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本編

届かぬ喚び声㈠

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「考え事は終いか」

 淡泊な言の葉に、意識を引き戻される。
 上座にて、ひと言投げかけるのみでこちらを一瞥いちべつすらしない真知まちが、茶をすすっていた。
 もともと、話に花が咲くような気の置けない仲ではない。
 居間に二柱残されてからは、こんな仏頂面とにらめっこをするより、かわいらしい妻を愛でるほうが有意義だと、自分の世界に入り込んだべにであったが……

「……よりにもよって、どうしてあのことを思い出すのか」
「いま最高に不細工な面してるぞ、おまえ」
「それはご忠告どうも」

 いつもならば文句のひとつやふたつおまけしてやるのだが、その気力すら、いまの紅は惜しかった。
 しばしの間物思いにふけっていただけであるのに、悪夢を見たように心の臓がさわぎ、すこぶる気分が悪い。
 未練でも在るというのか。
 たしかに、何千年も何千年も、彼女だけを想っていた。
 だが、嫉妬に狂い、堕ちた己を救ってくれたのは、彼女の魂を宿しただけの、葦原穂花あしはらほのかという少女だ。
 神というには平凡で、よく笑い、いっしょになって泣いてくれる少女が、いつしか紅にとっての唯一無二となった。

「穂花は……わたし共には勿体ないですな」

 わたし「共」とひと括りにされ、真知とて異議申し立てがなかったわけではない。
 が、虚空をさまよう感傷的な紅玉に、湯飲みの底を卓上に押しつけるだけで留まる。

「わたしにとって、穂花のすべては是です。あの方がなさること、望まれることに、否などという選択肢は存在しない」

 紅は独白する。行儀よく膝の上でそろえた手で、紺青の裾を握りしめながら。

「ですが穂花は……存在自体が是です。欲にまみれたわたしの罪でさえ、穂花の前ではたやすく赦されてしまう」

 つと、真知は鼈甲の視線のみを紅にやる。
 そうして気づく。うつむいた華奢な神の肩を、いまにも押し潰さんとするものに。

「弟を殺し続けたわたしが、赦される筈がない……では、此処に在る幸福はなんなのでしょうか?」

 そ……と左手がふれたまぶたの下に在るは、紅蓮。血に染まった瞳。
 父に施された呪い。彼女に褒められた誇り。

「穢れたわたしが愛しても良いのか……時折、わからなくなるのです」
「……まぁ、あいつの底なしな優しさにはしょっちゅう困らされてるし、心配なとこでもあるがな」

 真知が同意を示すのは同然のことだ。
 高天原たかまがはらに誘拐した挙げ句、無理やり犯した自分を責めるどころか、変わらずそばにいることを赦してくれたのだから。
 白菊が咲いたことで――もう伯父ではなく、夫として。
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