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第三章『焔魔仙教編』

第二百十四話 名も無き者【前】

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 一連の出来事を見守っていた黒皇ヘイファンが、早梅はやめに寄り添い、静かに言葉を紡ぐ。

四宵スーシャオさま……紫月ズーユェさまの、御母堂でいらっしゃいますね。よく似ておいでになる」
「あぁ……そうだね」

 すず色の髪も、あの面影も、琵琶の名手ということまで、間違いなく、話に聞いていた紫月の母親、四宵と一致している。
 だというのに、誰よりも四宵を必要としていた桃英タオインの呼び声は、非情にさえぎられた。

「紫月さまのお話では、四宵さまはもう……」
「彼女は間違いなく、四宵です」

 おもむろに、一心イーシンが発言する。
 断言してみせるからには、何かしら心当たりがあるのだろう。

「……では、一心殿。彼女に、いったい何が起きているのだ」
「彼女は、桃英さまのことを覚えていないのでしょう。ゆえに彼女は、四宵であって、四宵ではありません」
「何故だ……どういうことだ!」
「失礼ながら、僕から申し上げられることは、そう多くありません。『マオ族の機密事項』にふれますので」
「この期に及んで、何を勿体ぶることがあるというのか、一心殿!」
「『猫族の機密事項』……そうだ」

 先日一心から告白されたことを、思い出した。と同時に、早梅は葛藤する。

「いけませんよ、梅雪メイシェさん。……いまは、まだ」

 いまに開きそうになる早梅の唇を、いつの間にか歩み寄っていた一心の指先が、押しとどめた。

「一心さまっ……!」
「信じましょう。桃英さまならきっと、彼女を……」

 みなまで聞いていられなかった。
 早梅はたまらず、一心の胸にすがりつく。

 父が渇望する答えを、おのれは知っている。
 それなのに、言葉にすることができない。してはならない。

 無力感に打ちひしがれ、肩を震わせる早梅を、一心はそっと、抱きしめた。

「桃英さま、ひとつだけ申し上げられることがあるとすれば、此度の件……彼女が蠱毒師に力を貸しているのは、彼女の意思によるものではないでしょう」

 それは、一心のできる、最大限の助言だった。

「ならば……」

 桃英も、一心の心遣いを感じ取ったのだろう。荒ぶる呼吸をひそめ、瑠璃のまなざしを、脇へ寄こす。

「貴様らの仕業か。言え。四宵に、何をした」

 鋭い瑠璃の眼光に射抜かれた蠱毒師が、ハッと鼻を鳴らした。

「何って? ホントはわかってるくせに!」
「そうだよ。そこのおねーさんは、わたしたちのお人形さんなんだ!」

 それはつまり、四宵の体内にも、蠱毒が打ち込まれているということ。

「彼女は僕とおなじように、『空間支配能力』を持っています」
「となれば、私たちをここへ呼び寄せたのも」
「えぇ、彼女でしょう。そして、黒装束の彼らの縦横無尽な動きも、おそらく彼女の能力によるものです」
「四宵さまを利用して、戦況を有利に持っていこうと画策しているわけですか。涙ぐましい努力ですね」
「……外道めが」

 一心の見解に、蠱毒師への怒りが募った早梅が皮肉を返せば、桃英が低い声音で吐き捨てる。

「でも、だから何?」
「わたしたちの毒を、どうにかしようってわけ? どうにもできやしないでしょ!?」

 蠱毒は、呪いだ。
 獲物をがんじがらめに捕らえ、その生を貪り食う、忌まわしき毒。
 下手にほどこうとすれば、巻き添えを食らってしまう可能性さえある。だとしても。

「四宵……四宵」

 愛しいひとへ呼びかけることを、桃英は諦めなかった。

「君が私を忘れても、私が君を忘れたことは、一瞬たりとてなかった」

 沈黙。四宵は口を閉ざしたまま、身じろぎひとつしない。

「ある日ふらりと百杜はくとへやってきた君は、愛嬌があって、働き者なのに、どこかおっちょこちょいで、抜けていて、世話焼きな桜雨ヨウユイにいつも叱られていた」

 今一度、四宵の目の前でひざをつく桃英。
 差し伸べられた右手がほほにふれたとき、ぴくりと、四宵が反応を見せた。

「君と桜雨のやり取りを見ていると、なんだか私の気まで抜けてしまって、日々のしがらみを忘れられた。君が気恥ずかしそうに聴かせてくれた琵琶の音に何度聴き惚れて、何度君から目が離せなくなったことだろう」
「……私は、知らないことです」

 ふれる手を押しのけようとする四宵だが、その細い手首を、桃英がさらう。

「君は儚く見えて、強いひとだった。一族を飛び出して、たったひとりで生き抜いてきた。血のしがらみに縛られない意志の強さを、抗う勇気を、自由を望むことを、その生き様で、私たち兄妹に教えてくれた。君が、未来に絶望する私と桜雨を救ってくれたんだ、四宵」
「知らないと言っているでしょう、さわらないでッ!」

 桃英を突き飛ばした四宵が、琵琶を引っつかみ、力まかせに弦を掻き鳴らす。
 絹を引き裂くような高音が鳴り響き、放たれた音波が、三日月形の衝撃波となって桃英の右肩を引き裂いた。

「ぐっ……」
「私とおなじ音功おんこうの使い手なのか! お父さまっ……!」

 すぐさま駆け寄ろうとする早梅だが、そのときだ。地中から突き出した氷の柱が、桃英たちの周囲を取り囲んでしまった。
 言うまでもなく、桃英の氷功によるもの。
 手出しは無用だと、確固たる意思表示に違いなかった。

「桃英さまほどの実力者であれば、彼女の攻撃を避けることなど、容易かったでしょうに……」

 だが、甘んじてその一撃を受けた。
 桃英が何を想い、何を成そうとしているのか、もしかすれば、一心はいち早く察したのかもしれない。
 近づくことが叶わぬいま、早梅たちは、行く末を見つめることしかできなかった。

「四宵、私はずっと……君に謝りたいと、思っていた」
「来ないで、ください……」

 衣が裂け、右肩に血をにじませながらも語りかけることをやめない桃英に、四宵がうろたえる。
 四宵が琵琶を抱きしめ、後ずさると、それよりも大きな歩幅で、桃英が歩み寄る。

「桃の花が見たいと。雪景色の中、身を寄せ合いながらともに春を待ちわびていたのに……私は、君のねがいを叶えることができなかった。子を授かったことも、私に迷惑をかけないようにと、君が独りで悩んでいたことも、気づけずに……私は、大切な君を守ることができなかった、大馬鹿者だ。本当に……すまない……」

 声を震わせた桃英が、懺悔するように、頭を垂れる。
 そのひたいが肩口にふれたとき、四宵の紫水晶の瞳が、ゆらめく。
 肩に感じるぬくもりを、知っているような気がして。

「だが四宵、これだけはわかってほしい。君が私の迷惑になるだなんて、そんなことはあり得ない。君が突然すがたを消して、私が発狂したことなど知らないだろう? 血眼になって、諦めも悪く何年とさがしていたことも」
「わたし、は……」
「紫月を目にしたとき、君の子だと、すぐにわかった」
「……ずー、ゆぇ」
「そうだ。紫月……旭月シューユェ。私と、君の子だ。あの子は梅雪をよく可愛がってくれた。愛してくれた。こんな私を……父と慕ってくれた。大切な、家族だ。でも、君が……君だけが、いなかった。私の世界は、満たされながらも、欠けていた。感じた幸せが、指の隙間からこぼれていくように……」
「やめ、て……」
「私には君が必要なんだ。ずっと……ずっと会いたかった。つたえたかった」
「それ以上は、もう……」
「四宵……君を、心から、愛している」
「──ッ! ちがう、違う違う違うッ!」

 ザン!

 でたらめに琵琶が掻き鳴らされ、桃英の左頬を音波が切り裂く。

「ちがう、ちがうわ……こんなの、知らない……私は、四宵じゃない……っ」

 からんからんと音を立て、琵琶が転がる。
 地面へ崩れ落ち、両手で顔を覆う四宵の震える肩へ、そっと桃英の右手がふれた。

「そうだな……私の想いが、君を苦しめてしまうかもしれない。けれど、どうか諦めてくれないか。私は君を、諦めることなどできない」

 ほほの傷から口の端へ血を垂らしながらも、桃英はうつむく四宵の目線までかがみ込む。そして両手で、四宵のほほを包み込んだ。

「君を、愛している」

 穏やかな声音に吸い寄せられるように、顔を上げる四宵。
 そこには、ひどく愛おしげに細められる瑠璃の瞳があった。
 はたと呼吸を忘れた四宵の背へ腕を回した桃英は、やさしげにほほ笑み、吐息を寄せる。

「……んっ」

 唇と唇が、かさなる。
 四宵が呆然と動けずにいると、よりいっそう抱擁を強めた桃英が、さらに深く口づける。
 しばしの間、ぼうっと熱に浮かされたように桃英へ身をゆだねていた四宵だが、突然かっと紫水晶の瞳を見ひらく。

「んぅっ……んんぅっ! ふはっ……やっ……!」
「逃げるな、四宵」

 胸を激しく叩かれても、桃英は四宵を手放そうとはしなかった。

「すこしの間だから……辛抱してくれ」

 そういって、決して四宵を逃がそうとはしない。
 真っ青になった四宵が吐き出そうとするものを──先ほどの口づけで四宵の口に含ませたおのれの血を、ふたたびの口づけによって閉じ込める。

「んん……んぅうっ……」

 なす術のない四宵が、こくりとそれを嚥下したとき、ようやく桃英は唇を離す。そして。

「うッ……あぁ…………あぁあああッ!!」

 四宵の絶叫が、闇夜に響きわたった。
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