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第三章『焔魔仙教編』
第二百十六話 夏夜に注ぐ氷雨【前】
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蓮池の岸辺で、夜風が物悲しく啼いている。
早梅は暗順応した瑠璃の瞳で、真正面に対峙した黒装束の男を見据えていた。
全神経を集中させ、『その時』を窺う。
五分、十分。
いや、実際は一分とたっていなかったかもしれない。
「強いな」
「……なんだと?」
永遠にも思える沈黙で、ふいに黒装束の男が独りごちる。
その真意をさぐるさなか、ふっ……と、男が笑った気がした。
「媚びず、怯まない、つわものの眼。強い女は、嫌いじゃない」
ヒュルリ。男の周辺の風が流れを変える。
身をひるがえした男によって放られたモノが、早梅の目前に迫る。
「なめるな!」
瞬間的に、早梅は右手で叩き払う。
そして、弾き飛ばしたモノが何なのか理解したときには、視界に煙が立ちのぼっていた。
「煙幕弾か!」
煙を吸ってはいけない。早梅はとっさに淡色の袖で鼻と口を覆った。
その一瞬の隙をついて、煙の向こうから現れた武骨な手が、早梅を捉えるも。
──ヴンッ!
あとすこしで早梅の手首をつかむというところで、その軌道を、どこからともなく紡がれた鋼弦が断つ。
灰色に煙る空間へ消える手。虚空を切り裂いた鋼弦が強くしなり、岸辺に打ちつけられる。
その直後だった。ひろい手に力強く肩を抱かれたかと思えば、ビュオウッとすさぶ突風によって、早梅の視界を埋め尽くす煙が吹き飛ばされる。
そろり、と早梅が首を持ち上げれば、三毛と濡れ羽の髪の青年らが、早梅をかばい立っていた。
口もとはゆるんでいるが、目は笑っていない一心と、眉間に不快感を刻んだ黒皇だ。
「うら若き乙女にぶしつけにふれるだなんて。およそ紳士のすべきことではありませんね」
「ですから、梅雪お嬢さまにはふれないでいただきたいと、再三申し上げております」
姑息な手段で、早梅が脅かされる寸前まで行ったのだ。
ふたりの心境は、おだやかではなかった。
一心、そして黒皇の気迫を一身に受けた黒装束の男が、ハッと鼻を鳴らす。
「ならばおまえたちのその自信をへし折って、早家の姫を陛下に献上しようか」
「私がおとなしく従うとでも?」
「望むところさ。強い女を屈服させるのは、ゾクゾクするしな。『お手つき』さえしなければ、陛下もお怒りにはならんだろう」
「うわぁ……なんて変態に好かれてしまったんだ、私。ロリコンは陛下だけで充分だって……」
命のやり取りによるものではない恐怖で、早梅はからだの芯から身ぶるいをする。
そんな早梅をよそに、黒装束の男はかまわず続ける。
「二年前、深谷の街。俺の師兄を殺したのはおまえだろう、早梅雪」
「おや、師弟さんだったか。そいじゃ、今夜は敵討ちにでも?」
「いや。負けたのは師兄が弱かったから。ただそれだけのこと」
「寂しいことを言うねぇ。お師兄さんは、あんなに師弟想いだったってのに」
「ふ……俺は師兄いわく不真面目な師弟だからな。馴れ合いだとか、暑苦しいのは好かん。ただ、暑苦しくて口うるさい師兄を黙らせたおまえがどんな女なのか、興味があってな。やっと会えた。陛下がご執心なのもうなずける。想像以上で嬉しいよ、俺は」
「え? 知らない人に二年もストーカーされてたってこと? うわぁ、うわぁ……」
できれば知りたくなかった。これには腹の底からせり上がる嫌悪感で、ドン引きの早梅である。
「お嬢さま、斯様な戯言を聞いてはいけません。お耳が腐ってしまいます」
「僕の目の前で、僕の花嫁を口説くのは、やめていただけますか?」
ふだんは温厚な黒皇もぶち切れているし、一心も笑いながら圧をかけている。
「皇兄上、一心さま。おふたりが出られるまでもありません。俺が」
そうこうしていると、険しく眉をひそめた爽が加わり、夜色の瞳で黒装束の男を睨みつけた。
「はーい梅雪さま、あっちの変態がいないところに行こうねぇ」
そしてやたら笑顔な九詩に手を引かれ、安全な場所に誘導されるという。
「俺は姫と存分に楽しみたいんだ。邪魔をするなよ」
「うわぁあっ! 鳥肌! 気持ち悪くて鳥肌がっ! だぁれがあんたの『姫』だよ、梅雪さまに近づくな、変態!」
「こちらは姫を連れ帰ることさえできればいい。それ以外の者は──皆殺しだ」
にわかに、黒装束の男を取り巻く空気が変わる。
闇夜のもと、ひとり、またひとりと、仲間の男たちが集結。そしてたしかな殺気でもって、牙を剥かんとする。
──はらり。
そのとき、対峙する双方の頭上へ舞い落ちるものがあった。
はらり、ひらり。
月明かりに淡く光る、純白の結晶だ。
(この雪は……!)
反射的に早梅が夜空を仰げば、降り注ぐ月明かりがさえぎられた。
風になびくは、翡翠と錫色の髪。
「ねぇ待って! あなた怪我してるでしょう? 無理はだめよ、ねぇ桃英ってば!」
「そうはしゃがなくても、聞こえているぞ」
「聞いてないし、はしゃいでるのはあなたでしょ!? いーやーあーっ!」
「あれまぁ」
空から父が降ってきた。
いろいろとツッコミどころがあるが、読んで字のごとくなのでこれ以上どうしようもない。
早梅は苦笑し、はるか上空から華麗に着地を決めた桃英を見やった。桃英は、悲鳴をあげてすがりつく女性を、軽々と抱いていた。
「ご無事でよかったです……おふたりとも」
「あぁ、問題ない」
「私、高いところは苦手だって言ってるのに……死んだわ……十回くらい死んだ気分だわ……桃英のばか! だいっきらい!」
「問題……ない、のかな?」
半泣きで桃英の胸をぽかぽかと殴りつけている女性を見るに、問題ないことはない気もするが、「そうか。照れている君も愛いな」と当の桃英がにこにこと気にした様子がないので、早梅はあえてふれないことにした。
「ひさしぶりだね」
折を見て女性へ話しかけたのは、一心だ。
はたと泣きわめくのをやめた女性が、紫水晶の瞳で、一心を振り返った。
「そうね。前に会ったのは二十年以上も前かしら……今はなんて呼べばいいの?」
「一心と。君は?」
「星がふたつ流れたわ。二星。四宵ではなく、二星と呼んでちょうだい。『字名』は、紅娘」
「それが今回の君の名か。似合ってるよ」
「ありがとう。あなたもね」
流れるように言葉が交わされる光景を前に、桃英が整った眉をひそめた。
「親しげに話をするのだな」
「あれ、言ってませんでしたか? 僕と彼女、二星は、許婚だったんです」
「……初耳だが?」
「ただの、幼なじみ! もう……いくら年の近い男女を結婚させたがる風潮が猫族にあるからって、言い方に悪意があるわ」
「そうだね。実際、僕も君もその風潮に真っ向から反発したからこそ、今があるわけなのだし。桃英さまも、ご安心くださいね。僕が女性として愛しているのは、梅雪さんだけなので」
「どちらにしろ安心できないのだが」
桃英、正論である。
嘆息した桃英は、ふと一心から視線を外す。
「すこし目を離したあいだに、悪い虫が寄りついているとは」
そして厳しく細めた瑠璃のまなざしで黒装束の男たちを捉えると、袖をひらめかせ、右手をかかげた。
「私の娘にふれるな。──二度も言わせるな」
「ほう……これは」
「ッ! させるかッ!」
早梅をねらっていた黒装束の男が面白そうにあごをさする一方で、仲間たちが弾かれたように桃英へ飛びかかる。が、一歩遅かった。
「氷功」
またたく間に内功を集束させた桃英の右手に、純白の剣──ではなく、長弓がかたちづくられた。静かにつがえた矢に至るまで、すべてが純白。
「『月天翠雨』」
ぎりりと引き絞った弦を、夜空へ向けて解き放つ桃英。
純白の矢が月へ吸い込まれていった直後、無数の矢が、流星のごとく降り注ぐ。
「くっ……この……!」
「ぐぁっ!」
剣を払い、頭上からの猛攻を防ごうとこころみる黒装束の男たちだが、数多の鋭い氷の矢は、容赦なく襲いかかる。
「私の家族を脅かしたことを、その身をもって悔いるがいい」
やがて、月夜に降り注ぐ氷の雨が止んだとき、早梅たちの目前では、四人の男たちが血まみれで倒れ伏していた。
早梅は暗順応した瑠璃の瞳で、真正面に対峙した黒装束の男を見据えていた。
全神経を集中させ、『その時』を窺う。
五分、十分。
いや、実際は一分とたっていなかったかもしれない。
「強いな」
「……なんだと?」
永遠にも思える沈黙で、ふいに黒装束の男が独りごちる。
その真意をさぐるさなか、ふっ……と、男が笑った気がした。
「媚びず、怯まない、つわものの眼。強い女は、嫌いじゃない」
ヒュルリ。男の周辺の風が流れを変える。
身をひるがえした男によって放られたモノが、早梅の目前に迫る。
「なめるな!」
瞬間的に、早梅は右手で叩き払う。
そして、弾き飛ばしたモノが何なのか理解したときには、視界に煙が立ちのぼっていた。
「煙幕弾か!」
煙を吸ってはいけない。早梅はとっさに淡色の袖で鼻と口を覆った。
その一瞬の隙をついて、煙の向こうから現れた武骨な手が、早梅を捉えるも。
──ヴンッ!
あとすこしで早梅の手首をつかむというところで、その軌道を、どこからともなく紡がれた鋼弦が断つ。
灰色に煙る空間へ消える手。虚空を切り裂いた鋼弦が強くしなり、岸辺に打ちつけられる。
その直後だった。ひろい手に力強く肩を抱かれたかと思えば、ビュオウッとすさぶ突風によって、早梅の視界を埋め尽くす煙が吹き飛ばされる。
そろり、と早梅が首を持ち上げれば、三毛と濡れ羽の髪の青年らが、早梅をかばい立っていた。
口もとはゆるんでいるが、目は笑っていない一心と、眉間に不快感を刻んだ黒皇だ。
「うら若き乙女にぶしつけにふれるだなんて。およそ紳士のすべきことではありませんね」
「ですから、梅雪お嬢さまにはふれないでいただきたいと、再三申し上げております」
姑息な手段で、早梅が脅かされる寸前まで行ったのだ。
ふたりの心境は、おだやかではなかった。
一心、そして黒皇の気迫を一身に受けた黒装束の男が、ハッと鼻を鳴らす。
「ならばおまえたちのその自信をへし折って、早家の姫を陛下に献上しようか」
「私がおとなしく従うとでも?」
「望むところさ。強い女を屈服させるのは、ゾクゾクするしな。『お手つき』さえしなければ、陛下もお怒りにはならんだろう」
「うわぁ……なんて変態に好かれてしまったんだ、私。ロリコンは陛下だけで充分だって……」
命のやり取りによるものではない恐怖で、早梅はからだの芯から身ぶるいをする。
そんな早梅をよそに、黒装束の男はかまわず続ける。
「二年前、深谷の街。俺の師兄を殺したのはおまえだろう、早梅雪」
「おや、師弟さんだったか。そいじゃ、今夜は敵討ちにでも?」
「いや。負けたのは師兄が弱かったから。ただそれだけのこと」
「寂しいことを言うねぇ。お師兄さんは、あんなに師弟想いだったってのに」
「ふ……俺は師兄いわく不真面目な師弟だからな。馴れ合いだとか、暑苦しいのは好かん。ただ、暑苦しくて口うるさい師兄を黙らせたおまえがどんな女なのか、興味があってな。やっと会えた。陛下がご執心なのもうなずける。想像以上で嬉しいよ、俺は」
「え? 知らない人に二年もストーカーされてたってこと? うわぁ、うわぁ……」
できれば知りたくなかった。これには腹の底からせり上がる嫌悪感で、ドン引きの早梅である。
「お嬢さま、斯様な戯言を聞いてはいけません。お耳が腐ってしまいます」
「僕の目の前で、僕の花嫁を口説くのは、やめていただけますか?」
ふだんは温厚な黒皇もぶち切れているし、一心も笑いながら圧をかけている。
「皇兄上、一心さま。おふたりが出られるまでもありません。俺が」
そうこうしていると、険しく眉をひそめた爽が加わり、夜色の瞳で黒装束の男を睨みつけた。
「はーい梅雪さま、あっちの変態がいないところに行こうねぇ」
そしてやたら笑顔な九詩に手を引かれ、安全な場所に誘導されるという。
「俺は姫と存分に楽しみたいんだ。邪魔をするなよ」
「うわぁあっ! 鳥肌! 気持ち悪くて鳥肌がっ! だぁれがあんたの『姫』だよ、梅雪さまに近づくな、変態!」
「こちらは姫を連れ帰ることさえできればいい。それ以外の者は──皆殺しだ」
にわかに、黒装束の男を取り巻く空気が変わる。
闇夜のもと、ひとり、またひとりと、仲間の男たちが集結。そしてたしかな殺気でもって、牙を剥かんとする。
──はらり。
そのとき、対峙する双方の頭上へ舞い落ちるものがあった。
はらり、ひらり。
月明かりに淡く光る、純白の結晶だ。
(この雪は……!)
反射的に早梅が夜空を仰げば、降り注ぐ月明かりがさえぎられた。
風になびくは、翡翠と錫色の髪。
「ねぇ待って! あなた怪我してるでしょう? 無理はだめよ、ねぇ桃英ってば!」
「そうはしゃがなくても、聞こえているぞ」
「聞いてないし、はしゃいでるのはあなたでしょ!? いーやーあーっ!」
「あれまぁ」
空から父が降ってきた。
いろいろとツッコミどころがあるが、読んで字のごとくなのでこれ以上どうしようもない。
早梅は苦笑し、はるか上空から華麗に着地を決めた桃英を見やった。桃英は、悲鳴をあげてすがりつく女性を、軽々と抱いていた。
「ご無事でよかったです……おふたりとも」
「あぁ、問題ない」
「私、高いところは苦手だって言ってるのに……死んだわ……十回くらい死んだ気分だわ……桃英のばか! だいっきらい!」
「問題……ない、のかな?」
半泣きで桃英の胸をぽかぽかと殴りつけている女性を見るに、問題ないことはない気もするが、「そうか。照れている君も愛いな」と当の桃英がにこにこと気にした様子がないので、早梅はあえてふれないことにした。
「ひさしぶりだね」
折を見て女性へ話しかけたのは、一心だ。
はたと泣きわめくのをやめた女性が、紫水晶の瞳で、一心を振り返った。
「そうね。前に会ったのは二十年以上も前かしら……今はなんて呼べばいいの?」
「一心と。君は?」
「星がふたつ流れたわ。二星。四宵ではなく、二星と呼んでちょうだい。『字名』は、紅娘」
「それが今回の君の名か。似合ってるよ」
「ありがとう。あなたもね」
流れるように言葉が交わされる光景を前に、桃英が整った眉をひそめた。
「親しげに話をするのだな」
「あれ、言ってませんでしたか? 僕と彼女、二星は、許婚だったんです」
「……初耳だが?」
「ただの、幼なじみ! もう……いくら年の近い男女を結婚させたがる風潮が猫族にあるからって、言い方に悪意があるわ」
「そうだね。実際、僕も君もその風潮に真っ向から反発したからこそ、今があるわけなのだし。桃英さまも、ご安心くださいね。僕が女性として愛しているのは、梅雪さんだけなので」
「どちらにしろ安心できないのだが」
桃英、正論である。
嘆息した桃英は、ふと一心から視線を外す。
「すこし目を離したあいだに、悪い虫が寄りついているとは」
そして厳しく細めた瑠璃のまなざしで黒装束の男たちを捉えると、袖をひらめかせ、右手をかかげた。
「私の娘にふれるな。──二度も言わせるな」
「ほう……これは」
「ッ! させるかッ!」
早梅をねらっていた黒装束の男が面白そうにあごをさする一方で、仲間たちが弾かれたように桃英へ飛びかかる。が、一歩遅かった。
「氷功」
またたく間に内功を集束させた桃英の右手に、純白の剣──ではなく、長弓がかたちづくられた。静かにつがえた矢に至るまで、すべてが純白。
「『月天翠雨』」
ぎりりと引き絞った弦を、夜空へ向けて解き放つ桃英。
純白の矢が月へ吸い込まれていった直後、無数の矢が、流星のごとく降り注ぐ。
「くっ……この……!」
「ぐぁっ!」
剣を払い、頭上からの猛攻を防ごうとこころみる黒装束の男たちだが、数多の鋭い氷の矢は、容赦なく襲いかかる。
「私の家族を脅かしたことを、その身をもって悔いるがいい」
やがて、月夜に降り注ぐ氷の雨が止んだとき、早梅たちの目前では、四人の男たちが血まみれで倒れ伏していた。
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