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第三章『焔魔仙教編』

第二百三十七話 その地位を欲す

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 時の皇帝、ルオ飛龍フェイロンの私室にほど近い場所には、広大な庭園がある。
 飛龍の命により、この庭園で手入れされていた木々は伐採され、根こそぎ梅の木に植えかえられた。二年ほど前のことだ。

 飛龍はその日の公務を終えると、後宮へ向かうことなく、この庭園へ足を運ぶ。そして食事はとらず、就寝前に毒酒を飲み干し、一日を終えるのだ。


 夏も終わりに近づいた、燃えるようにあかい黄昏時のことだった。
 近頃の飛龍は、機嫌がよかった。蒼白い顔色に血の気が戻り、隈も薄れてきている。
 梅の細枝を指先でなでる飛龍のそばで、風がひとつ吹いた。

「皇帝陛下にごあいさつを申し上げます」

 飛龍の背後に、黒装束の男がひとり。
 男が覆面を取り払うと、まばゆい黄金の髪に瑠璃色の瞳をしたかんばせがあらわとなる。
 その美しい容姿から、花街などでの情報収集をなりわいとしていた男であったが、このところはよく飛龍に呼び立てられていた。

 どうやら飛龍は、男がお気に入りらしかった。むろん飛龍に男色の気はないため、男が寝所に呼ばれることはない。
 飛龍は、梅の木のように、男の瑠璃色の瞳がお気に入りなのだ。宝玉を手もとに置いておいて、愛でる感覚なのだろう。

 同様の理由で、飛龍はシュンのことも重用していた。ただ、あれは時折独断行動に走り、仲間からたしなめられても、飄々と悪びれた様子がない。
 規律を重んじる皇室直属の暗殺部隊に属しておきながら、なぜ迅は好き放題ができているのか、なぜ飛龍はそれを許しているのか、男はかねてより疑問でならなかった。

 が、そうした胸の内を明かしたところで、飛龍が答えるとも思えない。
 ゆえに男は、平静を装う。いつものようにひざまずき、淡々と報告を述べる。

「先日、貴泉きせん燈角とうかくの離宮にて発生した火災は、『龍宵節りゅうしょうせつ』に際して打ち上げられた花火が誤って引火したものによるとして、『処理』しております。また、本殿内の蓮池から、チェン太守の遺体が発見されました。投身自決と思われます」
「それで?」

 問い返す飛龍の声音に、たいした抑揚はない。
 衝撃的な事実を知らされても、何も思うところがないのだ。
 今の飛龍にとって重要なのは、梅の木を愛でること。それだけ。

「燈角へ向かわせた『孤影こえい』五名のうち、四名の死亡が確認されました」
「暗殺の精鋭部隊が、無様なものだな」
「……申し訳ございません」
「よい。強い者が生き残り、弱い者は死ぬ。当然の理だ」

 使い勝手のいい手駒が、相次いで失われた。だというのに、飛龍はやけに上機嫌だ。

梅雪メイシェ……わが梅花の姫よ。そなたの強さは、留まるところを知らぬな」

 梅雪。滅亡したザオ家の姫。唯一の生き残り。
 非力だったはずの乙女が飛龍と一戦をまじえ、見事にその心を射止めたことは、男も既知の事実である。

「いかがなされますか?」
「『競売』の参加者名簿に記載されている者は、消せ」

 すでに痛めつけられた奴隷を買いつけることでしか獣人を従えることができない腰抜けどもは、今後どんな情報を外部へ漏らすかわかったものではない。
 こうしたこともあろうかと、飛龍は参加者名簿の写しを寄こすよう、チェン仙海シェンハイに命じていた。片方が灰になったとしても、飛龍にとっては痛くも痒くもない。彼が用意周到であるゆえんだ。

「承知いたしました。……迅の処遇については、いかがいたしましょう」

 事件後、調査のために向かわせた『孤影』によると、襲撃された離宮をくまなくさがしたが、迅の遺体だけが発見にいたらなかったとのこと。
 しかし、現場には激しい戦闘の痕が広範囲に残されていた。
 いくら迅といえど、無傷ではいられなかったはず。
 命からがら逃げ出し、どこぞで力尽きたか。それとも。

「捜索を続けろ。生きていたなら、そのまま連れ帰れ」
「罰則は科さないのですか?」
「ならぬ」

 そのときはじめて、わずかながら、飛龍が語気を強めた。

「どこぞで息絶えていないのだとすると、連れ去られた可能性がある。いや、のか……どちらにせよ、あの男のことだ。わが姫へぶしつけに手を出しているとも限らぬ」

 ──早家の姫は、無傷で連れ帰れ。

 梅雪が弱かったなら、迅は飛龍の命を完璧に遂行し、今ごろこの都へ連れ帰っていたところだろう。

 だが梅雪は強い。飛龍を魅了するほどに。
 そして迅は、強さに対する欲求と羨望がある。
 双方が対峙したとなれば、迅が梅雪に手を出さない理由はない。
 最悪、寝返ったとしても不思議ではない。ならば。

「あの男には、私が直接手をくだす」

 飼い犬は、きちんとしつけ直さなければならない。

「御心のままに。最後に、先んじてお伝えしておりました皇子殿下の件ですが……こちらを」

 男はふところをさぐり、黒塗りの木箱を差し出す。
 つと振り向いた飛龍が、血のようにあかい瞳を細めた。

駿馬しゅんめを飛ばして本日天陽てんよう入りをした離宮の使用人が、持たされていたものです。行方不明となる前日、殿下がお書きになった文とのこと」

 男が手にした木箱のふたを開けると、たしかに、一通の文がおさめられていた。
 ややあって、飛龍は文を手に取り、静かに紐といた。

「……ふ」

 ひととおり文に目を通した飛龍は、わらった。
 その真意をはかりかねた男は、思わず問う。

「皇子殿下におかれましては、どのように……」
「もうよい、下がれ」
「しかし、陛下」
「下がれ」

 ──同じことを言わせるな。

 言外の圧力を感じ取り、男はぐっと口を引き結んだ。

「……御意」

 拱手した男は、まばたきのうちに姿を消す。
 後には、広大な庭園に、飛龍のみが残された。

 飛龍が手にした文には、炎を吐く龍の印が捺されている。
 文面を走る筆跡も、見覚えがあるもの。

 文には、こう書かれていた。


 この文が届くころ、私はすでに燈角を去っているでしょう。
 この十五年間、つねに精進し、研鑽を惜しまなかったつもりです。
 しかしながら、私はあまりに無知でした。そのことを学ぶ機会を与えてくださったことに、感謝を申し上げます。

 父上は以前、玉座が欲しいかと、私に問われました。
 私の答えは、変わりません。

 私は、私の大切なものを守るため、その地位いすを欲します。


「ふ……くく、ふはは!」

 飛龍はわらう。心底愉快そうに。

「泥くさくとも、足掻くか。よい……そなたはそれでよいのだ、暗珠アンジュ

 漠然と強さに憧れていた年若き少年が、現実に打ちのめされたとき、何を失い、何を得るのか。
 それこそ、飛龍が知りたかったことなのだ。

「暗珠──

 かつてのおのれを重ね、飛龍は薄笑った。

「奈落の底から這い上がってみせろ、愛しきわが子よ」

 針が落ちる音も聞こえるほどの静寂に、そよ風が吹く。
 血に濡れたかのごとく鮮烈な夕照せきしょうの中、さやさやと揺れる梅の枝葉を、飛龍は満足げに愛でていた。
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