【完結】ユキイロノセカイ

はーこ

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本編

*8* ユキとセツ

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「あんの野郎、呪う呪う呪う……」

 圧死寸前、命からがら脱出したあたし。これから講義だと言う野郎を蹴っ飛ばし、いつもの噴水広場へと走ってきた。

 あ、ユキちゃーん、遅いよー!

 いち早くあたしを見つけてふわりと浮かぶ笑顔は、なくて。

「……セツ?」

 巨大オブジェに回り込んでみたりもしたけど、ダメで。
 クリスマスカラーのタータンチェック。ふわふわな墨色。
 くりっとしたチョコレート色……ちがう、あの人もちがう。

「セツ……っ」

 すれちがう人々の中であたしを気にかける者は、誰ひとりとしていない。
 胸に、形容しがたい不安がはびこる。

「はーい、お呼びですかー?」

 数拍遅れで耳に届いた声。
 振り返る。セツは、そこにいた。雪にまみれたジーンズの膝を払って、のんきに笑って。
 なんだ、しゃがみ込んでたの。それで見えないとか、どんだけ……

「このバカ!」
「えっ? どうしたの、ぼくなにかした?」
「探させんな! いつもみたいに座ってヘラヘラしてろ、バカッ!」

 ……バカなのはあたしだ。銅像じゃあるまいし、セツだって歩くだろう。それをとやかく言う権利なんてないって、わかってる……のに。

「ユキちゃ……わ、顔が真っ赤! 熱でもあるんじゃないの!」
「そういや……朝から妙にテンション上がんなくて、ダルかった気が」
「それ絶対風邪だよー! お家帰ろ、ねっ?」
「……やだ。ダルいし」

 気にしなきゃよかったものを。セツが言うから、歩くのが億劫になってきたじゃないか。

「じゃあせめて、休も? 寄りかかっていいから」

 促され、噴水のレンガに腰を下ろす。
 ダルいことこの上ないし、お言葉に甘えて、隣に座ったセツの右肩へもたれることにする。
 目前にはダッフルコートのミルクティー色。甘くて、あったかくて、なんて。
 一方でセツは、どこかそわそわとライトグレーの寒空を見上げていたけどね。

「雪、積もってるね」
「降ったからな」
「コート貸そっか?」
「慢性冷え症患者は着てろ」
「のど渇いたとかない?」
「バッグに水筒入ってる」
「えっと……」
「このままがいい。すごく、楽……」

 ちいさく呼吸をして、瞳を閉じる。セツが息を呑んだ気がした。

「たとえばだけど。これがものすごい病気の前兆で、ぽっくり逝ったりしないかなぁ……」
「こーら、滅多なこと言わないでよ」
「可能性はあるよ……? あたしの母さん、遺伝性のガンで死んだもん」

 あたしの身体では、いまも次々とガン細胞が作られてる。それでも生きてるのは、やっつけてくれる細胞のほうがたまたま多いから。 
 そう……たまたまなんだ。

「ユキちゃんは、亡くなったお母さんに会いたい?」
「星になりたいかって? どうだろ。代わってあげたかったって気持ちはあるけど」
「……代わってあげたかった?」
「毎日意味もわからず生きてるあたしより、母さんのほうがずっと、生きたかったに決まってんじゃん……」

 少なくとも、記憶の中の母さんは笑ってた。交換がきくなら、あたしの命、さし出したいよ。

「死んじゃうことが、怖くないんだ」
「取り残されること以外に、なにが怖いって言うの。有名な話だけどね、『好き』の反対は『無関心』なんだよ」

 だれから愛情を注がれるわけでもなく、存在意義も知らないまま、群衆の外でひっそり息をするだけ。
 そんなの、生きた屍に等しい。あたしみたいな、ね。

「幸せなんて、いくら探しても見つからない……あたしには無縁のものなんでしょうよ」

 みっともない愚痴は、全部熱に浮かされた女のざれ言。 ごめんねセツ、聞き流していいから……

「ユーキちゃん」
「ん……わ、冷たっ! なにっ?」

 真っ白のふっくらボディに、深緑の細長い耳、つぶらな赤い瞳。
 まんまと隙をつき、手のひらに乗ってきたものがある。

「雪ウサちゃんです」
「……作ったの?」
「せっかくの雪なんだもん、ウズウズしちゃって!」

 ニコニコと、セツが得意げに胸を張る。そりゃあ、すぐ脇に頃合いな材木が自生してますけども。

「……ふ、はは……あははっ!」

 モミの葉とナンテンの実を摘み、雪をかき集める。
 人々は首を縮めながら通りすぎるだけの広場で、せっせと雪遊びをしてるセツ。かわいすぎか。

「なるほど。さっきまでこの子作ってたわけね」
「気に入ってくれた?」
「まーね。でもできれば事前に言ってほしかったかも。すぐ溶け、て……」

 言葉じりが冷気に溶ける。
 そのわけは、少しだけ高い場所からあたしを見つめるチョコレート色の瞳が、ひどく優しげな色を帯びていたから。

「ぼくたちの一生も、雪みたいに儚いものなのかもしれない。でも、だからこそ、ぼくたちは生きるんじゃないかな」

 心に入り込むやわらかい響き。思考は止まり、雪ウサギが手のひらへ溶けゆく。

「人生を1日に例えるなら、ユキちゃんはまだ目が覚めてないんだよ。色々考える前にさ、まず起き上がろう? 寒いけど、カーテン開けたら朝陽が綺麗かもしれないじゃない?」

 ポエマーかってくらい独特な言い回し。真っ先にわかったのは、どうやらエールっぽいぞってこと。
 おもむろに、手袋をはめた右手が頭に添えられる。1回、2回と髪をなでられて。
 勘弁してよ……そんな優しくされたら、あたし。

「大丈夫、きみはきっと幸せになるよ。そういうおまじないがかかってるんだから。ね――ゆきちゃん?」

 ……あたしは、自分の名前が好きじゃなかった。
 佐藤なんてありふれた苗字だし、幸? とんでもない、不幸の間違いじゃないの? って。
 あんなに嫌っていたのに。どうしてセツに呼ばれただけで、目の奥がツンと痛いのか。

「セツ、セツ――せつ
「ふふ、そんなに呼ばなくても、ここにいるよぉ」

 一面に降り積もる白銀のごとく、無垢なきみ。「ぼくもユキ。おそろいですね」と初めて会った日のように笑うから、心が震えるの。

「幸ちゃん、ぼく、きみが喜んでくれて嬉しかったよ。また笑ってほしいなぁ」

 ダッフルコートに押しつけた顔をそっと両手が包み込み、コツン。墨色のクセ毛がふわりと額をかすめた。 
 ったくあんたは、あたしをどんだけ甘やかせば満足すんの。くっつけられた素肌のひやりとした温度にすら、頭が沸騰してるのに。

 鼓動が速くて、呼吸がままならない。休まるどころか、悪化しちゃったじゃん。
 それでもね、あたしの笑顔が雪を嬉しくさせられるんだったら、もうちょっとだけ、甘えてもいいのかな。

 そうだな……とりあえず、この雪ウサギが溶けきってしまうまでは。
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