機感を覚えさせることは、綺羅にとってメリットであるのか、それとも、デメリットであるのか。
残念ながら、そこまではわからないけれど。
「……雨宮くんって、いい人なんだね」
「なんでそんな結論に至るわけ」
「女の子なんだから気をつけろって、紳士の考え方だと思うのですが」
「……お気楽なもんだね」
ふいと顔を逸らされて、はたと気づく。
綺羅がそれまで、向かい合って話を聞いてくれていたことに。
泣き腫らしたあとに気づいてくれたり、暗い夜道でもないのに、帰りを心配してくれたり。
素っ気ない言動から綺羅の真意を取り出してみれば、その実、穂花を気にかけるものがほとんどだった。
嫌われてはいないのかな、と思うだけで、驚くくらいに心が軽くなる。
「変わらないね、きみ」
「うん……?」
ふいの呟きは、そよ風に吹かれる。
変わらない、だなんて、まるで、変わってゆけるほど昔から、自分を見守ってきたような言い方をして――
「甘やかしていいものなら、僕は、とっくに――……」
緋色の髪をしばし風に躍らせた少年は、おもむろに向き直る。
真っ直ぐに見つめられて、藍色の瞳に宿る光が、どこか懐かしい温度を持ち始めたような、そんな気がして。
「穂花!」
吸い込まれてしまいそうなひとときから、聞き慣れた呼び声が、穂花を引き戻した。
打ちひしがれた心中を悟られてはなるまいと、力みすぎたようだ。
反動で口を衝いた声色こそ高いが、持ち上げた頬の筋肉はおそらく引きつっている。
不自然極まりない、大根芝居にも程がある。が、居たたまれないこの場から逃れられるのであれば、知ったことか。
三十六計、逃げるに如かず。
最終的に逃げに走る自分が虚しくて、ちょっぴり目尻に滲むものがあった。
だが、そそくさと踵を返したから、バレてはいないはずだ。
「――ねぇ、ちょっと」
バレてはいないはず、だったのだが。
後ろを振り返りきる寸前に視界を掠めた、物凄い勢いでこちらを射抜く、少年の姿は。
「どういうことなの」
なにがどうしたのだと、こちらが問いたいのに、ぐんっ、と腕を引く力は、思いのほか力強くて。
問答無用で振り向かされた至近距離に、夜空が広がった。
深い藍色。爛々と月が輝く、宝石の如き双眸が、そこに。
「泣いてるの」
「な、いてな……」
「嘘。腫れてる」
ずいと詰め寄る顔が、近い。近すぎる。
まともに視線を返してくれなかった綺羅が、どうしてこんな、吐息がふれる程近くにいるのか。
「泣かされたの」
「っ……」
そりゃあ一朝一夕で赤らむものでもなし、先だっての発言が原因でないとすれば、綺羅がそう問うのもわからないではなかった。
けれど、泣き腫らした目尻をなぞる指先に狼狽えてしまい……一瞬の間が、なにを思わせたのだろう。
「――誰に泣かされた」
明らかに、綺羅を取り巻く空気が一変した。
「分を弁えぬ身の程知らずは誰だ。言え」
知らない。
地底に響くような低音も。容赦なく畳み掛ける高圧的な口調も。
目前にいる彼が誰なのか、知らない。
だけれども、緋色の猫っ毛が、月を宿した夜空の瞳が、その面影を、雨宮 綺羅のそれと結びつける。
違うのだと、断じて泣かされたわけではないのだと訴えたくとも、口が動かない。
いまこの身を襲うものが殺気だとするなら、電流のようだ、と鈍い思考回路で理解した。
びりびりと肌を駆け巡り、四肢の末端まで麻痺させてしまうような。
自分に向けられた感情ではないのに、穂花の肩はひとりでに怯え出す。
おそろしい、と。
「ッ……」
穂花の震えを目の当たりにした刹那、覆い被さった影が飛び退く。
突然の解放感。そろりと視線をやった先に、己の手のひらを凝視する綺羅の姿を認めた。
それから「はぁああ……」とやたら長いため息が吐き出されるのは、すぐだった。
「あっぶな……うっかりいつもの癖が」
「……えっと?」
「なんでも」
なにやら独り言を口走ったのち、簡潔に結んだ綺羅は、普段のすました態度を取り戻している。
「色々面倒だから、理由はあえてスルーしとくけど、葦原さんさ」
「は、はい!」
「あんまほっつき歩かないほうがいいと思うよ。特にそういう顔では」
「そういう……?」
「あーはい、やっぱり無自覚ね。そういう、しおらしく落ち込んでるとこ。女の泣き顔って、分別のない野郎共の格好の餌だから。食われたいなら話は別だけど」
「食われたい!? ないないない! そんな願望微塵もありませんっ!」
「だったら早いとこ帰りなよ。それか、後学のためにあえて僕がやってあげよっか、送り狼」
「後学ってなに? 雨宮くんは私になにを学ばせようとしてるの!?」
いつになく饒舌ゆえ、からかわれているのかと思ったりもしたが、肝心の綺羅は真顔だ。
いつも通りの、雲のような掴みにくさ。これには冗談なのか本気なのか、量りかねてしまう。
「なにって、危機感」
「あの、これでも人並みにはありますけど……っていうか、私が万が一ドジしても、雨宮くんにはなんのメリットもデメリットもないんじゃ?」
「さてね」
「でしょでしょ! ……えっ?」
てっきり「そうだね」と簡潔な返事を食らうと踏んでいた穂花だけに、その返しは予想外だった。
否定しない。つまり、メリットないしはデメリットがあるということ。
では穂花に危機感を覚えさせることは、綺羅にとってメリットであるのか、それとも、デメリットであるのか。
残念ながら、そこまではわからないけれど。
「……雨宮くんって、いい人なんだね」
「なんでそんな結論に至るわけ」
「女の子なんだから気をつけろって、紳士の考え方だと思うのですが」
「……お気楽なもんだね」
ふいと顔を逸らされて、はたと気づく。
綺羅がそれまで、向かい合って話を聞いてくれていたことに。
泣き腫らしたあとに気づいてくれたり、暗い夜道でもないのに、帰りを心配してくれたり。
素っ気ない言動から綺羅の真意を取り出してみれば、その実、穂花を気にかけるものがほとんどだった。
嫌われてはいないのかな、と思うだけで、驚くくらいに心が軽くなる。
「変わらないね、きみ」
「うん……?」
ふいの呟きは、そよ風に吹かれる。
変わらない、だなんて、まるで、変わってゆけるほど昔から、自分を見守ってきたような言い方をして――
「甘やかしていいものなら、僕は、とっくに――……」
緋色の髪をしばし風に躍らせた少年は、おもむろに向き直る。
真っ直ぐに見つめられて、藍色の瞳に宿る光が、どこか懐かしい温度を持ち始めたような、そんな気がして。
「穂花!」
吸い込まれてしまいそうなひとときから、聞き慣れた呼び声が、穂花を引き戻した。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
11
1 / 3
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる