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本編

水垂れ咲く㈢

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「えっとね、雨宮あめみやくんは、私のクラスメイトでね!」

 今日、突然に穂花ほのかの前へ現れた彼は、流れ雲のように掴みどころのない少年であった。
 下の名前は綺羅きら。身体が弱く、入学当初から休みがちであったらしい。休みがち、というのは、まったく登校していなかったわけではない事実を、暗に示している。

 そもそも、自分の隣席が不自然に空いていれば疑問に思いそうなものを。友のいない高校生活というものに、それほどいっぱいいっぱいだったのか。
 自分だけ取り残されたような昼休みの喧騒で、しかしひとつだけわかったことがある。

 おずおずと質問を投げかけた穂花に身の上話を述べたのは、ほかでもない綺羅自身であった。
 淡々と素っ気ない調子だけれど、穂花の言葉を遮ることはしない。必ず返答をする。

 先の女子生徒との間に割り入ってくれたこともある、もしかすれば、そんなに怖い人ではないのかもしれない。それが、第一印象に次ぐ綺羅の印象であった。
 頬杖をついて曇りガラスに視線を置いたまま、ついぞ、顔を合わせてくれることはなかったけれど。

「その雨宮という彼が、穂花の御心を砕いたのでしょうか」
「へっ? いやっ、ほんと変な意味じゃなくてね!? あんまり話したことないし、単純に綺麗な子だなって思っただけだから!」

 両手を振り、躍起になって否定している時点で、サクヤに核心をつかれているわけなのだが……穂花自身、どうして綺羅のことが思い浮かんだのか、見当もつかない。

「……これは、私の独り言なのですが」
「うん……?」
「いま穂花と話しているのは私なのですから、あまり妬かせないでください……」

 伏せられた横顔は、さらりと滑った菫色の絹髪に隠されて、窺うことはできない。
 自分はどうやら、また間違えたらしい。
 サクヤは優しいからと、甘えすぎた。

 しばしの沈黙が下り、その合間に食器の洗浄が済む。
 しかし穂花が口を挟む間もなく水分を拭き取られ、サクヤによって棚へしまわれてゆく。

「穂花」

 名を呼ばれても、申し訳なさから顔を上げられそうにない。
 俯く左の頬に、それでも添えられるぬくもりがある。

「穂花、私は怒ってはいませんよ。少し、寂しいだけなんです」
「え……」

 思いのほか優しい声音に、引き寄せられる。菫の瞳が、自分だけを映している。

「今宵は兄上もあおも戻らないかもしれませんから、僭越ながら、ご厄介になりますね」

 それは、つまり。
 ほかに誰もいないこの家で、サクヤとふたりきりということで。

「穂花。いっしょに、湯浴みをしましょうか」

 つまり、是非はすべて、己の一言に委ねられていることにほかならない。
 嫌だ、恥ずかしいと、即座に返さなかったときすでに、勝敗は決まっていたのだろう。

 ――吹きすさぶ雨夜。
 荒れ狂う風の声が、どこか遠くに在る。
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