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第三章『焔魔仙教編』

第二百二十六話 地獄の果てより【後】

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梅雪メイシェさま、一心イーシンさま、どうしたの? ……そこにいるのは、九詩ジゥシー? まさか……」

 早梅はやめの膝に横たえられた、血まみれの九詩。
 多くを聞かずとも、八藍バーランはただならぬ状況を悟ったのだろう。ととのったその顔から、一切の表情が剥がれ落ちる。

「一足遅かったか」

 早梅たちへ真っ先に駆け寄ってきた八藍に続き、棍をかついだ六夜リゥイが姿を現す。すぐとなりには、五音ウーオンの姿もある。
 五音はまず、切れ長の瞳で、二星アーシンを見やった。

「お久しぶりですね。あなたの弟、五音でございます、姉上」
「あなたの姉、二星よ。すっかり大人になったわね。他人行儀はやめてちょうだい、五音」

 同じ紫の色彩を持つまなざしが、絡まりあう。

「たったひとりの弟を置いてどこかへ行ってしまった姉に、小言のひとつくらい言わせてほしいものだけれど、それはまた後で」

 つと、五音は二星から視線を外す。それから鋭く細めた紫水晶の瞳で、蓮池を背に悠然とたたずむシュンを見据えた。

「私の息子を殺したのは、貴様か」
「息子? そこは兄弟じゃないのか。見たところ俺より若いってのに、そんなでかい息子持ちとはなぁ」

 たしかに、五音も六夜も、早梅よりすこし年嵩としかさの、十代の外見だ。とても十三になる息子を持つ父親には見えない。だからこそ、早梅は初対面で驚愕したわけで。

 ──はははっ、よく言われますよ。ぽくないって。
 ──まぁ見た目と実年齢が必ず一致するわけじゃないってことです。とくに、僕らマオ族はね。

 以前、一心がそれとなく流した言葉がある。
 だけれど、それがじつは深い意味を持つ言葉なのだと、今の早梅ならわかる。

「──貴様が殺したのか、と訊いている。答えは、はいか、いいえだ。訊かれたことのみに答えなさい」

 そして、のらりくらりと発言する迅を一喝した五音が、激高していることもわかる。

「あのひと、おっかなくないですか?」
「そりゃあ五音は、『しつけ』に厳しいからな」
「ひぇ……関わりたくないなぁ」

 合流したのは、五音ら猫族だけではなかった。
 どこからともなくひょっこりと顔を見せた月白げっぱくの髪の美青年が、ため息をもらしたのち、早梅をのぞき込む。

「こんばんは、梅雪」
「……憂炎ユーエン?」
「遅くなってごめんなさいね。わたしが来たからには、安心してください」

 申し訳なさそうに眉を下げた憂炎は、ひざを折り、草むらに座り込む早梅のそばにかがみ込んだ。

「あぁ、わたしの梅雪から、また男のにおいが……あの心底性根の悪そうな顔をした男を、殺せばいいんですよね?」

 憂炎はすん、と早梅の首すじを嗅ぐと、ほほ笑みを浮かべる。それはもう、とびきりに美しい笑顔だった。

「ふふっ……心臓を突いて、ぐりぐりと抉り出してごらんに入れましょうか。翡翠色の右目はきれいですから、取っておいて宝石箱の中にでも入れておきます?」
「いや、おっかないのはどっちだよ」

 殺気を向けられた男、迅が思わず口を挟んだが、憂炎はにこにこと笑みを崩さない。完全にる気満々である。
 一触即発の中、静かに声をあげたのは、一心だ。

「憂炎さま、これはわれわれ猫族の問題です。手出し無用に願います。桃英タオインさまも同様に」
「一心殿、一族の者の命を奪われた貴殿らの心中は、察して余りある。だが、あの男を野放しにしておくわけにはいくまい」
「梅雪に手を出されたなら、わたしも黙ってはいられないのですが?」
「お控えください、と申し上げております」

 ひかない桃英、憂炎へ、一心は毅然として、言葉を放った。

「星がまたひとつ、流れたわ」

 ふいに月の隠れた夜空を見上げ、歌うように、二星がつぶやく。

紅娘ホアニャン? 何を言って」
「何もする必要はないの。ただ、見守っていて」

 二星の言葉は核心にふれず、現実味をおびない。
 それでも、桃英を引き止める不思議な響きがあった。

「何やってんだよ、ばか……」

 九詩を見下ろした八藍が、こぶしを握りしめながら声を絞り出す。

「梅雪さまだって待ってるだろ。早くもどってこいよ、ばか……っ!」

 息絶えた弟へ呼びかける兄。
 それは健気で、無意味な光景だったろう。
『彼ら』のことを、よく知りもしない者が見れば。

「梅雪さん」

 いまだ沈黙を貫く早梅へ、一心がそっと語りかける。

「呼んであげてください。この子を。君だけが呼べる、この子の名を」

 ふたたび沈黙が流れ、やがて、早梅は顔を上げる。
 悲しみではない強き意思を、瑠璃の瞳に宿して。

詩詩シーシー──目を覚まして、『優詩ヨウシー』」

 鈴のごとき声音が奏でられた刹那、淡い光が夜闇に灯る。

「なっ……なんだ!? 何が起きてる!?」

 驚く暗珠アンジュをよそに、光はみる間に輝きを増し、九詩を包み込む。
 やがて、早梅が手のひらをふれあわせた九詩の胸もとめがけ、空高くからひとすじの光が落ちる。

 流れ星が、落ちたかのようだった。

 まばゆい光に満たされる視界。
 真っ白な世界に飲み込まれ、ようやくまぶたをひらくことが叶ったとき、暗珠は信じられない光景を目の当たりにする。

「ん……んん~! ふわぁ、ちょっと寝ちゃってたぁ。梅雪さま、おはよぉ」
「はっ……?」

 見間違いだろうか。いや、そんなはずはない。
 息絶えたはずの九詩が起き上がり、のんきにのびをする光景など、そんなことがあり得るはずがない。

「寝てたんじゃない、死んでたんだよ、ばか」
「あれ、八藍来てたの? 言われてみれば、なんかちょっと、いやものすごく痛かったような気も……って、あーっ! 血! きものがすっごい血で汚れてるぅ~!」
「だからおまえの血だって、ばか」
「ばかばか言うやつがばかなんだよ、ばかぁっ!」
「なにおう! やるかぁ!?」

 あっけに取られる暗珠などどこ吹く風で、九詩は八藍と取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。胸を突かれて絶命したことなど、幻だったかのように。

「いやいや……これは何の冗談だ? たしかに、そこの餓鬼の心臓を抉ってやったんだぞ?」

 これにはさすがの迅も、混乱を隠せない。

「だから問うたはずだ。私の息子を殺したか、否か。その答えによって、対応が変わるのでね」
「はぁ? 意味がわからないんだが?」
「そう簡単にわかってたまるかよ。俺たち猫族のことが、おまえら人間なんかに。ひとつだけ言えることがあるとすりゃ、おまえより若くて男前な俺と五音だが、今年で三十だからな。年上は敬えよ、糞餓鬼」

 五音と肩を並べた六夜が、迅を一蹴する。いまだ現状を理解できない迅に対する、さらなる追い討ちにほかならない。

「何が何やら、わたしもさっぱりなんですが、猫族のみなさんがいろいろとめちゃくちゃなのはわかりました」

 怒涛の展開に、憂炎は考えることを放棄したらしい。

「猫族には、古くから言い伝えられている言葉があります。『猫に九生きゅうしょうあり』という言葉です」

 桃英ですら絶句する状況下で、静かに口をひらいたのは、一心だ。

「その言葉どおり、猫には、九つの生があるという意味です」

 一心がことさらゆっくりと発言しても、その言葉の意味を、混乱の真っ只中にいる暗珠たちはすぐには理解できない。
 そうした中、ついに、決定的な言葉が紡がれる。

「生まれながらにして、九つの命を持っている。そして死ぬごとに、ひとつずつ、名前に刻まれた数が減っていく──それが僕たち、猫族なのです」
「ふふっ、そういうこと」

 一心の言葉を受け、九詩がしなやかな身のこなしで早梅に抱きつく。そしていたずらっぽい笑みを浮かべ、早梅へ頬ずりをした。

「『九詩』はもう死んだ。今の僕の『数名かずな』は、『八歌バーグェ』──『字名あざな』は『優詩』。要するに、かわいいお嫁さんがいる勝ち組ってわけ。わかった? 独り身さん?」
「……あ?」

 早梅とのふれあいを見せつけるような九詩、いや八歌の言動に、迅が低くうなる。こめかみには、ピキピキと青筋が浮かび上がっていた。

「っとに、罪な女だよなぁ、梅雪お嬢さまは……こんなに一途な俺を袖にして、クソみたいな男どもを侍らせてるんだもんなぁ……」

 ぶつぶつと独り言を口走る迅の二色の瞳孔はひらききっており、逆上していることは明白だった。

「あーあ、すこしは優しくしようと思ったのに……やめた。──壊れるくらいに、犯す」
「この状況で、俺たちから梅雪ちゃんをさらえると思ってんのか? めでたい頭だな」
「貴様のような下衆に、私の花妻は渡さない」

 いまだかつてないほどの殺気を放つ迅の前に、すぐさま六夜、五音が立ちはだかる。

「梅雪さま、名前呼んでくれて、ありがとう。だいすき」
「詩詩……」

 すり、と頬ずりをした八歌は、最後に早梅のほほへ口づけをひとつ落とすと、からだを離した。

「あなたの優詩が、不届き者をこらしめてみせましょう」

 そして八歌は、八藍とともに、最大の敵である迅へ立ち向かうため、踏み出すのだ。

「若い子に、任せてばかりはいられませんね」
「一心さま……」
「梅雪さん、君はどうか、そのままで」
「……はい」

 やわらかくほほ笑んだ一心は、慈愛に満ちた表情で早梅のほほをひとなですると、立ち上がる。
 一瞬後には、琥珀色の瞳で、凛と前を見据えて。

 六夜、五音、八藍、八歌、一心。
 たいせつなものを守るため、立ち上がった彼らの背中に、早梅は時を忘れ、しばし魅入った。

「…………お待ち、ください」

 長い長い沈黙をへて、くいと袖を引かれる感覚に、早梅は振り返る。

「どういうこと、ですか。お嬢さま……」

 黒皇ヘイファンが、うろたえていた。黄金の隻眼を見ひらき、唇をわなわなと震わせて、明らかに平静を失っていた。

「猫族のみなさまが……一心さまのおっしゃっていたことが、本当なら……!」
「黒皇」

 わかっていた。いずれ、こうなることは。
 だから早梅は、混乱する黒皇の手を取り、ぎゅっと握り返す。

 流れる雲間から、月が姿を見せる。
 音もなく射し込んだ月明かりに、早梅の華奢な指を彩る梅花の指輪が、きらめいた。

 そんなときだったか。にゃあんと、どこかで猫の鳴き声が響いて。


「──ねぇお兄さん、あんたは、地獄の存在を信じてる?」


 硝子を鳴らしたような美しい女の声が、月夜に奏でられた。
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