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本編
きらめく藍の空㈠
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ひとしきり胸の内を吐露すれば、見違えたように気持ちが軽くなった。
安堵した次にやってくるのは、気恥ずかしさ。
ろくに真知の顔を見れず、すぐに戻るからとだけ言い残して最寄りの公衆トイレへと駆け込むこと、しばらく。
「ちょっとはマシになったかな……」
泣き腫らした目許をハンカチで拭い、蛇口のセンサーから手を離す。
落ち着くまで自分が隠してやると、やけに乗り気な真知だったが、どこぞのバカップルよろしく人目もはばからず抱き合って、あまつさえよしよしと宥められるだなんて、穂花には難易度が高すぎた。
冷やした目許の赤みも、だいぶ薄れてきたことだ。あとは待ち人のもとへ戻るのみ。
歩み出そうとしたまさにその先に、さらり、さらり。鮮やかな緋色。
歩を進める度に揺れる猫っ毛の持ち主は、顔を見ずとも思い当たった。
「雨宮くん……?」
穂花の呟きが綺羅に届くことはない。
首を前に倒し、ひどく緩慢に歩む後ろ姿が周囲に一切の意識を向けていないことは、一目瞭然であった。
なにやら集中しているようだが、視線を落とした手許になにがあるのかは、残念ながら背に隠れて見えず。
「……って、なにジロジロ見てるの、私!」
綺羅だってごく普通の一般市民なのだから、公園にも来るだろう。
思いがけない遭遇に驚き、何故だろうかと素朴な疑問を抱きはしても、不躾に話しかける勇気など持ち合わせていない。
そもそも、ひと言ふた言会話した程度で、馴れ馴れしすぎやしないか。
そこまで思い至って、コミュニケーション能力の低さを痛感し肩を落とす。
折角真知に励まされたのだ、落ち込んでばかりもいられない。
気を取り直して歩み出そうとするも。
「まってぇ~!」
「きゃはは~! こっちこっち……わぁ!」
――まったく予測不可能な展開を引き連れてやってくる。それが、子供である。
具体的に説明するなら、元気にサッカーボールを蹴り回していた男児のひとりが、なにもないところでつまずいた。
その拍子に地面を離れたサッカーボールは、勢いよく宙を舞い。
「雨宮くんっ、あぶな――!」
考えるより先に声が出た。
しかし、言葉は最後まで紡がれない。
ぱしり、と乾いた音。
なにが起こったのか、わからなくて。
サッカーボールが地面を弾む音で我に返ったとき、すべては決着していた。
「元気なもんだね」
綺羅の姿は、地面のそば近くにあった。片膝をつき、男児を抱き留めるかたちで。
サッカーボールは、完璧な死角から綺羅の横っ面を直撃しようとしていたはず。
それを、まさか。
叩き払うだけに留まらず、転倒寸前の男児を抱き留めてみせるなどと。
「えっと……ごめんなさい。ちゃんと、まえ、みてなくて」
「はい、素直に謝るのはいいことです」
助けられた本人も、追いついてきたもうひとりの男児も、呆けたように綺羅を見上げている。
穂花に至っては、混乱の極みだった。
だって、あの、表情をピクリとも動かさず、顔すら合わせてくれなかった綺羅が、頬笑みを浮かべているのだ。
男児の頭を撫でる手は優しく、声音は幼稚園の先生のようにやわらかい。
さながら、顔が同じ別人でも見ているかのような気分だった。
「あっ……! おにいちゃん、それ……!」
綺羅の肩の向こうを見やった男児が、見る間に顔色を失くしてゆく。
潤む視線の先にあるのは、一冊の本のように見受けられたが。
「あぁ。平気」
男児とは対照的に、綺羅はさして気にした様子もなかった。
投げ出された文庫サイズのそれを拾い、簡単に砂を払うと、ショルダーバッグの中へしまい込む。
「折り目とかついてないし、大丈夫でしょ」
「でも、よごれちゃった」
「お兄さんが大丈夫って言ってるんだから、大丈夫なんです」
「あぅ」
「あははっ! 大福みたいだね。ふにふに」
男児の両頬をむにゅっと摘まんだ綺羅が、高らかに笑い声を漏らす。
これには夢でも見ているのかと、いよいよ本気で考えさせられてしまう。
「今度は気をつけて、また元気に遊んでおいで」
「ありがとう、おにいちゃん!」
「どういたしまして」
ダメ押しとばかりに男児の頭をもうひと撫でし、駆けてゆくちいさな影たちを見送る横顔の穏やかさは、三度見したとて相も変わらず。
こうして衝撃的な光景との遭遇は、一から十まで、衝撃的なまま幕を下ろしたのだった。
「で、僕になんか用でもあるの?」
「……へっ?」
「きみに訊いてるんだけど。葦原さん」
綺羅の後頭部には、第3の目なるものがあるのかもしれない。そしてその視力はとてつもなく良い。
だからこそサッカーボールを避けることができたし、ほかにも名も知らぬ一般市民が多数行き交うこの場所において、自分だけを目敏く捉えることができたのだ、と突拍子もない思考をする程度には、混乱していた。
「えーっと……用というか、こんなところで雨宮くんに会うなんて、偶然だなぁって思って」
「あぁ、そう」
会話終了。呆気のない幕引きであった。
落胆と同時に、彼はたしかに雨宮 綺羅なのだと、納得してもいた。
先程の男児に対する穏やかさは見る影もなく、いつものように、合わさることのない視線。
言いたいことがあるのならば、はっきり言えと、クラスで女子との一件があった日に告げられたではないか。
もしかすれば、綺羅は曖昧な人間が好かないのかもしれない。
だとするなら、自分は見事その分類に当てはまる。
第一印象からして最悪評価の自分に、返事は寄越してくれるのだから、素っ気ないと悲しむ以前に、むしろ喜ぶべきではないのだろうか。
――ありがとう、こんな私に構ってくれて。ごめんなさい、手の施しようのない根暗ぼっちで。
安堵した次にやってくるのは、気恥ずかしさ。
ろくに真知の顔を見れず、すぐに戻るからとだけ言い残して最寄りの公衆トイレへと駆け込むこと、しばらく。
「ちょっとはマシになったかな……」
泣き腫らした目許をハンカチで拭い、蛇口のセンサーから手を離す。
落ち着くまで自分が隠してやると、やけに乗り気な真知だったが、どこぞのバカップルよろしく人目もはばからず抱き合って、あまつさえよしよしと宥められるだなんて、穂花には難易度が高すぎた。
冷やした目許の赤みも、だいぶ薄れてきたことだ。あとは待ち人のもとへ戻るのみ。
歩み出そうとしたまさにその先に、さらり、さらり。鮮やかな緋色。
歩を進める度に揺れる猫っ毛の持ち主は、顔を見ずとも思い当たった。
「雨宮くん……?」
穂花の呟きが綺羅に届くことはない。
首を前に倒し、ひどく緩慢に歩む後ろ姿が周囲に一切の意識を向けていないことは、一目瞭然であった。
なにやら集中しているようだが、視線を落とした手許になにがあるのかは、残念ながら背に隠れて見えず。
「……って、なにジロジロ見てるの、私!」
綺羅だってごく普通の一般市民なのだから、公園にも来るだろう。
思いがけない遭遇に驚き、何故だろうかと素朴な疑問を抱きはしても、不躾に話しかける勇気など持ち合わせていない。
そもそも、ひと言ふた言会話した程度で、馴れ馴れしすぎやしないか。
そこまで思い至って、コミュニケーション能力の低さを痛感し肩を落とす。
折角真知に励まされたのだ、落ち込んでばかりもいられない。
気を取り直して歩み出そうとするも。
「まってぇ~!」
「きゃはは~! こっちこっち……わぁ!」
――まったく予測不可能な展開を引き連れてやってくる。それが、子供である。
具体的に説明するなら、元気にサッカーボールを蹴り回していた男児のひとりが、なにもないところでつまずいた。
その拍子に地面を離れたサッカーボールは、勢いよく宙を舞い。
「雨宮くんっ、あぶな――!」
考えるより先に声が出た。
しかし、言葉は最後まで紡がれない。
ぱしり、と乾いた音。
なにが起こったのか、わからなくて。
サッカーボールが地面を弾む音で我に返ったとき、すべては決着していた。
「元気なもんだね」
綺羅の姿は、地面のそば近くにあった。片膝をつき、男児を抱き留めるかたちで。
サッカーボールは、完璧な死角から綺羅の横っ面を直撃しようとしていたはず。
それを、まさか。
叩き払うだけに留まらず、転倒寸前の男児を抱き留めてみせるなどと。
「えっと……ごめんなさい。ちゃんと、まえ、みてなくて」
「はい、素直に謝るのはいいことです」
助けられた本人も、追いついてきたもうひとりの男児も、呆けたように綺羅を見上げている。
穂花に至っては、混乱の極みだった。
だって、あの、表情をピクリとも動かさず、顔すら合わせてくれなかった綺羅が、頬笑みを浮かべているのだ。
男児の頭を撫でる手は優しく、声音は幼稚園の先生のようにやわらかい。
さながら、顔が同じ別人でも見ているかのような気分だった。
「あっ……! おにいちゃん、それ……!」
綺羅の肩の向こうを見やった男児が、見る間に顔色を失くしてゆく。
潤む視線の先にあるのは、一冊の本のように見受けられたが。
「あぁ。平気」
男児とは対照的に、綺羅はさして気にした様子もなかった。
投げ出された文庫サイズのそれを拾い、簡単に砂を払うと、ショルダーバッグの中へしまい込む。
「折り目とかついてないし、大丈夫でしょ」
「でも、よごれちゃった」
「お兄さんが大丈夫って言ってるんだから、大丈夫なんです」
「あぅ」
「あははっ! 大福みたいだね。ふにふに」
男児の両頬をむにゅっと摘まんだ綺羅が、高らかに笑い声を漏らす。
これには夢でも見ているのかと、いよいよ本気で考えさせられてしまう。
「今度は気をつけて、また元気に遊んでおいで」
「ありがとう、おにいちゃん!」
「どういたしまして」
ダメ押しとばかりに男児の頭をもうひと撫でし、駆けてゆくちいさな影たちを見送る横顔の穏やかさは、三度見したとて相も変わらず。
こうして衝撃的な光景との遭遇は、一から十まで、衝撃的なまま幕を下ろしたのだった。
「で、僕になんか用でもあるの?」
「……へっ?」
「きみに訊いてるんだけど。葦原さん」
綺羅の後頭部には、第3の目なるものがあるのかもしれない。そしてその視力はとてつもなく良い。
だからこそサッカーボールを避けることができたし、ほかにも名も知らぬ一般市民が多数行き交うこの場所において、自分だけを目敏く捉えることができたのだ、と突拍子もない思考をする程度には、混乱していた。
「えーっと……用というか、こんなところで雨宮くんに会うなんて、偶然だなぁって思って」
「あぁ、そう」
会話終了。呆気のない幕引きであった。
落胆と同時に、彼はたしかに雨宮 綺羅なのだと、納得してもいた。
先程の男児に対する穏やかさは見る影もなく、いつものように、合わさることのない視線。
言いたいことがあるのならば、はっきり言えと、クラスで女子との一件があった日に告げられたではないか。
もしかすれば、綺羅は曖昧な人間が好かないのかもしれない。
だとするなら、自分は見事その分類に当てはまる。
第一印象からして最悪評価の自分に、返事は寄越してくれるのだから、素っ気ないと悲しむ以前に、むしろ喜ぶべきではないのだろうか。
――ありがとう、こんな私に構ってくれて。ごめんなさい、手の施しようのない根暗ぼっちで。
応援ありがとうございます!
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