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第三章『焔魔仙教編』
第二百十八話 演者たれ【前】
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夜空を流れる雲が、欠けた月を覆い隠す。
月明かりの遮断された暗い岸辺で、早梅は弾かれたように振り返った。
その先には、蓮池に浮かぶ舞台がある。びっしりと浮島をかこむ橙灯篭の灯火は、目をくらませるほどの輝きだ。
きらびやかな舞台上には、人影がひとつ、ふたつ、みっつ、そして。
「のんきにおしゃべりしてる場合ー?」
「じゃあじゃあ、わたしたちの好きにしちゃうけど、いいよね? いいでしょー?」
きゃはははっ! と、無邪気で非情な笑い声が響く。
早梅は瑠璃の瞳を見ひらき、驚愕した。
蠱毒師のそばに、先ほどまでなかったはずの人影を認めたためだ。
「くっ……!」
「殿下!?」
間違いない、暗珠だ。
舞台上にうつ伏せに転がされ、そのからだには、青白い体躯に真っ赤な目をした大蛇が巻きついている。
早梅の腕より太い胴の白蛇が、ずるずると暗珠のからだを這ってとぐろを巻き、大口をあけて、鋭い牙と、血のように赤い二股の舌をちろちろとのぞかせた。
「使役していたのは、毒蜘蛛だけではなかったか……殿下を離せ」
「えぇ? だれに向かってそんな口きいてるのぉ?」
「そーそー、そんなこと言える立場じゃないでしょお?」
「うぐぁっ……!」
「殿下っ!」
「──動くな。皇子サマ、締め殺しちゃうよ?」
早梅は唇を噛む。
(しまった……クラマくんを人質に取られてしまうとは)
だが、ここで怯んではならない。侮られてはならない。
焦る気持ちを抑え、早梅は目前の光景を睨みつける。
「はな、せぇっ……!」
暗珠も拘束から抜け出そうともがいてはいるが、巻きついた白蛇はびくともしない。
「く、そぉっ……!」
なすすべもなく、暗珠が地面を引っ掻く。
その指先からぱちぱち……と弱々しい電流が土の表面へ逃げていくのを目にし、早梅ははっとする。
(クラマくんの雷功が弱まっている……闘う力が、残っていないんだ!)
そこで、早梅は思い出す。
クラマの憑依した『羅暗珠』が、生まれながらに病弱な少年であったことを。
(彼は十五年間、ずっと都にいて、武功を実戦であつかう機会もなかった)
才能はある。だが、武功を自在にあつかうためのからだが出来上がっていない。
先ほど毒蜘蛛の攻撃をかわすので精一杯だったのも、そのためなのだ。
(今夜のような長期戦ともなれば、内功が底をつくのは必至だろう。見誤った……こうなってしまうことを予測できなかった、私の失態だ)
この場において、どうすべきか。何が最善策か。
もっとも、はじめから選択肢など用意されていないことを、早梅はよく理解していた。
まぶたを閉じた早梅は、しばしの沈黙の末、静かに瑠璃の瞳をひらいた。
「蠱毒師よ、私がそちらへゆく。ならば異論はないな」
「っ、なにをおっしゃいます、梅雪さま!」
真っ先に叫んだのは、臨戦態勢だった爽だ。
「殿下の身代わりになられるおつもりですか。いけません、お嬢さま」
早梅の考えをいち早く悟ったのだろう。険しい面持ちで、黒皇が早梅の肩を押しとどめる。
「この場で不利なのは、圧倒的に私たちだ。この身ひとつで救える命があるのなら、安いものだろう」
「お嬢さま……!」
「おまえがあちらの手中におさまったところで、連中が私たちを見逃すと思うか。これは罠だ。馬鹿なことは考えるな、梅雪」
むろん、わかっている。そんなことはわかりきっている。
桃英の言うように、これは罠なのだ。
早梅を手に入れたとして、蠱毒師らは桃英たちを殺そうとするだろう。
(……隙が、必要だ。一瞬でいい)
思惑を気取られずに敵のふところへもぐり込めるのは、おのれだけ。
ゆえに早梅は、怒りにふるえるこぶしを淡色の袖に隠し、荒ぶる闘志を胸中に隠す。
諦めを身にまとい、無力な少女の仮面を被る。
大丈夫だ、演じることは、得意なのだから。
「気の利かない殿方ばかりね。健気な女の子に、野暮なことはおっしゃらないでくださる?」
そっと背にふれられる感触があり、早梅は無意識に睨みつけていた地面から顔を上げた。
早梅を支えていたのは、紫水晶の瞳で静かにあたりを見回す、錫色の髪の女性だった。
「四宵さま……いえ、二星さま」
呆けたように早梅が呼ぶと、二星が振り返り、花のような笑みをほころばせた。
「さすがは桜雨のお嬢さんね。彼女に似て、賢い子だわ」
二星の口ぶりは、早梅の考えに気づいているものだ。
「ふふ、女の勘ってやつよ」
二星は早梅にしか聞こえない声音でささやくと、黒皇や桃英たちへ向き直る。
「あなたたちの心配はわかるわ。私が付き添います。それならいいわね?」
「……いいわけがないだろう、紅娘」
「桃英、彼女の覚悟を無駄にしないで」
二星が毅然と放った言葉は、桃英を黙らせた。
「梅雪さん、君は、どうしてそこまで……」
何事かを言いかけた一心が、唇を噛む。
(ごめんなさい……一心さま)
すがるような琥珀色のまなざしから顔を背け、早梅は声を絞り出す。
「……私がそちらに行けば……陛下のもとへ行けば、よいのでしょう」
「アハッ! そーそー、お姫サマはよくわかってるじゃん!」
「陛下に泣いてお願いしたら、そっちのひとたちも助けてくれるかもねー?」
戯言を。
いっそ怒号を飛ばしたい気持ちをなんとか飲み込み、早梅は沈黙を貫く。
「……ふぅん?」
なりゆきを眺めていた黒装束の男が、早梅を見つめ、興味深そうにあごをひとなでした。
「そういうことなら。俺がお姫さまをお連れするお役目を頂戴しようか。さぁお手をどうぞ、姫君?」
「ちょっと、遊ばないでよね、おにいちゃん!」
「はいはい」
気障ったらしく早梅へ手を差し伸べた男が、直後に生返事をする。
(蠱毒師に、兄と呼ばれている……? この男も、蠱毒師の関係者なのか……?)
だとするなら、正攻法ではなく、煙幕弾などを使う一筋縄ではない戦法を企てるのも納得できる。
(もしこの男が、蠱毒を使ってきたら……)
ひやりと、早梅のこめかみに冷汗がつたう。
武功の使い手であり、なおかつ蠱毒師だったとしたら。
それは早梅の想像し得る、最悪の展開となる。
動揺を気取られぬよう、平静を保つことで必死な早梅をよそに、ふっ……と男が笑った。
月明かりの遮断された暗い岸辺で、早梅は弾かれたように振り返った。
その先には、蓮池に浮かぶ舞台がある。びっしりと浮島をかこむ橙灯篭の灯火は、目をくらませるほどの輝きだ。
きらびやかな舞台上には、人影がひとつ、ふたつ、みっつ、そして。
「のんきにおしゃべりしてる場合ー?」
「じゃあじゃあ、わたしたちの好きにしちゃうけど、いいよね? いいでしょー?」
きゃはははっ! と、無邪気で非情な笑い声が響く。
早梅は瑠璃の瞳を見ひらき、驚愕した。
蠱毒師のそばに、先ほどまでなかったはずの人影を認めたためだ。
「くっ……!」
「殿下!?」
間違いない、暗珠だ。
舞台上にうつ伏せに転がされ、そのからだには、青白い体躯に真っ赤な目をした大蛇が巻きついている。
早梅の腕より太い胴の白蛇が、ずるずると暗珠のからだを這ってとぐろを巻き、大口をあけて、鋭い牙と、血のように赤い二股の舌をちろちろとのぞかせた。
「使役していたのは、毒蜘蛛だけではなかったか……殿下を離せ」
「えぇ? だれに向かってそんな口きいてるのぉ?」
「そーそー、そんなこと言える立場じゃないでしょお?」
「うぐぁっ……!」
「殿下っ!」
「──動くな。皇子サマ、締め殺しちゃうよ?」
早梅は唇を噛む。
(しまった……クラマくんを人質に取られてしまうとは)
だが、ここで怯んではならない。侮られてはならない。
焦る気持ちを抑え、早梅は目前の光景を睨みつける。
「はな、せぇっ……!」
暗珠も拘束から抜け出そうともがいてはいるが、巻きついた白蛇はびくともしない。
「く、そぉっ……!」
なすすべもなく、暗珠が地面を引っ掻く。
その指先からぱちぱち……と弱々しい電流が土の表面へ逃げていくのを目にし、早梅ははっとする。
(クラマくんの雷功が弱まっている……闘う力が、残っていないんだ!)
そこで、早梅は思い出す。
クラマの憑依した『羅暗珠』が、生まれながらに病弱な少年であったことを。
(彼は十五年間、ずっと都にいて、武功を実戦であつかう機会もなかった)
才能はある。だが、武功を自在にあつかうためのからだが出来上がっていない。
先ほど毒蜘蛛の攻撃をかわすので精一杯だったのも、そのためなのだ。
(今夜のような長期戦ともなれば、内功が底をつくのは必至だろう。見誤った……こうなってしまうことを予測できなかった、私の失態だ)
この場において、どうすべきか。何が最善策か。
もっとも、はじめから選択肢など用意されていないことを、早梅はよく理解していた。
まぶたを閉じた早梅は、しばしの沈黙の末、静かに瑠璃の瞳をひらいた。
「蠱毒師よ、私がそちらへゆく。ならば異論はないな」
「っ、なにをおっしゃいます、梅雪さま!」
真っ先に叫んだのは、臨戦態勢だった爽だ。
「殿下の身代わりになられるおつもりですか。いけません、お嬢さま」
早梅の考えをいち早く悟ったのだろう。険しい面持ちで、黒皇が早梅の肩を押しとどめる。
「この場で不利なのは、圧倒的に私たちだ。この身ひとつで救える命があるのなら、安いものだろう」
「お嬢さま……!」
「おまえがあちらの手中におさまったところで、連中が私たちを見逃すと思うか。これは罠だ。馬鹿なことは考えるな、梅雪」
むろん、わかっている。そんなことはわかりきっている。
桃英の言うように、これは罠なのだ。
早梅を手に入れたとして、蠱毒師らは桃英たちを殺そうとするだろう。
(……隙が、必要だ。一瞬でいい)
思惑を気取られずに敵のふところへもぐり込めるのは、おのれだけ。
ゆえに早梅は、怒りにふるえるこぶしを淡色の袖に隠し、荒ぶる闘志を胸中に隠す。
諦めを身にまとい、無力な少女の仮面を被る。
大丈夫だ、演じることは、得意なのだから。
「気の利かない殿方ばかりね。健気な女の子に、野暮なことはおっしゃらないでくださる?」
そっと背にふれられる感触があり、早梅は無意識に睨みつけていた地面から顔を上げた。
早梅を支えていたのは、紫水晶の瞳で静かにあたりを見回す、錫色の髪の女性だった。
「四宵さま……いえ、二星さま」
呆けたように早梅が呼ぶと、二星が振り返り、花のような笑みをほころばせた。
「さすがは桜雨のお嬢さんね。彼女に似て、賢い子だわ」
二星の口ぶりは、早梅の考えに気づいているものだ。
「ふふ、女の勘ってやつよ」
二星は早梅にしか聞こえない声音でささやくと、黒皇や桃英たちへ向き直る。
「あなたたちの心配はわかるわ。私が付き添います。それならいいわね?」
「……いいわけがないだろう、紅娘」
「桃英、彼女の覚悟を無駄にしないで」
二星が毅然と放った言葉は、桃英を黙らせた。
「梅雪さん、君は、どうしてそこまで……」
何事かを言いかけた一心が、唇を噛む。
(ごめんなさい……一心さま)
すがるような琥珀色のまなざしから顔を背け、早梅は声を絞り出す。
「……私がそちらに行けば……陛下のもとへ行けば、よいのでしょう」
「アハッ! そーそー、お姫サマはよくわかってるじゃん!」
「陛下に泣いてお願いしたら、そっちのひとたちも助けてくれるかもねー?」
戯言を。
いっそ怒号を飛ばしたい気持ちをなんとか飲み込み、早梅は沈黙を貫く。
「……ふぅん?」
なりゆきを眺めていた黒装束の男が、早梅を見つめ、興味深そうにあごをひとなでした。
「そういうことなら。俺がお姫さまをお連れするお役目を頂戴しようか。さぁお手をどうぞ、姫君?」
「ちょっと、遊ばないでよね、おにいちゃん!」
「はいはい」
気障ったらしく早梅へ手を差し伸べた男が、直後に生返事をする。
(蠱毒師に、兄と呼ばれている……? この男も、蠱毒師の関係者なのか……?)
だとするなら、正攻法ではなく、煙幕弾などを使う一筋縄ではない戦法を企てるのも納得できる。
(もしこの男が、蠱毒を使ってきたら……)
ひやりと、早梅のこめかみに冷汗がつたう。
武功の使い手であり、なおかつ蠱毒師だったとしたら。
それは早梅の想像し得る、最悪の展開となる。
動揺を気取られぬよう、平静を保つことで必死な早梅をよそに、ふっ……と男が笑った。
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