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第三章『焔魔仙教編』

第二百五十三話 業を雪ぐは誰がために

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「殿下のご容態は!?」

 早梅はやめが扉を開け放ったとき、船室にはすでに晴風チンフォンの姿があった。

「きたか梅梅メイメイ。あんまり状況はよろしくねぇな。脈が異様に速い。体温も上がってきやがった」

 検脈をおこなっていた晴風の表情は険しく、早梅の胸はにわかにざわつく。

「う……ぅ……うぁあ……!」
「殿下! これは……」

 早梅はすぐさま、寝台に横たわった暗珠のもとへ駆け寄る。
 暗珠の全身からはとめどなく汗が噴き出ており、苦悶の表情でうめき声を上げている。

「『灼毒しゃくどく』が回りはじめちゃったの……!」
「ここまできたら、夜までもたない……」

 つきっきりで治療に当たっていた碧葉ビーイェ橙蘭チョンランが、瞳いっぱいに涙をため、かぶりを振っている。

「殿下……殿下!」

 八歌バーグェの肩を借り、寝台のそばまでやってきた蒼雲ツァンユンが、枕もとでひざをつく。

「私たちがいます、負けないでください、殿下……!」

 蒼雲は投げ出された暗珠の手を取り、祈るように呼び続ける。

「もはや、一刻の猶予もないということか」
「お父さま……!」

 さわぎを聞きつけ、桃英タオインが駆けつけた。その表情は、いたって冷静なものだ。

梅雪メイシェ
「心得ております」

 迷っている時間などない。
 早梅が取るべき行動は、ひとつしかないのだ。

「急ぎ、『千年翠玉せんねんすいぎょく』を用意しなければ。お父さま、ご指導ねがえますか。私が『千年翠玉』を作ります」

 桃英にゆだねるのではなく、自分が。自分こそが、この手で暗珠を救いたいのだ。
 その一心で、早梅は父を見据えた。

「おまえなら、そのように言うと思った」

 早梅自身に選択をうながした桃英だ。こうなることを、予想していたのだろう。

「うーん、見たところ『灼毒』ってのは、体外から投与された炎功えんこうの暴走に近いって感じか? 機序きじょがわかれば、晴風さんにも考えがあるぜ」

 ひととおり暗珠の容態を確認していた晴風が、にやりといたずらっぽい笑みを浮かべる。
 直後、晴風のまわりでヒュルリと風が吹き、またたく間に冷気で満たされた。
 熱を放散する暗珠の肌に、きらきらとした純白の結晶がとけてゆく。

「どんくらいかかりそうか、桃桃タオタオ
「四半刻もあれば」
「おっしゃ、俺の氷功ひょうこうで食い止めといてやる。行ってこい」

 桃英はうなずき、静かな瑠璃のまなざしで早梅を見やった。

「準備はできている。ついてきなさい」
「承知いたしました。蒼雲さま、殿下のおそばにいてあげてくださいね」
「はい……梅雪さま、どうかよろしくお願いいたします」

 深々と頭を垂れる蒼雲へ、早梅はほほ笑みを返す。

「必ず、救ってみせます」

 そして早梅は、淡色あわいろの裾をひるがえした。


  *  *  *


 ふと気がついたとき、濃い霧の中に、二本足で立ちすくんでいた。

「……なんだここ」

 不機嫌なつぶやきが鼓膜をふるわせる。声変わりをした頃合いの、少年の声だ。

「現場に出た覚えはないぞ、俺」

 クラマは怪訝けげんに思う。
 どこぞのファンタジーな世界なのかもしれないが、これほど悪趣味な仕事を請け負った覚えはない。
 ため息をついたクラマは、試しに受肉した肉体の前腕部分を、右手でつねってみた。痛みはない。

「夢か。ってか幽霊も夢とか見るのかよ」

 現代でいう幽霊は電磁波のごとくぼんやりした存在で、人間のような生体活動をおこなわない。
 そのため夢など見るはずがないと思っていたが、どうやらそれは、数十年越しにかん違いだと判明した。

「ハヤメさーん、います?」

 念のため声をかけてみる。が、呼び声は濃霧の中へ消えるばかりで、いつもののんきな返事がない。

「やっぱり、そう都合よくはいかないか」

 クラマは盛大なため息をつき、ひとまずあたりを散策してみることにした。
 何も見えない。地面を踏みしめる感触だけがある。

「さっさと起きて、次のタスクの確認したいんだけどな。ったく……」

 文句を垂れながら、あてもなく歩き続けることしばらく。ぽう……と、ふいに視界に映り込むものがあった。

「灯りか?」

 橙色の光を目指し、クラマは歩みを進める。
 そのときだ。風が吹き抜け、霧が消え去る。

 クラマはとっさにつむったまぶたを、ゆっくりと押し上げる。とたん、まばゆい夕照せきしょうに視界が埋め尽くされた。
 黄昏時。川がせせらぐ岸辺に、うずくまる人影があった。
 いまだ明順応しないクラマの視力では、その人影の詳細を映すことはできなかった。

「あの、すみません。おたずねしたいことがあるんですが」

 まず、ここがどこであるかを知るべきだろう。
 そうと決まれば、早速行動するのがクラマだ。
 目前の人影に道を訊こうとしたのだが──

「あぁ、だめだ……今日もだめだった」

 クラマが声をかけるより先に、落胆したつぶやきがこぼれた。
 目前の人影は、どうやら若い男のようだ。酷く気落ちしているらしい。

「何がいけないんだろう……うまくいかない」

 ──やべ、訳ありだったか。
 もしかしたら面倒な場面に遭遇したかもしれないと悟るものの、何事もなかったかのように立ち去るほど、クラマも非情にはなりきれなかった。

「えっと……大変そうですね。いろいろあったみたいで」

 そして赤の他人に気の利いた言動ができるほど、器用でもなかった。
 適当に相槌を打つクラマだが、おもむろに目前の男が立ち上がる。

「そうなんだ。俺が何を言っても軽く流して、本気にしてくれない。こんなに好きなのに……」

 なんと、恋に悩める青年だったか。

「ていうか鈍すぎだよ、あのひと。俺の気持ちも知らないでほかの男にヘラヘラ話しかけやがって、ふざけてんのかな」
「あー……」

 詳しい事情はわからないが、彼は鈍感な想い人にヤキモキしているもようだ。となれば、他人事ではないような気がしてきたクラマである。

「いますよね。恋愛そっち方面でドがつく天然なひと。でもぐずぐずしてたら悪い虫がつくんで、さっさと実行に移したほうが絶対いいです。ただでさえ、面倒な犬とか猫とか烏を追い払うので苦労してるのに……」

 何度目かわからないため息をつこうとしたところで、クラマははたと気づく。

「犬、猫、烏……?」

 何を言っているのだろうか。自分の発言の意味を、クラマはすぐに理解できなかった。

「あぁ、そうだよな。このあいだも烏に出し抜かれて、どうにかなりそうだった。俺よりあんな鳥畜生のほうが大事なのかよってな」

 クラマが理解できないのに、男はすんなりと同意を示した。

(……なんだ、これは)

 無性に、胸がざわめく。

「だから俺も、期待するのはやめた。いつか気づいてくれるって、そんなのは夢物語だ。……気づいてくれないなら、気づかせるまで」
「あんた、何を言っ……」

 ビュオウッ!

 突風が吹き抜け、煽られる。
 とっさに踏んばり、転倒は回避できたクラマだが、怪奇現象は続く。

「あなたを、愛しています……いっしょに、地獄に堕ちましょうね……」
「なっ……何してるんだ、あんたッ!」

 いつの間にだろう。
 男の腕の中には、ひとまわりちいさな人影があった。男と同じ黒い服装を身にまとっており、ぐったりとうなだれている。その腹部から、大量の鮮血をあふれさせながら。
 男の手ににぎられた鋭利な刃物が、ぱたぱたと真紅のしずくをしたたらせる。

「ばかなことはやめろ、そのひとを離せ!」
「なぜ止める? これが正解だ、俺は間違っていない」
「ひとを傷つけることが正解だと? ふざけるのもいい加減にしろ!」
「わからない、わからないなぁ……おまえにそんなことを言う権利はないはずだが、クラマ?」
「んなっ……なんで」
「綺麗事を言うのはよせよ。なぁ──暗真くらま
「──ッ!」

 ……何を言っているのだろうか、この男は。

「手に入らないなら、奪え。欲望を制御するな。後悔はしたくないだろう?」
「うるさい、黙れ、俺は……」

 クラマは耳をふさぎ、後ずさる。だが、とんと背にぶつかるものがあり、よろよろとふり返る。
 背後には、長身の男がたたずんでいた。烏の濡れ羽のような髪をしていて、黄金の双眸で、クラマを見下ろしている。

黒皇ヘイファンさん……?」

 思わずつぶやいて、クラマは呆ける。
 黒皇? だれだそれは。
 いや彼は右眼を失っていて……だから、だれなんだ、その男は。

「『それ』はごう。そなたがすすがねばならぬ罪」

 黄金の双眸に捉えられ、クラマは呼吸を忘れる。
 低い声音には、有無を言わさぬ威圧感があった。

「目を背けることは、まかりならぬ。顔を上げよ──松波まつなみ暗真くらま
「あ…………」

 濡れ羽髪の男が漆黒の袖を持ち上げ、さし示した先。

「俺は、おまえだよ」

 鮮明になった視界で、男がわらう。
 そして、その腕に抱かれていた人物が、ゆらりと顔を持ち上げ──

「ねぇ……どうして私を殺したの? 松波君」

 血に濡れた唇で、『彼女』はクラマをなじった。

「ちがっ……俺は……違う違う違う……あぁ……うぁああああッ!!」

 血のようにあかい夕暮れに、絶叫がこだまする。

「俺はっ、ただ好きで、となりにいられればよかっただけで……違うんです、閣下……あなたを傷つけたくなんか……あぁあ、早梅さま、なんで俺を見てくれないんですか、早梅さまぁっ!」

 まさに、半狂乱。
 我を忘れて頭を掻きむしるクラマの悲鳴に、応えるものはない。

「……下……殿下……暗珠」

 応えるものはない、はずだったのに。
 どこからか、声がひびく。

「負けないで、暗珠」

 ひどくやさしい男の声は、ひび割れたクラマのこころにしみ入る。

「ねぇ、もうそろそろ、起きる時間だよ」

 次いでクラマを呼んだのは、少女だ。
 鈴を鳴らしたような声で呼びかけられると、クラマはどうしようもなく、胸が熱くなって。
 ふいに、腕を引かれる。

「さぁ、戻っておいで──クラマくん」

 夢中で顔を上げたクラマの唇に、やわらかいものがふれた。
 あまいあまい『なにか』──それがからだの隅々に行き渡ったとき、クラマの強ばった四肢から、力が抜けた。

「あぁ……そこにいたんですね、早梅さま……俺、俺……」


 ──ごめんなさい。


 絞り出したか細い言葉は、届いたのか。
 やわらかな光に包まれゆくクラマに、それを知るすべはない。
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