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本編
水垂れ咲く㈠
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あと少し。もう少し。
たっぷり十を数えて、白く煙る湯気の中へおたまを投入。
小皿に取った出汁をひと思いに煽れば、熱いくらいのそれが、するりと喉を滑り落ちる。
後を追うように、味蕾という味蕾を刺激した旨味が広がり、じんわりと芯から温まる感覚に、穂花は唸りにも似た感嘆を漏らす。
「うん、完璧。煮込んだだけですけど」
さすが我が葦原家にて、永久食事当番に名乗りを上げている紅お手製料理である。
帰宅した穂花を出迎えたのは、異様な静寂だった。そういえば、今日の帰りは遅くなるやもしれないと、紅が話していたことを思い出す。
制服から部屋着に着替え、ひとまず向かった居間の食卓には、案の定書き置きがあった。
一体いつの時代のものかと問いたくなるミミズのような墨文字が、さらさらと並んでいる。
読めるわけがない。ただ、達筆であることは雰囲気でわかる。
現代女子高生へ足を突っ込んだばかりの穂花に解読できるはずがないのだが、不思議なことに、その文面へ指先をふれさせると、視界から得た文字が脳内で変換されるのだ。
〝夕餉の下拵えは済ませてありますので、よく温めてお召し上がりくださいませ。食後の甘味もご用意してございます〟
そうして、神様はなんでもありだなぁと苦笑しながら、台所へと赴いた次第だ。
苦などあろうはずもなく、おしまいにコンロの火を消した静けさに、ふと強くなった雨風の音が耳に届く。
外とを隔てている玄関の引き戸が、開けられたらしかった。
紅が帰ってきたのだろうか。
手早く洗った手指の水分をハンドタオルで拭き取り、台所を後にする。
「穂花!」
だけれど、暖簾を潜るやいなや穂花を絡め取ったのは、華奢ながらも、彼の神よりも上背のある影であった。
「わっ……どうしたの、さく!」
「それは私の台詞ですよ。放課後はいつも保健室に寄ってくださるのに、今日は〝先に帰る〟との連絡だけ……なにかあったのかと、心配したんですよ」
苦しいほどに自分を掻き抱くのは、麗しき美青年だ。勤務が終わったその足で、真っ先に駆けつけたと見える。
朔馬として人間社会を生きるサクヤは、仕事をする上でも必要不可欠な文明の利器を使いこなしている。
真知同様に連絡先を交換したのは、当然の流れでもあった。
あんなことがあった直後だ、何食わぬ顔で保健室を訪問するのも気が引けて、当たり障りのない一言をトーク画面に送信したのだが、やはり役者不足は否定できなかったらしい。
「ご気分が優れないのですか? 私に遠慮など不要なのですから、なんでもお申しつけ頂ければ……」
「だ、大丈夫大丈夫! 私は元気いっぱい! ほらっ、こんな天気だしね、あんまり遅くなると駄目だって、紅さんからも言われてますからねっ!」
それらしい理由を並べ立て、表情筋を総動員して浮かべた笑みでサクヤの胸を押し返す。
嘘は言っていない。訊かれないために多くを語らないだけで。
「……兄上はまだお戻りではないのですか? 蒼は?」
穂花の言葉を咀嚼し、平静を取り戻したか。一通り辺りを見回したサクヤが、潜めた声音で問うてくる。
神体のときと変わらぬ菫の双眸に、ともすればすべてを見透かされてしまいそうで。
「やっぱり遅くなるみたい。天気も崩れてきたし、心配だからちょっと様子見てくるって、蒼が」
「穂花をひとり残して?」
「なにかあったらすぐ呼んでねって言ってたし、そもそも家にいる限り安全じゃないかな。まちくんが結界張ってくれてるし!」
なんでも、むやみやたら神気を垂れ流せば、疲弊するだけでなく、甘い蜜に誘われた魑魅魍魎が押し寄せてきたりと、至極面倒くさいらしい。
説教のような口調で、声音は優しく、懇切丁寧に教えてもらった。
かくして術の扱いに長けた真知が、神気の扱いに慣れない穂花のため、この家全体を覆う結界を張ったのは、記憶に新しい。
「家にひとりなのは、怖くないけど、寂しいからさ、まぁその……さくが来てくれたのは嬉しかったかな。せっかくだから、いっしょにご飯食べようよ。ちょうど準備できたところなの! 今夜は紅特製水炊きだよ、あったまるよ~!」
「……そうですね。ごいっしょさせて頂きましょう」
紅の手料理だからか。それとも、穂花をひとり残して帰ることが躊躇われたか。
きっとどちらもだろう。
姿は違えど桜の神。ふわりとほころんだ笑顔の蕾は、乙女の視線を奪うものとして、充分すぎた。
たっぷり十を数えて、白く煙る湯気の中へおたまを投入。
小皿に取った出汁をひと思いに煽れば、熱いくらいのそれが、するりと喉を滑り落ちる。
後を追うように、味蕾という味蕾を刺激した旨味が広がり、じんわりと芯から温まる感覚に、穂花は唸りにも似た感嘆を漏らす。
「うん、完璧。煮込んだだけですけど」
さすが我が葦原家にて、永久食事当番に名乗りを上げている紅お手製料理である。
帰宅した穂花を出迎えたのは、異様な静寂だった。そういえば、今日の帰りは遅くなるやもしれないと、紅が話していたことを思い出す。
制服から部屋着に着替え、ひとまず向かった居間の食卓には、案の定書き置きがあった。
一体いつの時代のものかと問いたくなるミミズのような墨文字が、さらさらと並んでいる。
読めるわけがない。ただ、達筆であることは雰囲気でわかる。
現代女子高生へ足を突っ込んだばかりの穂花に解読できるはずがないのだが、不思議なことに、その文面へ指先をふれさせると、視界から得た文字が脳内で変換されるのだ。
〝夕餉の下拵えは済ませてありますので、よく温めてお召し上がりくださいませ。食後の甘味もご用意してございます〟
そうして、神様はなんでもありだなぁと苦笑しながら、台所へと赴いた次第だ。
苦などあろうはずもなく、おしまいにコンロの火を消した静けさに、ふと強くなった雨風の音が耳に届く。
外とを隔てている玄関の引き戸が、開けられたらしかった。
紅が帰ってきたのだろうか。
手早く洗った手指の水分をハンドタオルで拭き取り、台所を後にする。
「穂花!」
だけれど、暖簾を潜るやいなや穂花を絡め取ったのは、華奢ながらも、彼の神よりも上背のある影であった。
「わっ……どうしたの、さく!」
「それは私の台詞ですよ。放課後はいつも保健室に寄ってくださるのに、今日は〝先に帰る〟との連絡だけ……なにかあったのかと、心配したんですよ」
苦しいほどに自分を掻き抱くのは、麗しき美青年だ。勤務が終わったその足で、真っ先に駆けつけたと見える。
朔馬として人間社会を生きるサクヤは、仕事をする上でも必要不可欠な文明の利器を使いこなしている。
真知同様に連絡先を交換したのは、当然の流れでもあった。
あんなことがあった直後だ、何食わぬ顔で保健室を訪問するのも気が引けて、当たり障りのない一言をトーク画面に送信したのだが、やはり役者不足は否定できなかったらしい。
「ご気分が優れないのですか? 私に遠慮など不要なのですから、なんでもお申しつけ頂ければ……」
「だ、大丈夫大丈夫! 私は元気いっぱい! ほらっ、こんな天気だしね、あんまり遅くなると駄目だって、紅さんからも言われてますからねっ!」
それらしい理由を並べ立て、表情筋を総動員して浮かべた笑みでサクヤの胸を押し返す。
嘘は言っていない。訊かれないために多くを語らないだけで。
「……兄上はまだお戻りではないのですか? 蒼は?」
穂花の言葉を咀嚼し、平静を取り戻したか。一通り辺りを見回したサクヤが、潜めた声音で問うてくる。
神体のときと変わらぬ菫の双眸に、ともすればすべてを見透かされてしまいそうで。
「やっぱり遅くなるみたい。天気も崩れてきたし、心配だからちょっと様子見てくるって、蒼が」
「穂花をひとり残して?」
「なにかあったらすぐ呼んでねって言ってたし、そもそも家にいる限り安全じゃないかな。まちくんが結界張ってくれてるし!」
なんでも、むやみやたら神気を垂れ流せば、疲弊するだけでなく、甘い蜜に誘われた魑魅魍魎が押し寄せてきたりと、至極面倒くさいらしい。
説教のような口調で、声音は優しく、懇切丁寧に教えてもらった。
かくして術の扱いに長けた真知が、神気の扱いに慣れない穂花のため、この家全体を覆う結界を張ったのは、記憶に新しい。
「家にひとりなのは、怖くないけど、寂しいからさ、まぁその……さくが来てくれたのは嬉しかったかな。せっかくだから、いっしょにご飯食べようよ。ちょうど準備できたところなの! 今夜は紅特製水炊きだよ、あったまるよ~!」
「……そうですね。ごいっしょさせて頂きましょう」
紅の手料理だからか。それとも、穂花をひとり残して帰ることが躊躇われたか。
きっとどちらもだろう。
姿は違えど桜の神。ふわりとほころんだ笑顔の蕾は、乙女の視線を奪うものとして、充分すぎた。
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