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第三章『焔魔仙教編』

第二百五十五話 呪縛の枷【前】

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 暗珠アンジュが意識を取り戻してから、二日後の昼下がりのこと。

「面会謝絶だそうです」
「そうかそうか……私、何かしたかなぁ……いや、したか」

 私室で卓の椅子に腰かけた早梅はやめは、黒皇ヘイファンの報告を受け、遠い目をした。

 どうも、暗珠の様子がおかしい。

 早梅が様子を見に行くと、ろくに会話も交わさないうちに「忙しいんでしょう」とか「俺のことは気にしないで、自分の仕事をしてください」と追い返される。
 まだ調子が優れないのかとも心配したが、晴風チンフォンにたずねても、『灼毒しゃくどく』は完全に解毒されているようで、後遺症もないらしい。

(やっぱり、勝手にキスされたのが嫌だったとか!?)

 あれは『千年翠玉せんねんすいぎょく』を摂取させるためで、不可抗力だったのだ。他意もなかった。人工呼吸のようなものだ。
 必死に弁明した早梅だが、なぜか余計に暗珠の機嫌を損ねてしまい、とうとうへやの前で門前払いをされるように。そして現在にいたる。

蒼雲ツァンユンさまが様子を見に行ってくださってるみたいだから、ひとまずは大丈夫かしら?」

 事あるごとに反発する憂炎ユーエンらとは違い、蒼雲は適切な距離感を心得ている。
 なにより、伯父に当たる蒼雲は、暗珠を気遣う気持ちが人一倍強い。
 そっとしておくべきだが、ひとりにしてはいけない。そんな繊細な少年の話し相手に、蒼雲は適任だろう。
 そうとなれば、早梅も後ろ髪を引かれる思いはあるものの、暗珠の言うように『仕事』を片付けることにする。

「失礼いたします」

 折よく、早梅の私室をおとずれる者があった。
 五音ウーオンだ。彼は早梅の前へやってくると、ふだんの笑みをひそめた状態そのままに拱手した。

「お耳にお入れしたいことがございます。少々お時間をいただいてよろしいでしょうか、梅雪メイシェさま」

 ──来たか、と。

 ただならぬ様子の五音に、早梅は手にした茶杯を卓へ置く。

「わかりました。お話は行きながらお聞きしましょう」

 五音はうなずき、「こちらへ」と早梅を先導する。
 椅子から立ち上がった早梅は、ひと知れず胸もとに手をやり、ふところに忍ばせたふくらみをなでる。
 やがて、五音の背に続いて足を踏み出したのだった。


  *  *  *


 早梅が二日ぶりに地下室の倉庫をおとずれたとき、シュンの様子が一変していた。
 椅子に縛りつけられた空鼠そらねず色の髪の男を前にして、チリチリと肌に電流が走るような感覚に見舞われる。

「……は、は……っ」

 迅の呼吸が荒く、浅い。
 もともと五音や六夜リゥイの報告では、迅は尋問にまったく動じないばかりか、食事も摂らず、水の一滴も飲もうとはしなかったという。
 いくら治療がなされたとはいえ、重度の熱傷を負い、満身創痍の身。肉体は限界を迎えていたのだろう。

(残りわずかな内功が、暴走しかけているな)

 類まれなる血功けっこうの使い手であり、内功のあつかいに長けているはずのこの男を、制御不能にさせているものがある。それは──

「梅雪……梅雪、梅雪っ……!」

 うわごとのように、早梅を呼び続ける声。
 つがいを欲するラン族の本能が、暴走しているのだ。

「あまい、におい……欲しい、はやく、はやく……ほしい、よこせ……梅雪、俺の梅雪……はやくあんたを俺によこせぇッ!」

 うつろな翡翠と漆黒の瞳に早梅を映した迅は、興奮しきった様子で身悶えている。

「この野郎……」
「六夜さま、ここは私が」
「何言ってんだよ梅雪ちゃん!」
「六夜」

 早梅に詰め寄ろうとした六夜の肩を、五音がつかむ。
 五音は紫水晶の瞳で、無言のまなざしを六夜へ送る。

「あーもう……わかったよ!」

 手出しは無用だ、という意を、六夜は理解してくれた。

「ありがとうございます、六夜さま、五音さま。私だって、何の考えもなくここへ来たわけではないですから」

 ふたりへほほ笑みかけた早梅は、背をぴんと張り、迅のもとへ歩み寄った。

「梅雪……はぁっ……俺を、焦らしすぎたな……はやくこっちに来いよ……隅々まで、犯してやるから」
「──だれに口を聞いている?」

 欲情を隠しもしない迅を、早梅は一刀両断する。
 瑠璃の瞳を細めた早梅は、その氷のようなまなざしで、拘束された迅を見やった。

「おのれの立場がわかっていないようだな。主人に噛みつく悪い犬には、しつけが必要か」

 射抜くような視線はそのままに、早梅は右手をふところへさし入れる。
 そうして、忍ばせていた香り袋から取り出した孔雀石のような『それ』を、迅の目前へかかげてみせた。

「くはっ! ふはははっ!」

 迅は可笑しくてたまらないといった様子で、笑い声を上げる。

「いいぜ……好きにするといい。あんたの思うやり方で、俺をしつけてくれ……あんたから与えられるものは、痛みでも、毒でも、快楽だからな」

 迅は顎をくいと上げ、余裕の表情だ。
 この期におよんで、獲物を前に舌なめずりをする獣の顔をするとは。

 迅の語りかけに、早梅は応えない。
 一歩、二歩と歩み、冷えきったまなざしで、右腕を伸ばす。
 淡色あわいろの袖からのぞいた白魚のような手で、孔雀石とも見まごう『それ』──『千年翠玉』を、迅の目と鼻の先へ突きつけた。

「あぁ……あまいにおい……うまそうだ」

 すんと鼻を鳴らして、迅が感嘆をもらす。
 熱を帯びた吐息が、早梅の指先にふれた。

「……はぁ……んっ」

 迅は目前にさし出された猛毒の塊を、早梅の指先ごと食《は》んだ。
 熱い舌先になぞられた『千年翠玉』が、たちまちに溶け出す。

「んっ……ふ……はっ……んぅ」

 じゅわりとあふれ出した果汁をこぼすまいとするかのように、迅は溶けゆく『千年翠玉』を舐め上げていた。
 かと思えば、赤い舌をのぞかせながら、早梅の華奢な指先にむしゃぶりつく。
 ちゅぷ、ちゅぷとわざとらしく水音を立てながら舐《ねぶ》るそれが、色を誘う愛撫でないなら、何だというのか。

「はっ……」

 吐息まじりに顔を離す迅。その表情は熱に浮かされており──

「迅」

 快楽に瞳を蕩けさせた迅のほほを包み込んだ早梅は、桃色の唇を迅の耳もとへ寄せ、ささやく。

「飲みなさい」

 ──ごくり。

 迅の喉仏が上下する。
 そのさまを見届けた早梅が、腰を上げた直後。

「──ぐはッ!」

 迅が、口から鮮血をまき散らせた。

「うぐっ……ふ、はっ、はっ……かはぁッ!」

 迅は激しく咳き込み、そのたびに喀血かっけつしている。

「おまえのために用意した『特別製』だ。血が凍てつくような恐怖に襲われ、地獄に墜ちたほうが幸せだとすら思えるだろう」

 早梅は苦しみ悶える迅から視線を外し、きびすを返す。


「迅──今日ここで、死になさい」
 
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