おやばと

はーこ

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*6* いかないで

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 耳に届いたのは、ぼやけた振り子の音だった。

 チク、タク……チク、タク。

 いぐさの香り。天井の木目。
 ここは、どこだろう。すぐには思い至らない。

 クルックゥ、クルックゥ!

 木製の扉から飛び出した鳩が、思考の海底に深く沈んだ意識を引きあげる。
 脊髄反射で上体を起こすのは、きっと当然のことだったろう。

「ややっ、お目覚めですか? おはようございまーっす! いいお天気ですね! なんちゃって」

 からころ。硝子玉を転がしたような、ふいの高い声音。
 淡い朝陽の射す鴨居の向こう側で、障子に片手をかけた少女がひとり、はにかんでいた。

 広げたすきまから身体をすべり込ませ、体重を感じさせない足取りでやってきたその子は、水平に抱え込んでいた右腕のお盆を畳に下ろす。
 湿らせた手拭いと、プラスチック製の水差しと、コップがひとつ、載せられていた。

「安心してくださいね。ここ、悪の組織の根城とかじゃないんで。ただのしがない古民家なんで。のど渇いてないですか? お水ここに置いときますね。ご飯は食べられそうです? 持ってきましょうか! ってうわっとぉ!?」

 言うだけ言って、どこかへ行こうとするから。
 残酷なほどの静けさの中へ、また放り出されるくらいならと、防衛本能が働いたんだろう。
 だから……力任せに腕を引いてしまったのは、仕方がないことだと、許してほしい。

「……いかないで」

「あのう?」

「ここにいて……くだ、さい」

「えと、りょーかい、です?」

 少女はこくりとうなずくと、畳の縁から退き、布団の脇にちょこんと座り直す。

「きみ、は……」

「わたし? あっ、わたしはですね」

「はとこさん、でしたっけ」

「そうですそうです! 覚えてもらえてて、よかった! えーっと、お兄さんは、」

「ごめんなさい……わからなくて」

「はは、やっぱり、ですよねぇー」

「……〝やっぱり〟?」

 名前をきき返される文脈で、わからない、と答えた。
 そんなことあるはずないのに、彼女は別段驚いた様子もなく、苦笑を返すだけ。

「わたしも話でしか聞いたことなかったんで、半信半疑だったんです。けど、色々と心当たりがあるんで、たぶんそうなんじゃないかと」

「なにが……ですか?」

 核心を問えば、こほん、と咳払いがひとつ。
 それから背筋を張った少女が、黒目がちな瞳に、真摯な色をまとわせた。

「キミにタチの悪いいたずらを仕掛けたのは、記憶喪失をはじめとした様々な症状をもたらす、困ったさんだ。まぁ疾患というものは、総じて厄介者だがね」

 でも続きをつむいだのは、予想していた硝子の音色じゃない。深みのあるバリトン。
 引き寄せられるようにふり返った入り口で、いつからだろう、開いたままの障子に男性がもたれていた。50代くらいの。

「その疾患のことを、我々はこう呼んでいる。〝ひなどり症候群〟――とね」

 ひなどり、しょうこうぐん。

 告げられたと思われる単語を、脳内で復唱してみた。
 ろくに酸素の行き届いていないか細い思考回では、詰まってしまって、うまく運べなくて。

「フッ……決まった」

「あれぇ? よりさんだ。朝早いね、おはよ~。回覧板かな?」

「ふはは、そうだよ、はとちゃん。回覧板だ。そうなんだけど、そうじゃないんだよ、おはよう」

 白髪混じりのオールバックを、得意気にこめかみへなでつける男性。
 のんびりと手を振る少女の言葉に、頬を引きつらせたかと思えば、クワッと目を見開く。

「空から女の子ならぬ、地面に男の子が落ちていたと聞き及び、この私、みんなのスーパーダンディーが、颯爽と村役場から駆けつけた次第でッ!」

「俺は、病気なんですか……」

「ンンッ! キミも聞いちゃいないねェ!」

 ……いけない。色んなことが一気にありすぎて、いっぱいいっぱいになっていた。
 額に手のひらを当てて「Oh……」と天井をあおぐ男性に失礼な態度を取ってしまったことだけは、間違いない。

「すみません、えっと……」

「頼さんはね、うちのご近所さんで、村長さんなんですよ!」

 言葉に詰まる俺へ、にこにこと投下されたのは、それなりの威力を持った爆弾。

「オッホン、そういうことだ。我が蛍灯村けいとうむらへ、ようこそいらっしゃい、見知らぬキミ。私が村長の古庄こしょう 頼光よりみつだ。よろしくどうぞ」

「……けいとう、むら」

 打って変わって、意気揚々と差し出された右手を、半ば条件反射で握り返す。
 痩身の節くれだった指先に反した力強さが、曖昧な俺をしっかりとつかんで、はなさなかった。
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